1-8 愛犬

 食事を終えた私は、縁側を歩いて屋敷の東側へと向かった。


 逆L字に三つつながった座敷。父は中座敷で眠っている。


 縁側と座敷の境目には敷居がある。雨戸を渡すためのレールだ。

 我が家には今時めずらしい雨戸が残っていて、横殴りの雨や雪が襲ってくると、これを張って座敷を守るのだ。


 中座敷の向こう、南北に走った廊下があり、その向こうに和室が一つある。縁側が左に折れるちょうどそこにあるのが、事件当日、私と清吾のいた部屋だった。


 障子を開ける。円卓とタンスがあるだけで、他には何もなかった。部屋に足を入れてみると、ギシッと床が軋んだ。綺麗にはされているが、使われた気配はない。


 色褪せた円卓が時の流れを感じさせる。当時、私と清吾がお絵かきをしたりおやつを食べるのに使っていた。高明も、この円卓でよく落書きをしていたそうだ。


 縁側を曲がって、家の東側を覗いてみた。細長い庭がここまで続いている。


 少し先に木でできた塀が張り巡らされ、侵入者を拒む。視界の左奧、塀の角に木戸が一つ取りつけられている。


 誘拐事件において、重要と目された木戸だ。


 その木戸の周辺にも狼が置かれている。塀に板が取りつけられ、その上に乗せられているのだ。比較的明るい夜ということもあって、闇の中でも存在がよくわかる。ここもまた、すべての狼が外を向いていた。


 当時はうっすらと張っていただけの芝も、今では立派に太くなっている。手入れは秀信さんがしてくれているようだ。


 木戸から和室までの距離はさほどない。

 庭を突っ切って縁側に飛び乗り、和室に入って子供を抱きかかえる。靴を履いて、来た道を引き返す。それだけで済むのだ。


 私は木戸の少し左に視線をやる。

 ボロボロだが、犬小屋は残ったままだった。赤い屋根は錆びついて、ところどころ穴が開いている。


 セントーという犬が、あそこにいたのだ。

 ふさふさした毛に覆われた、大きなセント・バーナードだった。


 もらった時からすでに大きく、「この大きさじゃ千トンはありそうね。セント・バーナードだけに」などと母が冗談を言ったのがきっかけで、その名前になったのだそうだ。いい加減である。


 事件当時、セントーはもう十四歳で毎日寝てばかりいた。


 誘拐犯はそんな老犬を殴り殺していった。


 金槌で頭を一撃されたらしく、小屋の前で事切れていた。おそらく吠えられたら厄介だと思い、入ってすぐ手にかけたのだろう。

 老衰が始まり、死を待つばかりだったセントー。犯人はその命を強引に縮めていった。


 私は清吾がいなくなったことより、セントーの死に号泣した。明確に死が見えている分、ショックが大きかったのだ。

 死を最初に理解したのは、セントーの時だった。


 ――生き物が動かなくなったら、もう二度と元には戻らない。


 そんな認識すらも、当時はまだなかったのだ。

 どんなに揺さぶっても反応してくれない愛犬。母の、「セントーは死んじゃったのよ」という涙声が蘇る。


「死ぬって何?」「動かなくなるってこと」「なんで動かなくなるの?」「命がなくなってしまうからよ」「命がなくなると、もう動けないの?」「そうよ」「セントーの命もなくなっちゃったの?」「……そうよ」「もう、遊べない?」「……できないわ」


 母との対話で、私は徐々に、死を理解していった。だからこそ、泣いたのだ。長い時間泣いていたはずである。


 セントーは大紅葉の根本に埋められた。今もあそこに眠っている。


「そうだった」


 何かを忘れていたような気がしたのだ。

 セントーに手を合わせていなかった。

 私は縁側を引き返し、座敷の前まで戻った。置き石の上にサンダルが置いてある。つっかけて大紅葉の前に立った。


「……誰かいるんですか」


 背後から声がした。由希さんの硬い声だった。


「ぼくです、竜吾です」

「あ……竜吾君か」


 障子が滑って由希さんが姿を見せた。奧に父の眠っている布団が見えた。


「竜吾君でよかった」


 由希さんはホッとした様子だ。何か引っかかる。


「他の誰かって可能性もあったんですか?」

「うん……」


 少し迷った様子を見せてから、由希さんは言った。


「たまに、人の足音みたいなのが聞こえたりするんだよね」

「…………」


 とっさには返事ができなかった。私が昼間、部屋で体験したものと同じかもしれなかったからだ。


「幻聴にしては妙にはっきり聞こえるし……疲れてるんだろうなってごまかしてるけど」

「それ、僕も同じ音を聞いたかもしれません」

「え……?」


 昼間の体験をそのまま話す。

 由希さんの表情がどんどん硬くなっていった。いま話すべきではなかったかもしれない、と私は後悔しかけた。


「それより、竜吾君はなんでこんなところに?」


 やがて由希さんがあからさまに話題を逸らした。


「さっきセントーのことを思い出したので。埋めたのってこの辺でしたよね」

「えっとね、そこにセントーって彫った石があるはずなんだけど」


 樹に向かって左手の辺りを見てみる。

 あった。

 手のひらより大きいくらいの石が置かれている。〈セントー〉と、名前がカクカクしたカタカナで彫り込まれていた。ぐだっと横になっている姿が、不意に蘇ってくる。


「……ホントに、あっという間だよね。時間が経つのってさ」

「ですね。もうちょっとかわいがってやりたかったな」


 しゃがんで、手を合わせる。

 目を閉じると、秋の虫達の鳴く声が遠くに聞こえた。冷え込む様子もなく、過ごしやすい夜だ。


 目を開けると、狼の背中が見えた。

 樹の後ろ、塀際に沿って並べられている。木戸の周りと方法は同じ。塀に板を取りつけ、その上に乗せる。

 板は等間隔でつけられて、全部に狼が乗っていた。どの狼もこちらに背中を向けて、道路の方を見ていた。

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