2-8 足音、再び

 日没が早くなった。五時になれば、もう辺りは薄暗い。


 私は自室を出て玄関にやってきた。

 靴箱の上に置かれている狼の人形を一つ、手に取った。重さはそれほどない。表面はニスの光沢でつやつやだ。


 くるくる回して全面を調べる。


 私がいない間に、父が量産した狼達。

 一体なんの目的でこんなものを作ったのだろう。私はまだ狼の人形をちゃんと調べていなかった。確認だけでもしてみようと思ったのだ。


「細かいな……」


 口の中、粗さはあるが牙まで彫ってある。

 細い線で毛並みを表現し、目や鼻はマジックで描き込んでいた。ただの点ではなく、獣らしい目つきを再現している。


 携帯を取り出して、オオカミで検索してみる。いくつか種類があるようだ。順番に調べていくと、人形とほぼ同じ体型の種を見つけられた。


「似てる……」


 それはニホンオオカミだった。

 一般に狼と言われてイメージする獣に比べると、足が短く、毛も茶色だ。犬と間違われても不思議ではない。私からすると、どうにも中途半端な〈獣〉に思えてしまう。


 父はこの種をモデルに木を彫ったのだろう。

 絶滅したと言われているニホンオオカミを、山の神として信仰している人間は今でもいる。


 私も向こうの中学では、総合学習で地元の歴史を生徒と一緒に調べた。その中で、狼信仰が現在も残っていることを知った。


 父は猟のため山に入っている。そんな人物なら、狼を山の神と崇めていてもおかしくはない。だからといって、こんな人形を作ることの説明にはならないが……。


 顔を爪でこすってみる。変化はない。マジックはニスを塗る前に使ったようだ。表面を凝視すると、彫刻刀か何かで顔の下書きをした形跡がある。だいたい目はここ、口はここと決めていたようだ。


 確認を終えると、元の場所に戻した。靴箱の上に置いた時、四本足なのにぐらつかないことに気づいた。素人の作ったテーブルなどは、よく足の長さが合ってなくてガタガタするのだ。この細い足でそれが起きないのだから、凝りようが尋常ではない。


 庭に出る。

 狼の位置をすべて把握しておこう。

 まず門の周辺からだ。


 塀に沿って狼が置かれている。間隔はだいたい一メートルほどだろうか。板の上に狼が乗って、屋敷の外を向いている。

 板も調べる。L字の金具を打ち込んで固定してあった。

 狼に触るが、動かない。家の中の物とは違い、外の人形はすべて足を固定しているようだ。


 向かって左側、家庭菜園の近くにもきっちり置いてある。

 東側の木戸、焼却炉跡、セントーの小屋付近は昨日のうちに確認している。今日は西側を探索しよう。


 まず駐車スペースだ。

 門を入って左――今の私から見ると右手方向。ここも塀際は狼に占領されている。車は二台、軽トラとヴィッツだ。


 車の後ろには横長の物置がある。トタン屋根の古い建物だ。戸口の両側にも狼が置いてあるが、これは向かい合わせになっていた。神社の狛犬を連想させる置き方だ。私は門に目をやった。屋敷の出入り口も、これと同じように設置されている。


 物置の戸を開けると、わらの臭気が鼻にぶら下がった。農機具用の油の匂いも混ざっているので、空気が重たい。


 埃っぽい空間に踏み込んでみる。

 奧の壁は塀と一体化している。そのため、壁には窓がついていて、光が取り込めるようになっている。農機具や積まれたわらが、夕日のおかげでよく見えた。


「ここもあるな」


 物置の三方の壁に狼が置かれていた。奥の狼は屋敷の外を向き、左右の狼は向かい合って物置の中央を睨む形だ。

 全部似たような格好だと思っていたが、明確に違いをつけている人形もあった。


 右側の狼は口を大きく開けている。

 向かい合う左側の狼は、右の前足を上げて、獲物に迫るような体勢だ。

 奥の狼は尻尾の位置が高い。何かと対峙するような格好。薄い夕日を全身に受けているので、どこか神々しさすら感じる。


 私は中学の文化祭を思い出した。

 クラス展示の準備をしている最中、口やかましく指示を飛ばしたっけ。


 ――通路からして、この角度だと彫像の左側が見づらい。もっとこっちを向けよう。

 ――一年生の活動レポートは、来年入学してくる小学六年生が見たがるだろう。高さはもうちょっと下げた方がいいんじゃないか?


