3-9 感情は交差しない
帰りの道中、考えるべきポイントを頭の中で整理してみた。
清吾を誘拐したのは誰か。
なぜ清吾を誘拐したのか。
犯人が一千万という金額を設定したのはなぜか。
取引が成功したら、どうやって逃げ切るつもりだったのか。
取引中止後、清吾をどうしたのか。
いま挙げた要素の中に、一つの矛盾を発見した。
身代金の額から、私は犯人が日守家をよく知っている人間だと推測した。これは、よく調べた人間と言い換えてもいい。
どちらにしても、家の事情には通じていると思って間違いない。
それなら、なぜセントーを殺したのか。
セントーがもう、歩き回ったり吠えたりする気力もないほど弱っていることを知らなかったのか?
木戸から屋敷に侵入するのなら、犬の存在は無視できない。犯人が調べなかったとはどうしても思えないのだ。調べれば、セントーの状態はすぐにわかる。
迂闊にも失念していた?
そんなこと、ありえるだろうか。
たまたま、犯人は日守家の存在を知った。
たまたま、犯人は絶妙な金額の身代金を要求できた。
たまたま、飼い犬のことを調べ忘れてしまい、その場で殺した。
「都合がよすぎるな」
確かに、セントーの巨体に出くわせば焦るだろう。たとえ動けなかったとしても存在感たっぷりだ。
だったら、なおさら手を打っておく必要があるのではないか。
誘拐の直前、殴り殺すのに失敗したらどうなる。金槌が外れて変なところに当たったりしたら、さすがのセントーだって鳴いたのではないだろうか。
事前に薬を用意しておくとか、やり方はあったはずだ。
それらをせず、金槌で打ち殺した。どうも場当たり的である。
残酷な想像を働かせるのは胸が痛いが、入念に検討すべきポイントだと思う。
「謎が多すぎる……」
私はため息をついて、それ以上考えるのをやめた。
県庁通りの突き当たり、信州大学の教育学部前を右折すると、若松町交番のある十字路にぶつかる。ここで左折すると、善光寺の参道を通らず屋敷に帰れる。
しかし、あえて直進した。
取引現場に指定された善光寺の南を見ておこうと思ったのだ。
〈大門〉のスクランブル交差点で赤信号に引っかかる。すぐ青になった。左に曲がると、左右に様々な店舗の並ぶ通りが現れる。正面は善光寺への入り口である。T字路に配置されている信号のプレートは〈善光寺〉。
〈大門〉から〈善光寺〉までの直線数十メートルが、取引現場として指定されたのだ。警官は一般人を装って歩いたか、店の中や裏路地から様子を窺っていたのだろう。
犯人は〈善光寺〉側から走ってきてバッグをひったくり、〈大門〉方向へ駆けていく。そこに車がやってきて、乗り込んで逃走――。
実際に景色を見てみると、イメージが湧いてくる。犯人には相当の身体能力が要求されそうだ。相方がいなければ逃げ切るのが難しいのもわかる。
犯人に自信はあったのだろうか。やはり無理そうだと感じたからこそ、取引を中止したのではないだろうか。
ひとまず直進し、〈善光寺〉の信号を左折した。塀に沿って迂回して、北側へと進んでいくのだ。
善光寺の西側をぐるりと回って、裏側へ出た。
メモを想起する。
母は善光寺の敷地を突っ切らず、いま通ってきた西側から回って取引場所に向かったそうだ。塀と家屋にさえぎられて視界が悪い場所だった。追跡する警察にとっても、監視する犯人にとっても不利な地形だ。
〈善光寺北〉の信号を左折、右手の貯水池に目をやりながら車を走らせる。
ここから屋敷へと曲がる道までの通りも、直線である。見通しが利くので、やはり警察と犯人どちらにとってもよくない条件だ。
犯人はどこで警察の存在に気づいたのか。
「……犯人も警察に見つかる危険があるな」
この道路では、監視する犯人も、母や周りの様子を窺いながら移動というのが、かなり難しいのだ。
すると実行犯は三人以上いたのか?
