1-4 遺産が気になるのかな

 どこに行っても狼の人形があるので、落ち着かないことこの上ない。しかし父にあんな態度を見せられては、片づけるわけにもいかない。


 父が最期を迎えるまではこのままにしておこう。

 私は居間で狼に囲まれながら、お茶を飲んでいた。由希さんの加減は見事で、ちょうどいい薄さだった。私は濃い茶が苦手なのだ。


「由希さん、ちょっと気になることがあるんですけど」

「誠次さんのことで?」

「いえ、ついさっき――」

「あ、彩香あやかさん達だ」


 私が言いかけた時、由希さんが庭を見て言った。

 ブルーのインプレッサが駐車スペースに入っていく。

 彩香……誰だっけ、と考えて、叔母の夏見なつみ彩香だと思い出す。父の妹で、地元の実業家と結婚した人物だ。


「旦那さんと一緒に時々様子を見に来るんだ」

「遺産が気になるのかな」

「あはは、竜吾君、それ本人に向かって言っちゃいけませんよ?」

「わかってますよ」


 私だって無用な諍いは起こしたくない。


「こんにちは……あれ、どなた?」


 細身の、黒髪の女が現れた。

 彩香さんは五十後半のはずだが、ずいぶんと若く見えた。薄化粧で、肌には健康的な明るさがある。黒いロングスカートに白いブラウスとシンプルな服装だった。


「お久しぶりです、竜吾です」

「……ああ! あなた竜吾君なの!? 見違えた!」

「まあ、最後に会ったの高一の時ですし」

「そんな前だっけ。へえー、いい男になったわね! いま何やってるの?」


 私は父にした説明を繰り返す。

 静岡の田舎で中学教師をしていること。教員住宅で質素に生活していることなどを。


「ふーん、田舎で先生やるならこっちでもよかったんじゃない?」

「ちょっとした気まぐれです」


 適当な返事をすると、

「この家、居づらいものねえ」

 と見透かしたように言われた。


 息子と妻を相次いで失って、父は頻繁に外出するようになった。

 猟や釣りに出かけていたのだ。

 それだけならいいのだが、服に血をつけたまま帰ってきたり、獲物を片手に道を歩いてきたりしたので、警察に尋問されたことも一度や二度では済まない。


 仕留めた猪を持ってきた時など、私も由希さんも――彼女の父親である秀信ひでのぶさんも大変な目に遭ったものだ。臭いはひどいし、血抜きがしっかりできていないから、食べてもおいしくないのだ。


 そんな人物の息子だから、私が近所の人間といい関係を築けなかったのは当然だった。


 家族は面倒ごとばかり起こす。近所の目は冷たい。家から離れたくなるというものだ。


「兄さん、ずいぶん駄目になっちゃったでしょ」


 彩香さんもこたつの前に座った。


「正直、まだマシでしたよ。まったく話せないんじゃないかと思ってました」

「ま、もう長くないって聞いたらそう考えるわよねえ。でも、話せるうちに竜吾君が帰ってきてくれてよかったんじゃないかしら。全然帰省してこないっていうのは気にしてたようだし。――そうだよね、由希ちゃん」


 由希さんは小さく頷くだけだ。


「親父は、ぼくになんてあんまり興味なさそうでしたけど」

「そう?」

「はい。一緒に出かけたこともないし、進路を決めた時も、あっさり『それでいいんじゃないか』って言われましたし」


 学費を払ってもらったことには、もちろん感謝している。……いや、感謝よりは罪悪感を覚えていたような気もする。


 父にとって、私は重荷でしかなかったのではないか。そう考えるくらいには関わりが薄かった。本当に親子なのかと不安になるほどに。


 ――あんな奴には興味なんてないけれど、一応家族だし払ってやらなければいけないんだろうなあ――


 高校生の頃の私は、父がそんな風に考えているのではないかと、かなり深刻に悩んでいたものだ。


「やっぱり、清吾君の事件のせいかしらねえ」

「どうでしょうね」


 私は曖昧に答えるしかない。


「どうも、こんにちは」


 ちょうどそこに、五十半ばくらいの男が顔を出した。

 黒いスラックスに薄手のジャケットを着ていた。髪はいくらか白髪が混じっているが、オールバックにしているせいか、老いよりも貫禄を感じさせる。


「竜吾君、この人わかるっけ」


 彩香さんに訊かれ、私は頷く。


健作けんさくさんですよね?」

「おお、覚えててくれたのか。いや嬉しいな」

「さすがに忘れませんよ」


 彩香さんの夫である健作さんは、よく親族の集まりに顔を出していた。日守家の人間である彩香さんよりも派手に飲み食いしていたのをよく覚えている。そのくらい図太くなければ大きな成功は収められないのかもしれないな、と中学生の私が思ったくらいだ。


「忙しいだろうに、よく帰ってこられたね」

「夜に爪を切ったことはありませんから」


 健作さんは首をかしげた。

 夜に爪を切ると親の死に目に会えなくなる――という迷信を、子供の時によく聞かされたのを思い出したのだ。たぶん、暗いところでの爪切りは危ないから、言い伝えという形で戒めようとしたものだろうが。


「ところで竜吾君、この人形にはびっくりしただろう」

「しました。ぼくが上京した時にはまったくなかったので」

「ここ数年、飽きもせず続けていたんだ。我々が様子を見に来た時も、淡々と掘ったりニスを塗ったりしてたんだ。正直不気味だよ」


 まったくだ。


「再会していきなりこんなお願いをするのもアレだけど、できれば竜吾君の方から、これを片づけたいと誠次さんに提案してみてくれないかな?」

「さっきしましたけど、いきなり大声でやめろと言われまして」

「え、大声出したのか。余計な体力使っちゃって大丈夫かね」

「さあ……。というか、健作さん達はここに住んでるわけじゃないんですよね? だったら無理に片づける必要はないんじゃ?」

「でもさ、来るたびにこんなモノに睨まれてたんじゃ嫌な気分になるじゃないか。竜吾君は平気なのかい?」

「いえ……」


 居心地が悪いのは確かだ。

 しかし、さっき私が考えたように、父が死んだら片づければ済む話である。私を挟んでまで頼む必要もないだろうに。


 私は、健作さんに少々の疑問を抱いた。

 父の遺産を狙っているのは、彩香さんではなく、健作さんの方なのではないか。

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