2-2 誘拐事件の整理

 長野市内もずいぶんと変わったように映った。


 権堂周辺は分譲マンションが増えたように感じる。空が低い。

 長電ながでんパーキングの周辺はおしゃれなデザインのスペースに変わり、近くの病院は建て替えが行われたようで大きく新しい外観に変わっていた。

 柳町の歩道橋はより錆びつき、信号はいくつか新しくなった。


 平日のせいか、道は比較的空いていた。

 車の操作は快適で、このまま一日中ドライブしていたくなる。


 柳町から三輪に入った。

 長野中央署の前を通り過ぎる。何年か前に公式キャラクターができたとかで、イラストつきポスターが貼られていた。お兄さんとおじさんだ。


 継ぎ接ぎだらけの道路を北東へ進んでいく。言われた信号で左折して狭苦しい住宅街に入った。


 片山さんの家は、門柱の上に犬の置物があるという。左側を見ながらゆっくり進む。後続車もいないので安心だ。


 やがて目的の家を発見した。

 道路沿いに建った、さほど大きくない一軒家だ。二階のベランダに布団が干されている。駐車場が一台分しかないので、門の前に横付けした。


 私はなぜだか深呼吸してから、インターホンを押した。


「はーい、どちらさんですか」


 明るい老人の声がした。


「初めまして、日守竜吾という者なんですけど」

「ああ、秀さんから連絡もらってるよ。ちょいと待っとくれ」


 玄関扉が開いて、片山源助げんすけ氏が出てきた。あご髭の立派な老人だった。背中がだいぶ丸く、小柄に見える。


「いま鍵あけるかんね」


 独特の訛りで、片山さんが言う。

 門が開くと、私はゆっくり敷地内に入った。


「やあ、君があんときの竜吾君かね。へええ、あのちびっ子がこんないい男になるとはねえ。まいったな、うちの女房が顔赤くしちまうぞ。って、今日は出かけてていねえんだけどな。うははは」


 予想とずいぶん違う人物だった。

 なんにせよ、ボケていないのがこの上なく心強かった。



 リビングに通された私は、まず出された麦茶に口をつけた。昨日に比べて気温が高めなのでありがたい。


 ローテーブルを挟んで、私達は向かい合っていた。右手側のテレビはついておらず、左手上方のエアコンも入っていないので、室内はとても静かだ。外の道を車が抜けていく時だけ、一瞬ガラス窓が音を立てる。


「そんで、君の弟さんの誘拐事件について聞きたいってことだったんだぁな」

「そうです。なるべく避けてきたんですけど、これだけ時間も経って、ちゃんと知っておかなきゃいけない気がしてきて」

「うんうん、そういう余裕が出てくるってのぁいいことさ。あの事件も、結局犯人を挙げられねぇで終わっちまった。もう署の連中で覚えてる奴も少ねぇ。こうして忘れねえようにしてくのは大切だ」


 私は頷いた。

 片山さんはテーブルに置かれたノートをめくる。


「あんとき、おれなりに色々まとめといたんさ。どんなこまっけぇことでも気になったら全部メモっといた。こいつが役に立つ時がくるとはねえ」


 ノートはよれて黄ばんでいた。ページの隅っこには指紋のような汚れがたくさんついている。現場に持っていって、何度も開き、色々書き込んだのだろう。


 それだけ、警察が真剣に捜査してくれたということだ。


「片山さんは、当時は何歳だったんですか」

「おれか? おれはあんとき……五十、いくつだったけ」

「今年で事件から二十二年になります」

「すると、おれがいま七十五だから……五十三か。あんな大事件はなかなか起きなかったからねぇ、気合いも入ってたんだなぁ。そうかそうか、もう二十二年か。そりゃ竜吾君もでっかくなるわけだ。うん、二十年は大きいねえ……」


 長話が始まりそうだったので、断ち切って本題に入る。


「事件の流れを、一から説明していただいてもいいですか?」

「そうだぁな、でも最初んとこは竜吾君の方がわかってんじゃねぇのか?」


 確かにそうだ。

 私のすぐ横まで、犯人は来ていたのだから。


「あの時、ぼくは昼寝をしてたのでよく覚えていないんです。足音を聞いたような記憶はあるんですけど」


 片山さんはノートをぺらぺらめくった。


「事件発生は……九月九日、月曜日だな。天気は晴れ。発生時刻は午後の四時ちょいと前くらいって書いてある。この時間はあくまで推測だ。清吾君がいないってご家族が騒ぎ始めたんは四時半を回ったあとだったからだぁな」

「あの日は清吾とおやつを食べて、一緒に昼寝したところまでは覚えてるんです。起きた時にはもう、大人が大騒ぎしていました」

「うむ、君んとこには使用人の娘さんがずっと付き添ってたって書いてあんな。えらく軽率な判断だとは思うがね」

「ですよね。犯人が家に残ってたとしたら、子供だけじゃ抵抗しようがない」

「それにはね、おれも説教した覚えがあんだぁな。君のお母さんがひたすら頭下げてたんじゃなかったかな?」


 訊かれても答えようがない。


「えーっと、当日の家の状況だぁな。その日は保育園の運動会の振替休日で、君と清吾君はお休みだった」


 そうか、だから平日なのに家にいたんだっけ。


「ご家族も家にいたのね。んで、まず三時頃、秀さん――松谷秀信さんが田んぼの様子を見るために出かけてった。次が四時ちょいと前。君のお母さん――小春さんが、秀信さんの娘さんの由希ちゃんを迎えに出た」


