3-5 ファーストコミュニケーション
花乃は廊下を戻って下座敷を抜け、居間に顔を出した。由希さんがバンダナを巻いて台を拭いている。
「何かわかったかな?」
「いえ、まだ何も」
確認を終えたらしい花乃が、廊下に出てくる。
次に台所へ入った。
私が続こうとした時、
「ひっ……!」
押し殺した悲鳴と共に花乃が後退ってきた。
避けきれずぶつかり、重なるようにして転んだ。背中を強打して一瞬息が止まる。
「なんかすごい音したけど大丈夫……じゃなさそうね。大丈夫!?」
飛び出してきた由希さんも驚いたようで、よくわからないことを口走っている。
「花乃、そろそろどいてくれると助かるんだけど……」
返事はなかった。
花乃はじっと台所の中を見つめている。私の上に乗った身体が震えていた。
――この反応は、まさか。
「花乃、そこにいるのか?」
「い、います……」
「ちょっと、動いてもらえる?」
「あ、はい……」
由希さんも近寄ってきた。
私達は三人で台所を覗き込む。よくある旧式のキッチンだ。コンロとシンク、冷蔵庫の上に電子レンジ。食器棚にはお皿がきっちり収まっている。壁や柱は黒ずんでいるけれど、床や調理器具がよく手入れされているのがここからでもわかる。
「そこの角に、イスがありますよね」
左手前、食器棚の前に足の長いイスが置かれていた。四本足で座面は円形の緑色。昔から台所で使われてきたイスだ。
「イスに、一人座ってます」
花乃は写真を見て、顔を上げた。
「……高明君です」
緊張、興奮、恐怖、色々な感情の混じった声に聞こえた。
「清吾はいる?」
「います。隣に立って、向き合って……たぶん会話してるんだと思います。でも声は聞こえない……」
「私には何も見えないよ?」
「ぼくもだ」
「う、嘘じゃないんです。本当にいるんです……」
「落ち着いて」
私は花乃の頭を撫でる。
「君が嘘をついてるとは思ってないから、心配しなくていい」
さっきの飛び出し方を見れば、本当に見えたのだと確信できる。この少女はあんな迫真の演技ができるタイプではない。
「声をかけてくれるかい?」
「え、わたしがですか」
「君しかいないだろう」
はあ、と花乃はためらう仕草を見せたあと、深呼吸した。
「ね、ねえ、そこのお二人さん」
ものすごく恥ずかしそうだった。
「き、聞こえるかな?」
数秒の沈黙が落ちた。
ぎぎっ、ぎぎぃっ……。
「竜吾君、今、イスが絶対に……」
「……大当たりですよ」
これほど確かな証明はあるまい。
そう感じるほど、明らかな変化だった。
花乃の指したイスが、前にずれたのだ。わずかな動きだったが、私は確かに見た。音も聞き取れた。
清吾と高明は、確かにそこにいる。
「ど、どうすればいいですか?」
花乃は泣きそうな顔で私を見つめてくる。
「こっちを見て笑ってはくれるんですけど、返事はなくて」
「よし、紙に字を書くからそれを見せてみよう」
私はカレンダーの切れ端を持ってきて、マジックで文字を書いた。
『竜吾だよ。覚えてる?』
「ちょっと待った。竜吾君、それじゃ駄目じゃない?」
「え、まずいですか?」
由希さんは花乃に視線を送った。
「そこにいる二人はいなくなった日と同じ格好をしてるんだね?」
「はい……」
「顔も写真と同じなの?」
「はい、まったく同じ顔をしてます」
「じゃ、小学校に上がる前の子供を相手にするわけだ。文字、ちゃんと読めるかな?」
「あ」
言われてみればその通りだ。
四歳だった私は、自分の名前をひらがなで書くのがやっとだった。母に教えてもらってようやく書けるようになったのだ。お絵かきより外遊びが好きだった清吾は、文字が読めない可能性が高い。
私は二枚目の切れ端に、
『りゅうごだよ』
と大きく書いた。
由希さんは困ったような笑顔で、一つ頷いてくれた。
「花乃、これを二人に見せてぼくを指差してくれ」
私は台所のドアのレール上に立った。花乃が二人に紙を見せ、右手を私に向けている。
「返事が……」
言いかけて、言葉が切れた。
花乃の体が前のめりになった。少し目を細めている。
「せ、い、ご、だ、よ……? あ、頷いてくれた」
花乃が読み上げる言葉に、私は鳥肌が立つのを止められなかった。
もう、この家に幽霊が存在することは確実と言ってよかった。三人がそれぞれの立場から、台所の変化を目にした。疑う余地はどこにもない。
ここは幽霊の実在を受け入れて、調査を進めていこう。
当人達は、自分がどうやって死んだかを知っている。
直接問いただすほど効率のいい方法はない。
「花乃、清吾に聞いて。ぼくと最後に昼寝をした日のことを覚えているかどうか」
「そんな、難しすぎます。幼い子が相手なんですよね?」
「そうだけど、訊いてみないことには始まらない」
無理を言っているのはわかっている。それでも私は真相を知りたいのだ。
「なんて書こうか」
由希さんが新しい紙切れを持ってきた。
「由希さん、協力してくれるんですか」
