第1章
1-1 帰郷
猛暑は夏の階段を駆け上がって秋の空に消えた。
八年ぶりに踏んだ長野の地は、すっかり涼しくなっている。
長野駅前のロータリーに出て振り返る。北陸新幹線の開業によって様変わりした、長野駅の駅舎が構えていた。上京する時、ここは寂れていく一方だろうと思っていたが、意外に地方は強い。
キャリーケースを転がしてスクランブル交差点を渡る。
道の左端に黒のヴィッツが止まっていた。
私は携帯のメール画面を開く。目的の車であることを確認した。
助手席の窓を叩くと、ガラスが下がっていく。
運転席には女性が座っていた。長袖Tシャツにカーディガンを羽織った、化粧っ気の薄い人だった。
「竜吾君……だよね?」
相手は、戸惑い気味に私の名前を呼んだ。
「そうです、日守竜吾です」
「ああ、よかった。もし違ったらどうしようって」
「でも、あんまり変わってないでしょう?」
「そんなことないよ。なんていうのかな……すごく仕事のできる男って感じの顔になったと思う」
「そうですかねえ」
「いいから、乗っちゃって。長時間の停車は迷惑になるんだからね。あ、ケースしまうの手伝おうか」
「大丈夫ですよ、これくらい」
私はトランクにキャリーケースを入れて、助手席に乗り込んだ。
車が走り出すと、懐かしい風景が視界を横切っていく。
スーパーに古本屋、大型複合ショップ、銀行、ガラスに水が流れ落ちて店内が見えなくなっている美容室。
何もかもが懐かしく感じられた。
そして、隣で運転している、松谷由希の存在も。
「それで……親父はどうなんです」
父に死が近づいている。
そんなメールが届き、私は帰郷を決めたのだ。
「今はお屋敷にいるよ」
「え、病院じゃないんですか?」
「先が長くないってわかったら、最期は家の布団で迎えるって言い出してね、一週間前に戻ってきたところだったの。それからもう、日に日に弱っていってるから……」
「ぼくを呼びつけたと」
「竜吾君は嫌がるかもって思ったんだけど、それでも家族に関係することだから」
「ぼくにも、親父と正面から話したいって気持ちはあったんです。ただ、なかなか決心がつかなかっただけで」
「そっか。まあ、わかるけどね」
由希さんは小さな声で言う。
「実はね、竜吾君が上京した年の夏にも体調崩して入院したの。その後もひどく具合が悪くなる時が何度か出てきてね、たぶん本人も、そう遠くないうちにこうなることは覚悟してた気がするんだ」
「そうだったんですか……」
それ以上の返事はできなかった。
「学校の方は?」
「休暇を出してきました。代わりはいるので大丈夫です。三年生を受け持ってるわけじゃないので、受験の心配もないですし」
「若い子に囲まれてると楽しいでしょ」
「なんか、年寄りみたいな言い方ですね」
「そう? ま、もう来年で三十になっちゃうしねえ」
「充分若いじゃないですか」
由希さんは今年で二十九。働き盛りの年齢である。外見も整っているし、気配りもうまい。衰退した地元名家の家事よりも似合っている職種は山ほどあると思う。
子供だった自分が由希さんにどれだけ迷惑をかけてきたのかは、思い出したくもない。やんちゃなどではなく、人と話せない時期が長かった。由希さんに意味もなく冷たくしてしまったことは何度もある。
「屋敷は相変わらずぼろくなる一方ですか?」
私は自分の実家――日守亭のことを考える。
邸ではなく、亭。
我が家は飲み屋から大発展を遂げた家系なので、記述する時は必ず〈日守亭〉と書く。ずっと昔から続いている習慣で、父もそれに倣っているそうだ。難儀な家である。
最後に見た日守亭は、まだ純粋な日本屋敷という趣があった。だが、塞ぎ気味の父では管理などできないと思ったので、荒れていても仕方はないと覚悟はしていた。
「建物自体はまだまだ平気だよ。ただ、庭がね……」
由希さんは気まずそうに言う。
気の進まない話を無理にさせたくはない。それより先は訊かないことにした。
車は中央通りを北上していく。
道が石畳に変わった。正面に善光寺の参道が延びている。平日にも関わらず、たくさんの人が歩いていた。外国人観光客の姿が多い。長野観光に訪れる外国人は年々増えていると聞いたが、目に見えてわかるほどとは。
善光寺の塀に沿って車道が造られている。
ヴィッツは門の手前で左折し、細い道を器用に走った。寺の西側に出ると、太陽の光がまぶしくなる。道が広くなった。
裏手に回って、貯水池の手前を左折する。
広々とした道を抜けて右折する。細めの道を進んでいくと、木の塀に覆われた家が現れた。急な登り斜面を背にして、屋敷はたたずんでいる。隣家との間隔はかなり広い。
「確かに、あんまり変わってないな」
私の生まれ育った、日守亭だった。
木でできた正門は開けっ放しになっている。幅がそこまで広くないので、由希さんはゆっくり車を入れる。
左手の駐車スペースにヴィッツが止まった。
「あらためて、お帰りなさい、竜吾君」
「ただいま、由希さん」
気恥ずかしさを感じつつ、私は返事をした。
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