1-7 平和な夕食

 夜の八時になろうとしている。

 彩香さんと健作さんは自宅に戻った。この屋敷にいるのは、私と父、由希さんの三人だけである。


 広々とした家なので、人が少ないと静けさも深まる。由希さんの移動する足音だけがよく聞こえた。廊下は意識して歩かないと床が鳴るのだ。


 部屋着になった私は、畳んだ布団に腰掛けている。

 昼間の出来事を思い返していた。


 死んだはずの高明と清吾を見たという、桃山花乃。

 彼女の母親は新興宗教団体のリーダーだったという。


 その娘が幽霊を見た、などと言ってきたのだ。詐欺のカモにされかけているのでは――と当然疑いたくなるというもの。


 しかし二人の服装が私の記憶と合致しているのは妙だ。

 母の秋乃が我が家のアルバムを見ている可能性はあるが、詐欺にしては、ずいぶん回りくどいやり方ではないだろうか。

 私が花乃の言葉を信じたくなるのは、彼女の切り出し方が自然だったからだ。


 ――かわいそうだと思わないんですか?――


 こちらを騙そうとしているなら、あんな風には言わない気がする。


 花乃は私にも子供が見えると決めつけていて、だからこそ怒りをあらわにしたのだ。青ざめた顔も、演技でやるには難しすぎる。


「幽霊ね……」


 現実味のない話だ。悪ふざけだと思いたい。

 だってそうだろう。

 花乃に清吾が見えたというなら、あいつはもう死んでいることになるからだ。

 私はそんな事実を認めたくない。

 どこででもいいから、生きていると信じたい。


 しかし、花乃の言葉を受け入れかけている自分も、確かにいた。

 家に着いた直後に聞いた、謎の音。

 今となっては、あれが足音以外のものだとは考えられない。

 信じたくはないが――この家には何かがいる。


「そうだ、アルバム……」


 机の上には、由希さんに頼んで出してもらったアルバムがあった。早速開いてみる。


「清吾……」


 つい、名前を呼んでいた。

 清吾の写真が、そこにはいくつも収まっている。

 庭でポーズを取っているものや、走り回っているもの、水浴びして笑っているもの。たくさんの表情が紙の上で光っている。


 私も笑っている写真が多かったが、清吾ほど満面の笑みは浮かべていない。微笑、というのが適切だろうか。どれも、ちょっと笑っているのだ。明るい表情を作るのが苦手だっただろうか。よく思い出せない。


 ページを最初の方へ戻していくと、高明の写真に変わる。

 印象としては、清吾に近い子供だ。

 走ったり転がったり、大紅葉によじ登ったり、躍動感のある写真が多い。


 楽しそうな父が一緒に映っているものもけっこうある。私が一度も見たことのない、父の笑顔がたくさん。それだけで、遠い昔の出来事のように感じられた。


 問題の焼却炉が映っている写真もあった。何度も出し入れされたのか、ページのフィルムが剥げかけている。

 捨てようか残そうか、迷っている母の姿がイメージされた。


 焼却炉の横、空に人差し指を向けている高明はとても楽しそうだ。色々な意味で残酷な一枚と言えた。


 焼却炉は子供から見ると大きそうで、高明の目線と同じくらいの高さがある。地面付近には灰を掻き出すための穴が開いている。


 これを無理に覗き込んで落ちれば、自力での脱出は不可能に近い。それこそ、積んであるブロックを全部崩すくらい暴れなければ。しかも火がついていて、煙がもうもうと生まれ続けている中で、だ。


 ……高明は、どうしてこんな危ない物を覗き込んでしまったんだろう。


 好奇心旺盛な幼児とはいえ、煙の臭いなどには本能的に危険を覚えるはずだ。彼にはそういった能力が欠けていたのか?


「竜吾くーん、夕飯できたよー」


 一人考え込んでいると、下から呼ぶ声がした。

 検討はいくらでもできる。まずは団らんを優先しよう。

 廊下にも味噌汁の匂いが漂ってきていた。信州みそを使った日守家伝統の汁の香り。懐かしくて胸が熱くなってくる。


 なんて平和な時間だろう。

 父が死にかけているなんて信じられない。


 居間に入ると、食器を並べている男の姿があった。

 由希さんの父親である秀信さんだった。だいぶ背中が丸くなり、目元も垂れてきて、白髪が目立っている。一方で足どりは昔と変わっていなかった。今でも農作業を続けているのだろう。


