4-2 まともだった頃の父
車は浅川ループ橋を登っていく。ぐるりと円を描いた道は、長野オリンピックの際に造られたものだ。
トンネルを二つ抜けて上がっていくと、やがて棚田が見えてきた。道路沿いである。健作さんは道路と畦の境目に軽トラを止めた。
「田んぼを作らなくなった家から借りてるんだよ」
「だからこんな上にあるんですね」
稲はすでに刈り終わっていた。田んぼのあちこちに、機械で束ねられた稲が山のように積んである。
「竜吾くーん、来てくれたんだ」
前掛けをつけた彩香さんが手を振ってくる。私も振り返した。
田んぼには彩香さんしかいなかった。夏見家にも子供がいたはずだが。
「うちのガキどもはこういう仕事が嫌いでね。理由をつけて出かけちゃうんだよ」
トラロープを解きながら、健作さんが呆れたように言った。社長であろうと人の親なのだなあ、などと余計なことを考える。
私は一本ずつ丸太を田の中に入れていく。土はだいぶ乾いていて歩きやすかった。
健作さんは足棒を広げて、間隔を見ながら立てていく。
広がった三脚にJの形をした金具――鍵っこと呼んでいる――をぶら下げる。鍵っこの上部は二股になっているので、上下二本の丸太が安定してかけられるようになるのだ。
足棒は三脚と二脚がある。三脚は両端と真ん中、二脚がその間に置かれる形になる。丸太は上下一本ずつ、全部で四本かける。これで、ひとはぜになる。
健作さんの指示を受けながら、四はぜほど作った。
あとは、ここに刈った稲をかけて乾燥させるのだ。
「いやぁ、やっぱり二人でやると早いねえ。助かったよ」
健作さんが汗をぬぐいながら言う。
たいしたことはしていないが、不思議と達成感があった。
「ちょっと休憩したら送っていくよ」
「もう帰っていいんですか?」
「いいとも。はぜ棒を運ぶのだけは、どうしても一人じゃつらいからね。それさえやってもらえれば充分さ」
畦にクーラーボックスが置かれていた。
「竜吾君、コーヒー飲めるかい?」
「微糖ありますか?」
「あるよ。僕も微糖派なんだ」
缶コーヒーを受け取って、畦の傾斜に座った。
「誠次さんは変わらずかい」
健作さんが隣に座ってきた。その向こうに彩香さんもやってくる。
「ずっと寝たままです。由希さんに見てもらってばっかりで」
「そうか……。しかし君、万一の場合はどうするつもりだい? 帰ってくるのかい?」
少し、考える。
「迷ってます。親父が死んだら、あの家はぼくが継がなきゃいけないんですよね」
「そうだな。判断は君がすることだけどね」
「判断とは?」
「継ぐのか、売るのかさ」
「……ああ」
「ちょっと貴方、こんなところでする話じゃないでしょうに」
彩香さんが健作さんの袖を引っ張った。
「いっそ、健作さんがもらってくれてもいいんですけどね」
「冗談だろう? あんな生活しづらい屋敷は勘弁だ。今の家ならキッチンは最新式だし、トイレや風呂だって……」
「こらこら」
またしても彩香さんに注意される健作さんだった。
私は、健作さんが屋敷を所有したいのでは、と考えていた。どうやらそれは違うようだった。
健作さんの言うことはもっともだ。屋敷の設備はどれも古すぎる。趣を感じる、と言えないこともないが、機能面から言えば新しい家の方がよほどいい。私はそこまで物好きな人間ではない。
しかし、
「ぼくとしては、あまり売りたいとは思えないんですけど……」
その気持ちが強いのも事実だ。
私の人生の根幹を形成した場所。あまりにも苦しい思い出が多すぎる場所。
それだけに、簡単に手放してはいけない気がするのだ。
「竜吾君はそう言うと思ったよ」
彩香さんが私の顔を見ている。
「あたしにとっても、あそこは大切な場所だから」
「色んな意味で思い出が詰まりすぎてますからね。なんか今は狼に囲まれちゃってますけど」
「狼かあ。あれを作った理由、教えてもらえた?」
「いえ、とてもそんな状態じゃなさそうなので」
「そう……。あれ、なんで家に背中向けてるのかしらね?」
「ぼくにもよくわからないんですよ。家中を囲む必要もあるのかなって感じですし」
「あ、そうだ!」
彩香さんがパチンと手を叩いた。
