第2章

2-1 ぶつかり合いが足りない

 母――小春の印象は稀薄である。

 何かと目立っていたのが父で、母はいつもその陰に隠れていた。


 美人、だったと思う。

 私の目からすると、母は綺麗な顔立ちをしていた。頬は化粧で白くて、そのわりに唇の紅は薄かった。


 指先の動作が洗練されていて、急須で茶を注ぐ時の所作は、幼い私ですら見入ってしまったほどだ。


 ただ、どういう性格だったかと聞かれると、うまく思い出せない。


 記憶にあるのは、外見と動きだけだった。

 肺炎でこの世を去ったのが、清吾が誘拐されて、一年半が経過した頃だった。私が六歳になろうとしていた時期。


 記憶している母との会話も、あとから私自身が補完した部分も多いはずだ。性格に関しても、ねじ曲がった状態で認識していてもおかしくない。

 高明が死んでから、父との間には大きな溝ができていたようだ。二人が笑いながら話しているところを、私は見た覚えがない。



 私はぼうっと天井を見つめていた。

 朝、寝ぼけた頭で、母のことを思い出していたのだった。

 この部屋は元々、私と清吾と母、三人の寝室だった。母はとうに父と同じ部屋で寝なくなっていたのだ。私と清吾は、間に母を挟んで眠った。


 コン、コン、とノックが聞こえた。


「竜吾君、起きた?」

「はーい、いま起きました」


 布団から出てドアを開けた。エプロン姿の由希さんが立っていた。髪を三つ編みでまとめて、左肩の前に垂らしている。


「おはよう。今日は出かけたりする?」

「親父の様子次第ですね」

「誠次さんは今のところ落ち着いてるよ。まあ、いつ急変するかはわからないけど」

「そうなったらすぐ電話下さい。どこからでも飛んで帰ります」

「りょーかい。で、外でるんだね?」

「はい、昨日秀信さんが言ってた片山さんに会ってみようかと」

「オッケー。じゃ、朝ごはんはもうできてるから、いつでも下りてきてね」


 私はジーパンと長袖シャツを着て一階へ下りた。


 洗面台で顔を洗い、昨晩忘れた歯みがきをしておく。鏡の左側に出窓があり、歯ブラシスタンドが置かれていた。一本だけ、袋に入った新しい歯ブラシが用意されていた。マジックで「竜吾君」と書いてある。由希さんの字だ。


 さすがに八年前の歯ブラシは使えない。由希さんの心遣いに感謝して、歯を磨いた。


 鏡をじっと見つめながら手だけを動かす。

 時々、こうした瞬間に大きな違和感を受けることがある。

 垂れた黒髪と長い前髪。無精髭の目立つ口まわり。いつもの私の顔が映っている。だが、本当にこれは私を映したものなのか、本当にこれが自分の顔なのだろうかと、疑問を抱く朝がある。


 小さな時分からそうだった。

 私は鏡が苦手だった。そこに映っているのが自分だと理解できるようになるまでは、ただただ恐怖の対象でしかなかった。


 ――あの板の上で動いている子供はなんなのか?


 そんな、漠然とした不安で神経が強張った。

 恐怖こそしなくなったが、自分の顔や動きが不思議に見えることは、今でもある。

 そういう時は、神経質すぎるだけだ、とむりやり自分を納得させる。今日もそれ以上は考えないようにして口をすすいだ。電動シェーバーで髭を剃る時も、なるべく横を向いていた。



