第3章

3-1 花乃からのSOS

 ……まぶたに光を感じる。


 目を開けると、居間の天井が見えた。ゆるやかな木目の曲線が、私を見おろしている。


 腰に痛みを感じた。こたつに入ったまま眠っていたようだ。


 居間を出て台所に入ると、由希さんが鍋と向き合っていた。これまでと同じようにエプロン姿だ。


「あ、おはよう竜吾君。すごくよく寝てたね」


 由希さんは髪の毛をアップに束ねていた。


「寝顔、昔と変わらないね」

「自分ではわからないんですが……」

「急に幼くなっちゃったように見えたよ。かわいかった」


 どうも、この人に言われると恥ずかしい。


「由希さん、寝てるぼくに何もしませんでしたよね」

「してほしかったの?」

「いえ……」

「昨日は一緒に寝ただけ。言葉通りだよ」


 視線がぶつかった。しばらく見つめ合っているうちに、おかしくなってきた。私達は同じタイミングで噴き出した。


「とにかく、着替えてきなよ。もうすぐご飯できるから」

「そうします」

「あ、シャワー浴びた方がいいよ? 今日は花乃ちゃんって子が来るんでしょ?」


 そう、今日は大切な約束があるのだ。


 私は着替えを持って浴室に行く。浴槽だけは改築されてパネルで追い炊きができるようになっていた。


 熱い湯で体を流しながら、昨日の会話を思い出そうとする。

 私は本当に、由希さんへの告白に成功したのだ。


 ……学生の初恋じゃあるまいし。


 自然と苦笑いが浮かぶ。浮き足立っている自分がおかしかった。



 由希さんがもう座っていたので、一緒に朝食をとった。秀信さんは軽く食べて、田んぼの様子を見に行っているという。

 そういえば日守家も水田を持っているのだ。田植え、稲刈りをしなくなって久しいので忘れていた。


「お父さんにばれたかもね」

「マジですか」

「だって私達、仲良くここで寝ちゃったじゃん?」

「あ、そうか」


 秀信さんが深夜に帰ってきたのなら、当然この部屋は見ただろう。


「何か言ってました?」

「『失礼のないように』だって」

「ばれましたね」

「だろうね」


 二人でずずっと味噌汁をすする。


「でも、やっぱり一族の人間と使用人じゃ釣り合わないかな」


 私は勢いよく味噌汁のお椀を置いた。


「何を言ってるんですか。ぼくはそんな前時代的な価値観は持ってませんよ。あの親父だって恋愛にはおおざっぱだったんです。これがおかしいって言う奴の方がおかしいんですよ。もしそう言う奴がいたら鼻で笑ってやりましょう。あらあら時代に取り残されちゃってかわいそうにって」


 ぐふっと由希さんが咳き込みかけた。


「危なっ、鼻にご飯粒が入るかと思った」

「そんなに変なこと言いました?」

「そうじゃなくて、おかしかったの。竜吾君、急に熱くなるから」

「だって、由希さんに家柄とかで遠慮されたくないですし」

「まーた、そうやってさらっと言うんだから。ふふ、ありがと」


 由希さんが近づいてきて、抱きしめてくれた。気持ちが温かくなり、しばしくっついたままでいた。香水とシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。すぐ近くにいながらずっと遠かった由希さんの存在が、本当にすぐそこにあるのだと感じられる。


「はい、おしまい」


 身体が離れた。


「え、終わりですか」

「続きはまた今度ね。どうぞ、ゆっくり食べていいよ」


 先に食べ終えた由希さんが立ち上がった。自分の食器を持って台所へ行く。

 私はおとなしく朝食を再開した。


 朝食のあと、テレビの情報番組を流しながら携帯をチェックした。誰かからメールが来ているわけでもない。面倒なのでアプリも入れていない。一回もツイートしていないツイッターで、有名人のつぶやきを確認するだけだ。特に真新しい情報はなかった。


 体が辞書でもぶら下がっているかのように重たく、動く気が起きない。これから花乃を迎えに行かないといけないのに。


 テレビを消して台に突っ伏す。ひんやりした表面に触れると、頬が心地いい。吐息で台が曇った。息を長く吐いて、曇る面積を増やす。適当に漢字を書いてみる。真っ先に思いついたのは「清」の文字だった。


 ――そこで希とかが出てこないんだから駄目だよな。


 ししし、と一人笑いする。遠目から見たら、さぞ気持ち悪い光景だろう。


 かなり向こうから、父のえずく音が聞こえた。

 由希さんが父に朝食を持っていったばかりだ。食べ物を体が受けつけないのだろう。


 親父に近づきたくないなどと言っていないで、私も手伝うべきだ。


 意を決して立ち上がった時、携帯がメールの着信を告げた。

 桃山花乃からだった。


  いつもの奴らに連れ出されそうな雰囲気です。

  暇なら助けてください。

  返信ふよう


「おいおい……」


 最後の「ふよう」は「不要」だろう。ひらがななのは慌てて送信したせいだろうか。


 それにしても、「暇なら助けてください」とは。花乃の言語感覚は変わっている。


 ともかく、すぐ出かけよう。私は中座敷に顔を出した。


「由希さん、行ってきます」

「あれ、お昼からじゃなかったの?」


 上体を起こした父の背中を、由希さんがさすってやっている。


「いじめグループに絡まれてるらしいんです。SOSが来ました」


 ちゃんと証拠を見せる。父は口を開けたままで、反応すらしない。


「でもこれ、場所書いてないよ? わかるの?」

「わかんないですけど、連れ出されるってことは家に押しかけられてるんでしょう。高校生だから移動手段は徒歩か自転車。この場合、花乃を自転車に乗せたりはしないと思うので、おそらく全員歩きですね。学生の集団なら目立ちますし、近隣で聞き込みすればなんとかなる気がします」


 由希さんが「ほう」とこぼした。


「さすが先生、頼もしいじゃない」

「とりあえず、急がないと」

「うん、いじめっ子なんかぶっ飛ばしちゃえ」


 私は立ち上がって、座敷を出る。戸を閉める時に振り返った。


「親父、また桃山の娘さんが来るからね」


 返事はない。由希さんが急げとジェスチャーを送ってきた。


「私が説明しとくから、早く」

「はい、お願いします」


 私はヴィッツに飛び乗って屋敷を飛び出した。

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