1-9 八年の空白

 立ち上がって、大紅葉を見上げた。

 澄み渡った夜空に、闇に染まった枝を広げている。


「大紅葉の枝も何回か木彫りに使ったんだよ、誠次さん」


 由希さんが言った。


「でも、見た感じそんなに変わったようには見えないですね」

「ま、そんなごっそり切るようなことはしなかったから。でも、根気よく続けてたよ。今年だって倒れる直前まで狼をいじってたもん」

「ぼくがいた頃は全然やってなかったのに……」

「竜吾君が出ていった年からやり出したんだったかな。急に始めたんだ。さびしくなっちゃったのかなって最初は思ったんだけど、あんまり熱心にやってるから、よくわからなくなっちゃって」


 私は塀に近づき、狼を手に取ろうとした。


「あれ、取れないな」

「接着剤で足を固定してあるの。台風にも耐えられるようにって」

「そこまでする意味ってなんなんですかね」

「さあ、なんだろね。でもすごくよく出来てると思わない?」

「完成度だけはすごいと思います」

「民芸品のお店で売ってても違和感ないくらいだよね。売り込まないんですか?――って訊いたら『絶対やらない』って言われちゃったけど」


 商人の血を引きながら商売っ気はゼロ。父らしい。

 私は下座敷の前に移動し、縁側に腰掛けた。由希さんが隣に座ってくる。ふわっとした香水の匂いが鼻をくすぐった。


 車と違って、障害物なしに隣り合うと、彼女はいくらか小さく見えた。


 由希さんの身長は、百五十七センチで止まった、と本人が言っていた。いつしか私が追い越していた。私は大学に入ってからもまだ何センチか伸びて、百七十五センチまで達した。由希さんと並んだ記憶を重ね合わせると、見おろす角度がずれる。そんなところにも八年の歳月が感じられた。


「久しぶりだね、こうやって並んで座るのも」

「……ですね」


 私は庭を見つめた。月の光がゆるやかに降り注いでいる。

 由希さんと視線を合わせられなかった。顔が熱くなってしまったのだ。昔よくやっていたことが、今は恥ずかしく感じられる。


「なんか、私の方が勝手にはしゃいじゃったみたいで悪かったね」

「そんな、すごく助かりました」

「竜吾君は絶対私を非難しないよね。ここは君の家なんだから、使用人には思ったことを遠慮なく言ってくれていいんだよ?」

「ぼく、そういう人間にだけはなりたくないので」


 あははっ、と由希さんは楽しそうに笑った。幼い女の子のような快活さを、この人はまだ失っていない。


「大変な時なのにこんなこと言っちゃうけど、また竜吾君に会えて、すごく嬉しいよ」

「……ぼくもです」


 胸がどうしようもなく熱かった。

 ずっと父を任せっきりで、迷惑ばかりかけていた。そんな私に、これだけ前向きな言葉をくれる。


 私は、努めて忘れようとしていた、由希さんへの憧れを取り戻していた。


 小中高と、常に私を見守っていてくれた。父よりも近くで、母のように世話を焼いてくれた由希さんが、いつだってまぶしかった。


 私が東京へ行く新幹線に乗る時も、駅まで車で乗せていってくれた。


 ――あんまりしんみりするのも嫌だからさ――


 さっぱりとした顔で言って、由希さんはホームまで降りてこなかった。改札を抜けた私が振り返ったのは一度きりで、それ以上はもう、後ろが見られなかった。


 あのとき由希さんが着ていた赤いコートは、点のように私の頭の中に残っている。


 彼女の方を向いて、少し体を近づけた。

 由希さんも私を見た。

 さあ、何か気の利いた言葉を話そう。

 空白になった八年を埋めるための対話をしよう。

 小さなことでもいい。

 由希さんと一分でも長く、楽しい時間を過ごせるように――。


 不意に、中座敷から咳き込む音が聞こえた。すぐには止まず、何度も重たい咳が繰り返される。


「ちょっと見てくる」


 由希さんの反応は早かった。さっと垂らしていた足を上げると、中座敷へすぐに駆けていった。


 すっかり看病に慣れてしまった者の動きだった。

 屋敷に戻れば、清吾の記憶と、おかしなことばかり言う父が待っている。そう思うと足がすくみ、どうしても帰郷できなかった。


 待たせてしまった分、由希さんや秀信さんには恩返しをしたい。

 私はひそかに決意を固めた。


     †


 由希さんに声をかけて自室に戻る。

 布団を敷いて横になると、長旅の影響もあったのか、すぐにまぶたが下がってきた。

 まだ歯みがきしてない――と思ったが、眠気には勝てなかった。


 すべては明日の朝にしよう。


 私はさっさと諦めて、布団にもぐり込んだ。

 すぐに眠れると思ったが、意外に意識は落ちていかなかった。

 真っ暗な天井をじっと見つめた。

 見つめていると、不意に……。


 トン、トン、トン、トンッ……。


 小さな音がした。

 体がこわばる。由希さんの移動している音でないのは明らかだった。もっと小さな何かが動いているような音。


 あれはそう、まるで、子供が歩いているかのような――。


 音が完全に消えた時、唐突に蘇ったのは、桃山花乃の言葉だった。

 花乃の見た二人の子供。それがもし本当だとしたら……。


 ――清吾、お前はこの家にいるのか?


 それが指し示すのは、一つの事実だ。


 ――お前、あの時にもう死んでしまっていたのか?

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