 朝食は昨日と同じく和食だった。だし巻き玉子が特に美味く、絶賛したら由希さんが自分のを半分わけてくれた。がっついているみたいでちょっと恥ずかしかった。


 出かける前に中座敷へ行って父の顔を見る。今日も白い顔をしていた。


「親父、具合はどうだい」

「……変わらん……」

「そうか。ぼくはちょっと出かけてくるけど、いいかな?」

「……秋乃の、ところか」

「時間があれば、そっちも行こうと思ってる」

「……ああ、頼む……」


 それだけの会話でも疲れるようで、父の息がわずかに上がった。見ているだけで、こちらも苦しくなりそうだ。


「みんな、いなくなってくな」


 ついそんなことを口走っていた。


「今朝、母さんのことを考えてた。そういや、親父と話してるところをあんまり見た覚えがなかったなって」

「……嫌われていた、からな」

「自覚はあったのか」


 父は、こっ、くん、と表現したくなるくらいゆっくり頷いた。


「お前が、いなかったら、とうに離婚していただろう……」

「なるほどねえ。ぼくがいなければ、母さんは離婚して健康な生活を送っていたかもしれないわけか」

「……嫌味が、うまくなったな……」

「多少は社会の荒波に揉まれたからな。ま、学校ではこんな風じゃないから、そこは安心してくれ」

「ふん……。小春が見たら、驚くだろうな……」

「母さんはびっくりできないだろ。六歳より先のぼくを見てないんだから」

「…………」

「あの頃の親父は絶対学校の行事に来なかったな。何でもかんでも無視してもらえてよかった。感謝してるよ」

「また、嫌味か」

「違う、本心だよ。ぶっちゃけ、ぎょろついた目の親父と一緒に校内を歩きたくなかったからね、当時は」


 布団が動き、左手が出てきた。掴まれる前に距離を置く。


「怒らなくてもいいだろ。全部自分の撒いた種だろうに」


 父の目つきは細くなっていた。


「俺が、もうすぐ死ぬと思って、好きなことばかり……」

「親父は言い合いを避けて逃げたり隠れたりしてばっかだったろ。本当は、言いたいことが山ほどあるんだ」


 ぐっと、父の喉が動いた。


「高明が生きていれば……高明が……」


 ぶつぶつと言い始めた。

 私は言葉が荒っぽくなってしまったことを反省した。

 言った通り、父はこちらが真剣な話をしたがっても、すぐ避ける傾向にあった。当時の苛立ちや怒りはすべてかわされ、私は感情のやり場をなくしていた。


 だからといって、今、動けない相手に言いたい放題ぶつけるのは、違う。


 なるべく自制しようと意識して来たのに、結局できなかった。感情のぶつかり合いが、私達には決定的に足りていなかった。


 ――今さら埋めたところで、どうにもならないだろう?


 こんなやりとりをしていないで、起こすべき行動を起こそう。清吾の事件を調べたいのではなかったか。


 私は「行ってくる」と父に声をかけ、座敷を出た。

 居間の北側に台所がある。由希さんはそこで洗い物をしていた。


「由希さん、出かけてきます。親父をよろしくお願いします」

「あ、はいよー。足はあるの?」

「バスで行きます」


 水道の音が止まった。


「竜吾君、免許持ってたっけ。あるならお父さんの車使った方が楽じゃない?」

「外のヴィッツですか?」

「それそれ。お父さんはもし用事ができても軽トラあるから大丈夫だよ」


 私は少し考えた。

 自動車免許は、最初の学校に赴任する前に取っている。中古の軽自動車を買って、通勤にも使っているのだ。


「貸してもらっていいですか?」

「どうぞどうぞ。キー取ってくるね」


 由希さんはバタバタと台所を出ていった。

 すぐに戻ってきて、キーを渡してくれた。


「ありがとうございます。じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。気をつけてね。長野は強引なドライバー、けっこう多いから」

「わかりました」

「道が狭いところは無理しないでね。左折する時は割り込んでくる右折車がいないか念のため確認して――なんで笑ってるの?」

「いえ、なんだか由希さん、お母さんみたいだなって」

「お、お母さんって……」


 由希さんが困ったような怒ったような顔をした。


「とにかく、行ってきます」

「あーもう、さっさと行きなさい」


 私は手を振って玄関を出た。

 玄関先を、秀信さんが竹箒で掃いていた。片づけているのは、主に大紅葉の葉だ。濃く茂るので、落ちる量も多い。


「竜吾君、もう出かけるのかね」

「はい、街を見て回りつつ、片山さんと話せればと思って」

「ああ、そのことだがね、片山さんに電話してみたら、暇だからいつでも来てくれと言っていたよ」

「よかった。安心して出かけられますね。あ、ヴィッツ借ります」

「いいとも、気をつけてな。荒っぽい運転する奴が多いからなあ」


 親子揃って同じことを言うのだな、と私は苦笑した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る