 こいつには補足が必要だな、と片山さんは一人で頷く。


「小春さんはいつも、君達兄弟を保育園に送ってくついでに、由希ちゃんを小学校に送ってやってた。秀信さんも、一回で済んだ方が楽でしょうと言われて送迎をお任せしたわけだぁね」


 それも思い出した。母の車で保育園に向かう時、いつも途中まで由希さんが乗っていた。小学校の校門前で由希さんが先に降りるので、「バイバイ」と必ず手を振った。


「つまり、問題の時刻にあの屋敷にいたのは、親父と僕ら兄弟だけだったということになりますね。セキュリティが甘いなんてもんじゃない」

「そうなるね。君の親父さんは書斎にこもってずっと本を読んでたって証言してるな。書斎と問題の和室はかなり離れてるし、何枚も戸が間に立ってるから何も聞こえなかったとしても不思議はねぇ」


 日守亭はシンプルなようで入り組んでいる。

 父の書斎から和室までは、居間と座敷二つを挟んでいる。犯人が音を立てたとしても、途中で遮断されてしまう。


「四時半過ぎ、帰ってきた小春さんが異変に気づいて家中を探して回った。だが清吾君はどこにもいねえ。途中で秀信さんも合流してみんなで探し始めた。それこそ天井裏やら、縁の下やら物置やら、あらゆるところを見て回ったわけだ」

「でも、見つからなかった」

「んだ。そんで、木戸の方を調べに行った秀信さんが、半開きになってた戸と、撲殺された飼い犬を見つけたってわけだな」

「犯人は木戸から逃げたんですよね」

「おれらはそう考えたけどね、足跡が判別できなかったんよ。うっすら芝が張ってたせいでほとんど残ってなかった」


 その芝も、今は見事に成長している。


「セントー……飼い犬を殺した理由はなんでしょうか」

「鳴かれたら困ると思って、最初にやっちまったんだろうって話にはなったね」

「それで、その後の動きは?」

「まず……家に犯人から電話がかかってきたわけだ。こいつが午後の六時半過ぎ。清吾君が見えなくなってから二時間経ってて、警官がお屋敷にいたから、すぐ誘拐事件に切り替わったんさ」

「犯人は身代金を要求してきたと」

「金額は一千万だ。君の親父さんは『そのくらいならすぐ用意できる』って言って、大慌てで銀行へ飛んでった――と書いてあるな」


 これは記憶になかった。

 父はあの最中に、一度家を空けていたのか。


「でも、結局渡さなかったんですよね?」


 片山さんはうんうんと首を振る。


「その日の夜十時半ごろ、二度目の電話があった。最初の電話で、親父さんが『今日中に工面する』とか言っちまったもんだから、向こうの連絡も早かったんだ。こっちも逆探知の用意はしてたんだが、要求を一気にしゃべってあっという間に切られたんでね、辿れた公衆電話に行っても逃げられたあとだったんだよ」

「要求の内容とか、教えてもらってもいいですか」

「いいよ。えー、現金は束ねないでバラバラにして封筒に入れて、善光寺大門南の通りに来い。警官を連れてくんのは認めねえ」


 善光寺の、大門南。

 ここに帰ってくる途中にも通った場所だ。観光客が多かったが……。


「変な場所ですね」

「そんでもね、あすこは当時から人通りもあったし、すれ違いざまに金を奪うにはわりかしいい場所だったんだ。しかも警官が見張りづらいしねえ」


 善光寺手前の通りの光景を思い浮かべてみる。

 道がまっすぐに延びて、両脇に店が展開する場所だ。言われてみれば、隠れるには向かない地形と言える。


「取引はその日のうちにやるつもりだったんでしたっけ」

「いんや、次の十日、火曜日だ。朝の五時半って指示が来た」


 朝方。警察からすれば、一晩中神経を張り詰めさせたあとに行動しなければならない。相手は警官を少しでも疲弊させようとしたのだろうか。


「取引場所には、君のお母さん――小春さんが来るようにってのも向こうの要求だった。親父さんは家で待機した。もう一回だけ家に電話をするからって犯人の野郎が言いやがったからな」

「実際、かかってきたんですよね」

「んん、その通りだ。えーっと、こいつには『朝六時二十分、電話鳴る』ってメモしてあんな」

「取引をやめると」

「ああ。警官の姿が見えるんで、これで連絡は最後にする――そんな電話を親父さんが受けたっつうわけだ」


 片山さんは頭だけ下げた。


「おれらがうまくやってりゃこんなことにはならなかったんだ。県警だって応援に来てたんだぜ。それなのにこのザマだ、本当に申し訳ねえ」

「いえ、もう謝罪の必要なんてないですよ」


 片山さんを慰めつつ、私は情報を整理する。



 九月九日、月曜日。

 午後四時前後。清吾が誘拐される。

 四時半過ぎ、家族がそれに気づく。


 六時半過ぎ、犯人から一回目の電話がかかってきて、身代金を要求される。金額は一千万で、父が――どういう手を使ったのかは知らないが――すぐ現金で用意した。


 夜十時半、二回目の電話。現金は封筒に入れろ。取引場所は善光寺大門南の通り。時刻は翌十日、朝五時半。取引場所には母一人で来い。警察を連れてくるな。


 九月十日、火曜日。

 朝四時五十分頃、母が徒歩で家を出る。五時二十分、取引場所に到着。現場ではすでに私服警官が見張っていた。時間になっても動きはなかった。


 六時二十分、三回目の電話。警官が見えるので取引は中止する。

 これ以降、犯人とは一切連絡がつかなくなった。

 清吾の行方もわからないまま。


 自分でもメモ帳に記入してみた。うん、少し整理できた気がする。

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