2-7 高明の死因

 屋敷に戻ってきたのは午後三時を回った頃だった。


「おかえりー」


 家に上がると、座敷の方から由希さんが顔だけ出した。

 不意に、心臓が跳ねた。さっき斉藤と恋愛話をしたせいだ。由希さんを妙に意識してしまう。


「親父はどうですか?」

「今は落ち着いてるよ。お昼は食べられなかったけど……」


 由希さんが廊下に出てくる。

 鮮やかなブラウンの髪。前髪をピン二つで留めている。肌は血色もよくて、鼻のラインはとてもすっきりしている。

 見れば見るほど、由希さんは美人なのだ。加えて家事は完璧、性格も明るい。

 これで彼氏がいないなんて本当なのだろうか? 隠しているだけでは?


「……どうしたの?」

「あ、いえ。なんでもないです」

「片山さんからお話は聞けた?」

「はい、おかげで色々整理できました。あらためて考えてみます」

「真剣になるのはいいけど、あんまり考え過ぎちゃ駄目だよ」

「わかってます」


 私は二階へ上がった。

 由希さんと話しているだけで顔が熱くなってくる。顔色の変化をすぐ見破られてしまいそうだ。


 父が死にかけているというのに、私は片思いに惚けているというのか。


「くそっ」


 斉藤とあんな話をしなければよかった。このあと、由希さんにどういう顔して会えばいいのかわからなくなってしまった。


 部屋に入ると、薄暗かった。

 カーテンを開ける。

 狼が揃って背中を見せていた。

 花乃の父親から仕込まれた技術。それをフル活用して作られた狼達。見事な出来だとは思うが、やはり薄気味悪い。こんな人形に囲まれ続けていたら、由希さんだってストレスが溜まるだろうに。


 ……そう、これも親父の奇行の一つだ。


 一体、この大群になんの意味があるというのか。


 机の上にメモ帳を置き、ページを繰っていく。

 事件当日の時系列を整理しても、新しい発見はない。

 清吾の身代金を奪い損ねた犯人。

 それはどこのどいつなのか。

 受取人に母を指名し、父を屋敷に残させる。非力な母ならば、金を奪うのは簡単だ。

 場所は雑踏の中だから、人混みにまぎれて逃げられる可能性も上がる。

 取引時間を朝方にすることで、警察を疲弊させることも忘れていない。

 犯人はそれなりに策を練っていたようだが、あっさり諦めてしまった。


 失敗したからといって、その後私を狙ったりもしなかった。保育園、小学校と、母に代わって秀信さんがずっと送り迎えをしてくれていたが、さらおうと思えば隙はいくらでもあったはずだ。


 メモ帳と睨み合ったが、結局、何もわからないままだった。

 警察が大がかりな捜査をしてもわからなかった事件なのだ。私が一人で調べ回ったところで、できることはたかがしれている。

 それでも、もやもやしたままでいるのは嫌だった。

 どうにかして真相を知りたい。

 あの事件で私は上と下の兄弟を失って――


「そういえば……」


 気にしていなかったが、高明の死と清吾の誘拐に関連はないのだろうか。

 兄の高明も、普通ではない死に方をしている。高明の事故が誘拐の遠因になっている可能性は否定しきれないのでは?