「暑苦しかったかな……」


 こんなところで自省させられるとは。

 ともかく、父が何らかの基準を作って狼を置いたのが想像できた。家中、自分の意志を貫き通していると見るべきだろう。


 ある意味、徹底している。


 コンッ――と音がしたのはその時だった。


 とっさに振り返った。

 誰の姿もない。


「おい……」


 呼びかけた瞬間、物置の戸がカタカタと鳴った。かすかに震えたように見えた。


 身動きが取れない。

 体が完全に固まってしまっていた。

 額から噴き出した汗を拭うこともできない。


 じっと、そのまま、正面を見つめる。

 何かが外から入ってきて、取って食われる。

 そうなったらどうする。抵抗するにはどうすればいい。そもそも腕力で振り払える相手なのか。

 思考が乱れてまとまらない。


 どれくらい時間が経ったのかもわからなかった。


 じゃりっ……という音が聞こえた。


 かりっ、じゃりっ、さくっ……。


 それは石だらけの地面を踏む音によく似ていた。というより、その音なのかもしれない。


 音は以前のように遠くなっていき、聞こえなくなった。

 同時に、私を縛りつけていた圧力も急激に去っていった。


 大きく息を吐き出した。

 外に飛び出し、深呼吸する。頭がクラクラした。どれくらいか、呼吸を忘れていた。


 ――なんだったんだ。


 膝の上に両手を当て、下を向いていた私は、あることに気づいた。

 駐車スペースは、石が敷き詰められた場所だということ。

 今、私の背後に立ったそれは、戸を叩き、揺らし、そしてこの石の上を通って移動していった。

 そうとしか思えなかった。

 天を仰ぎ、高ぶる精神を落ち着かせる。


「やっぱり、幻聴じゃない……」


 幽霊を信じない人間でも、私と同じところに立っていれば、「気のせい」と切り捨てることは絶対にできまい。


 あれは一体、なんの目的で近づいてきたのだろう。少なくとも、私を攻撃するような意志は感じられなかった。戸の叩き方、震わせ方は優しいものだった。


 まるで、「こっちを見て」とでも言いたげな――。


「いや、そんな馬鹿な……」


 とにかく、私は木彫りの狼を調べるためにここへ来たのだ。何に邪魔されようと、調査は続行する。狼とあの音が無関係とも言えなくなってきたからだ。


 物置を離れて北側へ進んでいく。

 狼は計ったのかと思うほど綺麗な間隔で配置されていた。


 塀が折れるところに辿り着いた。

 北側の塀も、これまでと同じだった。

 屋敷の壁が塀のギリギリまで寄っているので、通路はひどく狭い。それでも、父は一つ一つ塀に板を取りつけ、置いていったのだ。


 上に視線をやる。

 台所の屋根がせり出して、塀のギリギリまで突き出ている。そこにも狼の姿があった。低い体勢で、闘争心を表現したのがわかる。屋根の上には一体しかないが、塀の向こうの路地を見下ろすように構えている。