通りを監視する人間が一人。
受取人が一人。
逃走用の車を運転する人間が一人。
こうすれば、警察の動きを比較的安全に確認できそうだ。その結果として、追跡中の警察官が見つかり、取引中止の流れになった。
一応、説明はつく。
問題はそのあと清吾をどうしたかだが、ここでは考えないでおく。
母の辿った道を見直せたので、まずはそれで良しとしよう。
†
屋敷に戻って、夕方。
私は父の様子を見に、中座敷に入った。
父は横向きで寝ていた。顔のすぐそばに洗面器が置かれている。
「親父、吐きそうなのか」
「いや……この方が、今は楽だ……」
「そうか」
どうしても、声が冷たくなるのを抑えられない。
大学まで出してもらったことは、もちろん感謝している。だが、父の奇行によって受けた傷はあまりにも多かった。
そして、私と向き合ってくれなかったことに対する不満は、今でも抱えている。
「昼間、桃山の娘さんが来てたんだ」
「ああ……」
「でね、さっき秋乃さんから色々と聞かせてもらった。親父、あの人に高明と清吾の幽霊を観察してもらってたそうじゃないか」
うむ……とかすれた声が返ってくる。
「なんで誰にも言わなかったんだ? やっぱり、こんな話は信じてもらえないと思ったからか?」
「…………」
またしてもだんまりだ。
「今、清吾の事件を調べてる。あの事件は、ぼくの中ではまだ風化していないんだ。親父が警察にも言っていないことがあるなら教えてくれないか。もう恐ろしい夢にうなされるのは嫌なんだ」
「警察から、話は聞いたか」
「片山さんって人からは聞かせてもらった。当時の捜査員だったみたいだね」
「なら……それ以上の話は、持っていない……」
「嘘をつくなよ」
言ってから、ぐっと唾を呑み込んだ。自分でも驚くほど低い声が出たからだった。
「秋乃さんは、清吾の幽霊を探しに来たと言っていた。頼んだのは親父だろう。ちょっとつついただけでもこんな話が出てくるのに、知らないとは言わせない」
「清吾も、高明と同じかと、思っただけだ。確かめてみたかった」
「死を認識できているか云々ってやつだろ。それが上天会の教義にもなっている」
「秋乃は、清吾を見つけた。だから、そういうことなのだ。小春に伝えたら、たちまち寝込んだが」
「当たり前だっ!」
思わず掴みかかりそうになる。
息を吐いた。二度、三度。深く、長く、吐いて、吸って。それでどうにか感情をねじ伏せる。
「親なら、子供の生存を信じるのが普通じゃないのか。母さんはぼくに言ってくれたよ。『清吾は大丈夫、絶対に生きている』って。母さんは諦めてなかった。親父だってそれは見てきたはずだ」
「…………」
「なのに、頼みの父親が『清吾はもう死んでる』なんて言ったら、そんなのショックを受けるなんてレベルじゃないだろう! たとえ秋乃さんがそう言ったからって、確信して伝えるようなことじゃない!」
「だが、早く諦めた方が、楽だ……」
「本気で言ってるのか? 母さんが体をおかしくしたのはその時からなんじゃないのか、どうなんだ!?」
顔を近づけて大声を出す。父は眉を寄せて、口を横に大きく開いた。噛み合わされた歯が私を拒絶しているように見えた。
「ずっと妙だと思ってたんだ。いくら七年経って清吾が死亡扱いになったとしても、仏間にすぐ遺影をかけるなんてのは父親としておかしい行為じゃないかってね。秋乃さんに見つけてもらって、もう駄目だとわかってたからさっさと作ったってわけか。本当に仕事が早いな」
「黙れ……。頭に響く……」
私は無視した。
「母さんの遺影の横に清吾の遺影がかけられた時、ぼくがどれくらい悲しかったか想像できるか? いや別にしなくてもいいけどな、あんたのやってきたことに、今ぼくが耐えきれなくなってるんだ。だから黙らないぞ」
「うるさい……、もう帰れ……」
「ここが家だ。帰るも何もない」
父は布団を頭までかけようとした。私は右手でそれを封じる。父のぎょろりとした目が、私を見上げてくる。私は睨み返した。ただただ怒りが抑えきれなくなっていた。
「母さんが病気になった遠因は親父の発言にある……」
「言いがかりだ……よく、おれにそんなことが言えるな……」
「自分の残酷さを棚に上げて、よく言えるな。それこそ驚きだよ」
バタバタと畳を打つ音がして、戸が開いた。
「ちょっと、なに言い合ってるの!?」
由希さんが飛び込んできた。
「竜吾君、こんな時に口論やってる場合じゃないでしょ!」
有無を言わせぬ勢いで、由希さんが私の脇に腕を入れてきた。
「待ってください、まだ言い足りない……」
「いいから立って! こっち来て!」
強引に立たされた。抵抗できないほどの強い力に驚く。
由希さんは、私を突き飛ばすように廊下まで押し出した。その顔に怒りはなかった。悲しそうな、困ったような顔だった。
私は相手の目を見つめた。
怒鳴られるか、頬を叩かれるか、そのくらいは覚悟した。
「もう、何もかもが昔と違うの。気持ちはわかるけど、状況だけはちゃんと考えて」
こぼれた由希さんのため息が、私の怒気をしけらせていく。
「竜吾君は、誠次さんを殺したいわけじゃないでしょ? そうだよね? 私は、そんなの絶対に見たくないよ」
それだけ言うと、由希さんは父の元へ戻っていった。布団直しますね、痛いところないですか、といつもの声がした。
私は、ようやく冷静さを取り戻しかけていた。
私は死にかけの病人を、さらに追い詰めるような行為をしてしまった。
父の前ではすぐに苛立ってしまう。向こうの言葉が、すべて怒りのトリガーになる。感情を殺しきることができなかった。
仰ぐように天井を見る。木目がぐねぐねと黒ずんでのたうっていた。紋様が目のように見えてきた。私を責め立てる、厳しい目つきのように。
……もう寝よう。
今は、意識を落としてしまうのが一番楽な手段に思えた。
自室に入って、布団に倒れ込む。視界は真っ暗だ。今はそれでいい。何も見たくない。
私に無関心な父と、親子喧嘩をしてみたかった。
感情を剥き出しにして本音をぶつけたかった。
けれど、結局は私が一方的に責め立てているだけだった。父が怒鳴り返してくれたら、どれだけ嬉しかっただろう。
父は意地でも、私と向き合おうとしてくれない。最後の最後まで、それを貫くつもりでいるのだろうか。
だとしたら、あまりにもむなしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます