第4章
4-1 気分転換
「竜吾君、勝手に入っちゃうよ」
そんな声が聞こえて、ずん、と全身に重さがのしかかった。うぐ、と思わず呻く。
布団から顔を出すと、由希さんの明るい顔があった。
「嫌な夢、見なかった?」
「大丈夫でした……」
声がガラガラだ。最近、あまり大声を出していなかったからな。
「誠次さんは落ち着いてるから安心して。今日はご飯もスプーン四杯食べられたんだよ」
「昨日は、本当にすみませんでした」
「しょうがないよ。竜吾君だってつらい目に遭ってきたんだもん。私が責めちゃいけないことだからさ」
「そう言ってもらえると、ちょっと気が楽になります」
由希さんは微笑んだあと、いきなり唇を押しつけてきた。柔らかく温かな感触。一気に体が熱くなった。
「目は覚めた?」
「はい。……でも、もう一回」
今度は私から抱き寄せて、唇を合わせた。両腕で由希さんを強く抱きしめて離さない。
布団を挟んでいるから、相手の体温が伝わってこないのが少しだけ物足りない。由希さんが合間に漏らす吐息がたまならく愛おしく、何度もキスを繰り返した。
それだけで、もやもやとした気持ちが晴れていった。
「もう、竜吾君ってば急に情熱的になるんだから」
「由希さんだって、すごくぶつかってきたじゃないですか。さっき歯が当たったの、地味に痛かったんですけど」
「お、私のせいにするわけ?」
「次はうまくやってください」
「じゃ、今やり直すね」
またキスされた。それで、終わりだった。
「本来の目的を忘れてたよ」
私から掛け布団を奪った由希さんが言う。私は丸まって、逃げる体温を維持する体勢を作った。
「彩香さんから電話があったんだ。いま稲刈りやってるんだって」
「あの家、田んぼ作ってたんですか」
「そうなのよ。それで、竜吾君が暇だったらちょっと手伝ってくれないかって。気分転換になりそうだし、行ってきたら?」
「何かやることあるんですか? 全部機械ですよね?」
「はぜ棒を運ぶのだけ手伝ってくれればいいって言ってたよ」
「あれかー。重たいんだよなあ」
「竜吾君なら大丈夫でしょ。筋肉ちゃんとついてるもん」
仕方がない、ここは従おう。私はのそのそ起き上がった。
朝食後、由希さんの用意してくれた作業着を身に纏う。濃いブルーのつなぎだった。久しぶりの感覚なので動きづらい。
玄関に出ると、ちょうど健作さんの乗った軽トラが門の前に現れた。電話してきた彩香さんは来ないのだろうか。
「おはようございます」
「やあ、おはよう。悪いね、こんな時だけど晴れてるうちに終わらせちゃいたいんでね」
「はぜ棒を運ぶだけでいいんですね?」
「うん、それだけだ。あれがどうにも重労働で」
「会社の人に頼んだりはしないんですか?」
「昔住んでいた家に道具を置いてあるからね、下手に知られたくないんだよ。その点親戚なら安心だ」
「なるほど」
私は助手席に乗り込む。由希さんが見送りに出てきてくれた。
「怪我しないようにね」
「気をつけます」
じゃあ行くよ、と健作さんがアクセルを踏み込んだ。軽トラが跳ねるように発進した。
「はは、悪いね、いつもオートマを運転しているからマニュアルは久々で」
「わかります。軽トラ、クラッチ固いですよね」
「そうなんだよ。これも本当はそろそろ替え時なんだけど」
「いっそ替えちゃった方がいいんじゃ?」
「まあ、事業の様子を見てだね」
「うまくいってるって聞きましたけど」
健作さんはスーパーの経営者だ。長野市を中心に、何店舗か展開している。私が通っていた高校の近くにもあったので、よくお世話になっていた。
「うまくいってるって? 誰が言ったのかなあ」
「実際は違うと」
「このご時世、そううまくいくわけないだろう? 去年、採算の取れない店舗を二つ閉鎖したんだよ。それで少しだけ楽になった、それだけの話さ」
「静岡でも閉まっちゃう店、けっこう多いですよ。どこも似たようなものなんですかね」
「さあねえ」
健作さんは曖昧な返事をした。
軽トラは市内を北上して浅川方面へ進んでいる。右手に長野高校のグラウンドが見えた。
すぐそば、
ここはあまり変化がない。ガソリンスタンドが閉まったくらいで、ラーメン屋も、スイーツ店も、みんな昔と同じように残っていた。
北へ北へと軽トラは快走する。
「田んぼの道具は全部ここにあるんだ」
私達は軽トラを降りた。
以前、健作さんと彩香さんはこの家で暮らしていたらしい。起ち上げたスーパーが軌道に乗っても、健作さんはすぐに新しい家を建てなかった。経営が安定してきてから、ようやく引っ越したのだ。
健作さんが鍵を回して開けた。
埃の臭気がすさまじく、じっとりしている。おそらくネズミが歩き回っているのだろう。鼻で呼吸すると吐きそうだ。
玄関の左側に廊下が延びていて、はぜに使う棒が山積みになっていた。知り合いから融通してもらったという丸太である。
「鉄の棒は使わないんですか?」
「これが駄目になるまでは使わないつもりだよ。大量に必要な物は本当にいるかよく考えないとね」
健作さんが廊下の窓を開けた。
「こっちからの方が出しやすいんだ」
私は丸太の端を掴んで、引っ張った。丸太が斜めになって、部屋の柱をこする。
「傷なんて気にすることないさ。遠慮なくやってくれたまえ」
一本目を引っ張り出す。
「これ、そのまま乗せていいんでしたっけ」
「えーとね、ああ、順番間違えた。足棒が先だったね」
健作さんは庭の隅っこにある小さな物置に入っていった。写真撮影に使う物に似た、銀色の三脚を持ってくる。足先の近くに円盤のように丸い鉄板がついている。これを田んぼの土に埋めて安定させるのだ。
「この円盤に丸太を乗せると滑り止めになってくれるんだ」
「じゃ、こっちから乗せちゃいますか」
私達は手早く足棒をすべて積み込んだ。
続いて丸太を乗せていく。上部は軽トラの頭に、下部は足棒の円盤にこすらせるようにして置く。
健作さんが慣れた手つきでトラロープを巻いて固定した。
「よし、ありがとね。すぐ行くよ」
私は頷き、軽トラに乗り込んだ。
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