 父に話を聞いてみようか。


 ――いや、駄目だ。


 いくら私でも、病人に残酷な質問をするほど鬼畜ではない。ここは当時を知っている別の人に当たろう。


「秀信さんだな」


 早速、私は部屋を出た。




 秀信さんは家庭菜園にいた。庭の南東の角だ。

 作ったのは父である。

 あれはちょうど、清吾が誘拐される前の年だった。大紅葉の葉がなかった覚えがあるから、季節は春だったはずだ。

 空いたスペースがもったいないからと、耕したり堆肥を運んできたりして現在の状態にしたのだ。


 かつてそこには、高明の落ちた焼却炉があった。

 事故後、父は秀信さんに命じて焼却炉を取り壊させた。

 気取った言い回しをするなら、高明の命が散った場所に、新たな命を咲かせようとしたということ。

 結局は飽きたらしく、私が高校を卒業する頃には、秀信さんが自分の好きな野菜を育てるようになっていたけれど。


「秀信さん、ちょっといいですか」


 青い作業着姿の秀信さんは小さく見えた。背中が丸くなったせいだろう。


「おお竜吾君。片山さんとこへ行ってきたのかね?」

「そうです。それでちょっと気になったことがあって」

「あっしにわかることかね」

「ええ、清吾の誘拐に、高明の事故死は関係してないのかなって」


 秀信さんの表情が険しくなる。一列に並んだトマトから離れ、芝の上に出てきた。トマトもそろそろ時期が終わる。葉がしなびているものが多い。


「竜吾君、高明君の話はどこまで知っとるんだい?」

「詳しくは知らないんです。ただ、焼却炉に頭から落ちたとしか」

「そうかね。で、聞きたいのかい?」

「秀信さんが嫌じゃなければ」

「いいだろう。そこにでも座ろうか」


 私達は和室の前の縁側に腰掛けた。ちょうど縁側が北に折れる手前だ。


「あっしもね、あの日のことはよおく覚えとるんだ。なんつったってかわいそうな事故だったからね」

「特別な日ではなかったんですよね?」

「いや、あの時は親戚が集まってたんだ。夏見さんとこと山形に住んでる島木しまきさんがこのお屋敷に来てた」

「よく集まってたんですか?」

「その年まではね。事故があってから、島木さんはすっかり顔を見せなくなった……」

「彩香さん達も、来る頻度が減った?」


 秀信さんは頷いた。


「あれも秋だったな。すごい秋晴れの日でね、座敷の障子を開けっぱらって、昼間から飲み食いしてた。島木さんとこの子供さんもいたっけ。六歳くらいで、高明君と二人で遊んでた」

「庭で?」

「そうだ。高明君は成長の早い子でね、島木さんの……いかんな、名前を忘れちまった。とにかく、その家の子と同じくらいのスピードで走り回ってた」


 やはり高明は清吾に近い子供だったのか。


「宴会は二時間もやってたかな。その時はあっしの嫁もこの家で使ってもらってたんで、給仕は任せてあたしゃ枯れっ葉や燃えるゴミを焚いてたんです」

「時間とか、覚えてますか?」


「そこまでは駄目だ……。でも、夕方だったはずだよ。火の勢いが安定したから、お屋敷に戻って一緒に飲んでた。そしたら、島木さんの子供さんが泣きながら現れてね、『高明君が落っこちた』って言ったんだ。あたしと小春さんが見に行ったら、焼却炉から足先だけが覗いてて、セントーがその周りをぐるぐる回ってた――あとは竜吾君も聞いてる通りになってたわけだ」


「引き上げた時には手遅れだったんですか?」


「うん……。何分前にはまったのか、島木さんの子供さんが説明できなくてね。とにかく、煙を大量に吸い込んで、窒息死するくらいの時間はあったわけだ。ブロックを重ねただけって言っても、けっこう頑丈なんだ。ちょっとぶつかったくらいじゃ崩れないくらいにね。暴れたかどうかはわからないけんども、小さい子の力じゃどうにもならなかったんじゃねえかな」


「自分から落ちたってのは明らかだったんですか?」

「日本酒のケースが焼却炉の前に置いてあったからね。あれを足場にして覗き込んだんだろうって警察も言ってた」


 聞く限りでは、不幸な事故としか思えない。


「あっしがじっとそこにいれば、あんな事故は起きなかった。お二人にはそうやって謝ったんだが、『秀信さんのせいじゃない』って言ってくれてねえ……」

「そうですよ、誰が悪いってこともない」

「うん……。あの時は全員必死だった。同席してた桃山さんが救急車を呼んでくれてね」

「えっ?」


 予想外の名前が飛び出してきた。


「ちょっと待ってください。桃山さんもその日は一緒だったんですか?」

「そうさ。おや、竜吾君は桃山さんを知ってるんだっけ?」

「実は昨日、桃山秋乃さんの娘さんが親父のお見舞いに来てくれたんです」

「あら、そうだったんかい。あたしゃちっとも知らなかったよ」

「秀信さん、ちょうど出かけてましたからね」

「そりゃタイミングが悪かったねぇ。もう会わなくなってけっこう経つなあ。娘さんは秋乃さんに似てるのかなあ」


 花乃と秋乃の顔を比べてみる。

 秋乃が痩せていたので、イメージはあまり重ならない。二十年前ならば、あるいは似ていたのかもしれないが。


 私は「親父は似てると言ってました」と答えるだけにした。


「ぼくは桃山って家を、昨日までまったく知りませんでした」

「あのうちとも、事故のあと疎遠になっちまったからねえ。こっちから積極的に出したい名前でもないし」

「親父とはハンター仲間だったそうですね」

「うん、猟友会で知り合ったんだとさ。よくご夫婦で遊びに来てくれた。誠次さんが彫刻に凝り出したのもそのせいだし」


 秋乃の証言と一致する。


「高明が死んだ日も、夫婦で来ていたんですか」

「来てた来てた。誠次さん、あんまり友達作らない人だったからなぁ、親戚に自慢したかったんじゃないかね。こんなに深いつきあいしてる仲間がいるよって。実際、島木さんのご主人には人間関係のことでいじられてたからねえ」


 花乃の父親は智人ともひとと言ったらしい。


「ご夫婦で高明君とも仲良くしてくれてね。智人さんなんか、あの子の前で竹細工の腕を披露したこともあったなぁ。水鉄砲とか竹とんぼとか作ってあげてさ、高明君、大喜びだったよ」