「お久しぶりです、秀信さん」

「やあ、久しぶりだなあ! 竜吾君、いやあ大きくなったねえ」


 秀信さんは人なつっこい笑顔を浮かべ、握手を求めてきた。私は握り返す。手は骨張っているように感じられた。


「誠次さんの面倒はなるべく見てきたつもりなんだけど、病気ばっかりはどうしようもなくてねえ」


 申し訳なさそうに頭をかく。


「とんでもない。こちらこそ見捨てずにいてくれてありがとうございます」

「何を言う。わたしゃ日守家には感謝してもしきれないくらいの恩があるんだ。これくらいじゃ返せないと思っているほどなんだよ」


 事情はよく知らないが、我が家の祖父が秀信さんを雇った上に、松谷家の経済的危機を救った過去があるようだ。


「いやあ、竜吾君が戻ってきてくれて嬉しいよぉ。ずっと日守家の人間は誠次さん一人だったわけだからねえ」


 みんな似たようなことを言うな、と内心で苦笑する。

 台の上にはご飯と味噌汁、焼き魚に温野菜と、日本屋敷にふさわしい食事が並んでいた。向こうではコンビニ弁当で済ませる日も多かったので、とても贅沢に映る。


「おかわりもあるからねー」


 由希さんが電気釜を持って入ってきた。見慣れたエプロン姿だが、すっかり大人になった影響か、どこか母性を感じさせた。


 ……私は、しばし由希さんに見とれていた。


 体つきといい所作といい、最後に目にした時よりはるかに洗練されている。八年の間にますます磨きがかかったようだった。


 三人でこたつを囲んだ。私達の外側を狼が囲んでいる。やはり落ち着かない。数時間で慣れるものでもないだろうが。


「いただきます」


 全員で手を合わせて夕食を始める。


「親父はご飯どうするんですか?」

「おかゆ作って食べてもらってるけど、ほんのちょっとしか食べられなくなってるんだ」

「やっぱり……」

「それでも、まったく食べられないわけじゃないからね」


 由希さんは力ない笑みを浮かべる。


「ところで、竜吾君は向こうで彼女できたの?」

「まさか。男の教師ばっかりですよ」

「じゃ、こういう食事はあんまりしないでしょ」

「すごく久しぶりです。給食は薄味のものが多いから」

「お味の方は?」

「さすが由希さんって感じです」


 私は左手の親指を立てた。ついでに反撃してやろう。


「それより、由希さんこそ彼氏いないんですか?」

「いるわけないじゃん」

「由希さんならすぐ作れると思いますよ。美人だし家庭的だし」

「そういうのをさらっと言っちゃうのが竜吾君のずるいところだよね」

「こいつは遊び歩かないから、男に会うこと自体ないんだよなあ」


 秀信さんがぼやくと、由希さんは肩をすくめた。


「好きなように恋愛しろって言ってんだけどねえ」

「言われた通り好きな相手ができるまで待ってるってだけ。はい、この話はおしまい」


 しばらく、誰もが箸だけを熱心に動かし続けた。

 私は焼き鮭を食べ終え、味噌汁を飲み干す。絶妙な温かさだった。


「ところで、清吾の話なんですが」


 私が切り出すと、二人の表情がいくらか硬くなった。

 夕食時にする話でもないだろうが、どうせなら二人いるところで聞いておきたかった。私はこの家の人間だし、被害者のすぐ横にいたのだから、正直にしゃべってもらえるだろうという、根拠のない自信があった。


「その後、やっぱり何もないんですよね」

「……ないなあ」


 秀信さんが落ち込んだように言う。


「我々も気にしてはいるんだが、音沙汰もないし情報も一切ない。ある日いきなり訪ねてきてくれればどれだけ嬉しいか……」

「ぼくはいまだに気になってて、帰ったら少し当時のことを調べてみようかと思ってたんです。もちろん、親父の具合を気にしながらになりますけど」

「そうか、竜吾君は調べるつもりでいるのかぁ……」

「あの日、ぼくと清吾は並んで昼寝をしてました。下手したら、さらわれていたのはぼくだったかもしれないんです。そう考えると怖いし、おかげで誘拐される夢をいまだに見る時があるんですよ」

「そうだったのか……。よし、わかった。だったら片山さんに連絡しとこう」

「片山さんとは?」

「元長野中央署の刑事さんでね、誘拐事件の捜査をしてくれてた人なんだよ。今は退職して三輪みわに住んでて、たまに飲みに行く仲さ」

「なるほど。じゃあ、話を聞きに行ってみます」


 桃山花乃と片山刑事、二つも訪ねる場所ができた。


 清吾の誘拐から私が受けた影響は大きい。

 少しでも自分を納得させるために、知るべきことだけは知っておきたい。

 高校生までは、なるべく考えないようにして過ごしてきた。今は違う。県外での生活が長くなり、過去を見つめ直す余裕が出てきたのだ。

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