 裏手をゆっくりのろのろ歩いていく。蜘蛛の巣や雑草がひどい。何歩目かの右足を出すと、ガリッと音がして、


「おわっ」


 大声をあげてしまった。


「え? 竜吾君、裏にいるの?」


 台所の窓から由希さんの声がした。位置が高いので相手の顔は見えない。


「すいません、なんか踏んだみたいで……」

「っていうか、なんでそこに?」

「狼がどこまで並んでるか確認しとこうかと思って」

「あー、そういうことね。塀際は完璧でしょ」

「見事に制圧されてますね」

「ちゃんと防腐処理までしてあるんだ。気づいた?」

「この表面の光沢がそれですよね?」

「正解。ところで、なに踏んだの?」


 私はしゃがんで、踏んだ物を探す。黒い塊が足元にあった。


「セミの死骸っぽいです」

「時期もだいぶ過ぎちゃったもんね。どこかに埋めてあげれば?」

「でも、もう潰れちゃってて……」


 言いかけて、考えを変えた。


「菜園あたりに埋めときます」

「よしよし、いい子だ」

「やめてくださいよ、もう子供じゃないんですし」

「私から見たらまだまだ子供だなあ」


 私はムッとしたが、これ以上反論したら由希さんの思うつぼだ。とはいえこうしたやりとりも懐かしくて楽しい。


「とりあえず、そっち行きます」

「そうした方がいいよ。まだ蛇も動き回ってる時期だからね」

「あっ」


 失念していた。住宅地とはいえ、山に近いこの地域では当たり前のように蛇が出没するのだ。


「そういえば高明君も、縁の下に潜ってアオダイショウに噛まれたことあるんだって。竜吾君、うちのお父さんに地面に伏せる時は気をつけろって言われた記憶ない?」

「よく覚えてないです……」

「あれで誠次さんに怒られたから、お父さんも蛇にはやたらと気をつかってたんだ。高明君にも竜吾君にも、清吾君にも注意したって思い出話を聞かされたよ」

「あんまり外で遊ばなかったから、自分には関係ないと思って聞き流していたのかも」

「そうかもね。高明君はすぐ言うこと聞いてくれたって、お父さん言ってたなあ」

「扱いやすい子供だったんですかね。まあ、怒ってでも止めないと蛇は危ないですし」

「アオダイショウは毒ないから大丈夫だけど、ヤマカガシとかいたら危ないよ? あとマムシはマジでやばいから、早めに戻ってきなさいな」

「了解、引き上げます」


     †


 屋敷の東側に出た。

 せっかくなのでこちらの狼も、ちゃんと確認していく。

 これまでと同じく塀際に並んだ狼達。木戸の左右にも、向かい合わせで置いてあった。


 出入り口はすべて向かい合わせ。これは法則の一つと考えていいだろう。それが何を意味するのかはわからないが。


 菜園の隅っこにセミの死骸を埋めてやる。

 セントーを埋めた時のことが、ふと蘇ってきた。

 この屋敷の中では思い出すことばかりだ。それだけの思い出があり、それだけの空白があったのだ。


 誘拐犯の手にかかって命を絶たれたセントー。当時はペットの火葬も今ほど一般的になっていなくて、土葬が中心だった。

 誘拐犯との交渉が打ち切りになったあと、父は憔悴した顔で穴を掘り始めた。


 大紅葉のすぐ左側だった。

 セントーの巨躯を埋めるには、大きな穴が必要だった。


 警察はセントーを埋めるのは少し待ってくれと言っていた。犯人が手がかりを残しているかもしれないと考えたのだ。


 しかし父が反対し、母も痛ましい姿はこれ以上見ていられないと言った。私もひとしきり泣いて、父の意見を支持した。


 すぐ土葬にしたのだから、警察が折れたのだろう。

 父は時間をかけて穴を掘った。見かねた警官が手伝ってくれた記憶もある。


 セントーを父と警官、二人で持って穴に安置した。父がビニールシートを用意し、その上に乗せて穴に入れたのだ。そのあとシートを抜き、父が丁寧に姿勢を整えた。


 ……警官が何か言っていたはずだ。


 セミに土をかぶせながら、必死で記憶を探る。


 ……そうだ、ウジが湧くかもしれないと言っていたんだ。


 家のすぐ近くだから、蠅が大発生したら問題になるかもしれない。警官はそれを危惧したのだろう。もちろん父は意見を変えたりしなかった。最悪、薬をまけば問題ないという結論に落ち着いたのだ。


 穴が大きかったので、埋めるのもまた一苦労だった。父は黙々と土を入れていた。これも警官が手伝ってくれたはずである。

 土をかけるのは私も手伝った。素手で土を握って、落とした。


 ――竜ちゃん、セントーにバイバイって言うのよ――


 母が隣で泣きながら、別れ方を教えてくれた。

 私は見えなくなっていくセントーに手を振った。閉じられた目も、ふさふさの毛も、だんだん土に隠れていった。私はずっと繰り返していた。バイバイ、バイバイ……。


 ……まずい。


 鼻の先がツンとした。

 もう二十年も前の出来事なのに、私はまだ泣くのか。

 セミの穴を整えると、私は菜園を離れた。

 座敷の前を通った時、障子戸の向こうから激しく咳き込む音が聞こえた。

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