 だんだん、秀信さんの口調がしみじみしたものになってきた。


「やっぱりいま聞いた感じだと、高明と清吾の事件にはなんの関係もなさそうですね」

「まったくないとも言えないよ」

「と、言うと?」

「高明君が死んじまって、誠次さんがすっかり弱っちゃったってことさ。それまでに比べりゃ、ずっとつけいる隙は増えたんじゃないかなあ」

「そこを狙われた」

「そうかもしれない、ってだけの話なんだがね」

「でも、ありえないとは言い切れませんよね。事故の直後と、清吾の事件の時だと、どのくらい違ってたんですか?」

「そうだなぁ、高明君の時は、まず、仏間に入る頻度が極端に増えたね。一日に何度も、仏壇に向かって手を合わせていた」


 それがね、と秀信さんの表情は渋いままだ。


「だんだん周りの目を気にしなくなっていって、高明君の名前を呼びながら家中を歩き回ったり、捕ってきた獣の肉を仏壇にあげちゃったりしてね」

「確か、仏様に生物なまものをあげちゃいけないんですよね」

「そう聞いてる。だから一応は忠告してみたんだけど、誠次さんはやめようとしなかったんだ」


 父だってその程度の知識はあったはずなのに。


「仏様に手を合わせながらぶつぶつ言ってるのさ。『お前、猪を見てみたいって言ってたよな。お父さんが捕ってきてやったぞ』って話しかけてたり……」

「当時からそんな感じだったのか……」


 父は新たに生まれた双子に興味がないようだった。

 私達の面倒を見てくれたのは、主に母と秀信さんだった。

 私の常識は、育ててくれた二人によって形成されている。

 ゆえに、父の行動は異常と映った。その異常はずっと前から続いていたものだった。


「清吾君が誘拐された時は、ずっとうなだれていたよ」

「猫背で電話の前に座っていたのは覚えてます」


 父の口からは、セントーと清吾、二つの名前が交互にこぼれ出ていた。


「正直、あっしはもっと取り乱すかと思ったんだけどね。高明君の時みたいに」

「騒いでた記憶はないですね」

「うん、深刻な顔はしてたけど静かだった。言い方は悪いが、双子に対して誠次さんはちょいと冷たかったよね。それが、ああいう形でも表れたと言えるんじゃないかな」


 ――どうでもいいが、家族だから一応助けなければ。


 父はそんな風に考えていたのだろうか。


「うーん、考えれば考えるほどわからなくなりますね……」

「そうだなあ。いくらなんでも、あの時期は死が重なりすぎた」

「近所の人達からも呪われた屋敷とか言われてたんですよね? 正直、よく秀信さん達が見捨てないでいてくれたなって、今は思います」

「あたしはそんな薄情な人間じゃないつもりなんでねえ。それに、あたしゃこういう仕事が性に合ってるんでね、次に行く場所が想像つかなかったんだな。もっとも、そのせいで由希には不自由をさせちまったかもしれない……。あ、これはうちの問題なんで、竜吾君達には関係ないんですよ」


 秀信さんは慌てたように両手を振った。

 ちょうどそこに由希さんがやってきた。


「二人で何かお話?」

「おお、高明君のことをね、ちょいと聞かせてあげてたのさ」

「高明君の……」

「清吾の事件となんの関係もないのか、一応気になったので」

「そっか。誠次さんに聞こえないように気をつけてた?」

「そんなに大きな声は出しとらんよ」

「だったらいいけど」


 由希さんは父の眠っている座敷へ入っていった。


「ぼくは由希さんにお世話になりっぱなしです。なんとお礼を言えばいいか……」

「なぁに、あたしらだって日守家がなかったらどうなってたかわからんし、お互い様ってことにしとこうや」


 そう言ってもらえると、少しだけ気が楽になる。私は腰を上げた。


「いったん部屋に戻ります。色々聞かせてくれてありがとうございました」

「調べ物も、無理しすぎん程度にやるんだよ。根詰めるとかえって効率が悪くなるってもんだからね」


 さすが、年配の人が言うと説得力が違う。


「わかりました。適度に息抜きしつつやります」


 縁側へ上がって、二階へ向かおうとする、そこで、秀信さんがじっと私を見ていることに気づいた。


「どうかしました?」

「あ、いんや、たいしたことじゃないよ」


 秀信さんは腕を組む。


「ふとね、思い出したんだ。小さい時の竜吾君、高明君によく似てたなあって……」

「そうでしたっけ」

「ちょいと思っただけだよ。気にしなんでくれ」


 私は頷き、秀信さんから離れた。

 私と清吾は双子だが、二卵性双生児である。顔はあまり似ていなかった。無事に成長していれば、清吾の方がたくましい男になっただろう。私は――自分で言うことでもないが――こんな優男のような風貌に育った。


 ……すると、高明が生きていれば、私と彼は似通った体型になっていたのだろうか?


 なんとなく気になった。

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