「兄さんの部屋に行けばなんかわかるんじゃない? 日守家って家で起きた逸話とか、信仰してる伝説とかを全部当主が記録つけてるのよ。兄さんって書斎に人を入れなかったけど、今なら入ってもばれないでしょ?」
「問題ないでしょうね。早速帰ったら調べてみます」
私達は、三人並んでコーヒーをすすった。
「日守家の田んぼは、秀信さんが一人で見ているんだったね」
健作さんが言った。
「そうですね。ぼくも高校までは手伝ったりしましたけど」
機械の操作がわからなかったので、刈った稲を運ぶのが中心だった。他には、水がはけなくて機械の入れない場所を手で刈ったり。
「今は知り合いに手伝ってもらってるらしいです」
「三兄弟がみんな大きくなってれば、秀信さんも楽だったろうに」
「貴方って人はまた……」
ぺしっと彩香さんが健作さんを叩く。
「やあ、すまないね。こういう場所だと思ったことをすぐ口に出したくなっちゃって」
「気にしなくていいですよ」
それだけ、仕事の時は考えを封じ込めているのだろうし。
「清吾が無事だったら、きっとスポーツ選手になってたんじゃないかなあって考える時があります。高明のことはよくわからないですけど」
「高明君も走れるようになるのが早かったね。誠次さんは訪ねるたびに、自慢げに話してくれたものだったよ。この子は誰にも負けない強い子になるってね。高明君も、『ぼくが駆けっこで一位になるとお父さんがなでてくれる』なんて言ってたなあ。すごく嬉しそうな顔でさ」
「兄さんはつきっきりで面倒見てやってたものね。高明君って夜中に一人でトイレに行けないとか、鏡を見ると泣いちゃうとか、ちょっと怖がりなところもあったし」
鏡の方は私も経験がある。
「自分の顔が映ってるって理解できないんでしょうね」
「たまにいるらしいわね、そういう子供って。兄さんもそれには参ったって言って、寝室の大鏡を物置にしまったって言ってたわ」
私は少し、間を取った。
「……なんだか、親父がまともだった頃の話を聞くと新鮮ですね。ぼくが物心ついた時にはもう、普通じゃなかったので」
「まあねえ。言動もめちゃくちゃになっちゃったものねえ」
「そういえば誠次さん、高明君が死んだあと、もう子供は作らないって言ってたよね」
「え?」
私は硬直した。初耳だった。
「言ってたわね。だから小春さんがまた妊娠したって聞いた時は呆れちゃったわよ。あの頃、行動も矛盾だらけだったし誰も兄さんのやることは読めなかったわ」
「……母さんも、嫌々したんでしょうか」
私がつぶやくと、健作さんが左肩に手を置いてきた。
「竜吾君、それは無用の心配だよ。小春さんは君と清吾君が生まれた時、とても嬉しそうだった。高明の分まで育ててみせるって、涙まで流していたくらいだ」
「うんうん。あたしも病院でもらい泣きしちゃったもの」
「そうですか……」
「そうだとも。だから君が立派に成長したのを見て、小春さんだって天国で喜んでいるに違いないんだ」
健作さんは熱い口調で励ましてくれた。
「でも結局、親父はぼくらをかまってはくれなかったんですよね。アルバムを見ても、親父が一緒に映ってる写真はゼロですし」
「あたしも、それは納得できないなって思ったの。兄さんに注意したこともあるけど、ほとんど反応してくれなくてね。小春さんも甘くて、自分が見てるからいいんです、なんて言っちゃって」
「作ってみたはいいけど、やっぱり高明に比べると劣るって思ったんですかね」
「まあまあ竜吾君、すぐネガティブになるのはよくないよ。確かに誠次さんは冷たかったかもしれないけど、君はこうして立派に成長した。卑屈にならなきゃいけないことなんてどこにもないんだよ」
「そうよ。学校の先生なんでしょ? 子供達を導ける存在になったんだから、もっと自信持っていかなきゃ」
二人とも、ずっと私の成長を見てきた。だからこそ自信を持って言ってくれるのだ。
私はそれをありがたく思い、落ち込むのはそこまでにした。
コーヒーを飲み干すと、立ち上がった。
「そろそろ帰ります。親父の書斎を調べてみないと」
「わかった。送っていくよ」
残った彩香さんに挨拶をして、私は田んぼを離れた。
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