「だって、間違いなくひとりでにイスが動いたじゃん。それに花乃ちゃんの動きだって演技に見えなかった。これはもう、いるって考えるべきだよ。はいはい先生、子供にもわかる文章をどうぞ」
「……ええと」
さっぱり思いつかない。そもそもどこから話を始めればいいのか。私を覚えているかどうかも怪しいのだ。
「まず、『りゅうごをおぼえてる?』と書いてみてください」
「オッケー」
由希さんがさらさらとマジックを滑らせていく。しっかりした性格を裏切らない達筆さだ。
「できた、お願い」
花乃が紙切れを受け取って、清吾がいるであろう位置に向ける。
たっぷり一分、私達は待つことになった。
「首をかしげています」
「駄目か……」
このレベルでも通じないとなると、証言は得られないと判断すべきかもしれない。せめて、小学校に上がるくらいの年齢だったら会話もできただろうに。
「自力で調べるしかないね」
「待って、高明はどうだろう? 一歳年上だから清吾よりは言葉が通じるんじゃ」
「難しい話はできないんじゃないですか。期待しない方がいいと思いますけど」
「そうだけど、やってみようよ」
「じゃ、文章はどうする?」
「まず名前を確かめましょう」
オッケー、と由希さんが答え、
『たかあきくん?』
と紙に書いた。受け取った花乃が、さっきと同じ姿勢を取る。
「あっ、頷いてくれました。そ、う、だ、よ――って言ってます」
「よし、次だ」
自分の子供時代を思い返す。
どんな質問には返事ができたか?
記憶はかなり薄くしかないが、忘れていないものもある。
「由希さん、『なにしてるの?』って書いてください」
「うん、わかった」
すぐに紙が文字で埋まる。
「……せ、い、ご、と……お、あ、そ、び……?」
「あ、それきっとお父さんの言葉だ!」
由希さんが叫び、花乃がびくっとした。
「私のお父さん、子供相手にはよく言ってた。『おあそびかい?』ってさ」
「そうでしたっけ。ぼくも言われたのかな……」
「たぶんね。私が覚えてるんだからこれは確かだよ。他の大人はみんな頭に『お』をつけなかったもん」
「なるほど。しかし、なんの遊びをしてるんだろう?」
「次はそれを訊こうか」
私が賛成すると、由希さんのマジックが高速で走った。
『どんなおあそび?』
これくらいならわかるだろう。
花乃が受け取った返事はこうだった。
「か、く、れ、ん、ぼ……で、合ってると思います。声が聞こえないので……」
「うーん、誰とかくれんぼしてるんだ? 二人一緒なら鬼がいなくなるじゃないか」
「もしかして、竜吾さん達から隠れてるんじゃ」
「向こうからは、ぼくらが見えてるんだよね」
「視線が動いているので、そうだと思います」
私は次の指示を出した。由希さんがさらなる言葉を綴る。
『おにはだれ?』
花乃が紙を持って、じっとイスのあたりを見つめている。表情は硬く、緊張しているのが伝わってくる。おそらく経験したことのない仕事のはずだ。私の想像以上に気力体力を消費しているだろう。
「お、う、ち、の、み、ん、な……」
高明の言葉には続きがあった。
「も、う、や、め……?」
「もうやめるって意味でいいんだよな」
「たぶん……。あ、こっちに来た」
びっくりしたように花乃が台所から出た。
私も慌てて廊下を空ける。由希さんも同じようにした。
トン、トン、トンッ……。
ぺた、ぺた、ぺたっ……。
台所を移動する足音が二つ。
やがてそれは、
ぺし、ぺし、ぺしっ……
ぎしっ、ぎいっ、ぎしいっ……
明らかに廊下へ入ってきていた。
足音だけが、私達の前を横切っていく。
私は花乃の視線に注目していた。
何も発しないけれど、彼女には二人の姿が確かに見えているのだ。視線だけが、動く者を追いかけている。台所から階段の後ろの廊下を抜けて、座敷の方へ行ったのだ。
「ど、どうしますか?」
「追いかけられる?」
「一応は……」
「なら、行こう」
私と由希さんは花乃についていった。
廊下を右に曲がり、座敷と和室を挟む縦の廊下を進んでいく。
父の頭のすぐ上を息子達が通り過ぎていったわけだ。本来並んでいたはずの三人兄弟が。
「和室に入りました」
私は思わず息を吐き出した。
「もう、ぼくはどんな超常現象でも受け入れられそうな気がする」
「同感。ていうか、こんなにはっきり存在を感じられるなんてね」
「家族相手にかくれんぼするくらいですから、由希さんや秀信さんが近づいてきたら離れるようにしてたんじゃないですか?」
「悪戯を見つかった子供が慌てて逃げる的な?」
「ああ、それだと説明のつくところがありますね」
由希さんもすぐ理解した顔になった。
「戸が微妙に開いたりしてたやつね」
「二人が開けっ放しにしたままだったって可能性があります」
「ありえるよ。開いてる幅が中途半端だから単なる閉め忘れだって考えようとしてたけど、ちっちゃい子が通るならいっぱいに開ける必要ないもんね」
普通の人間には見えない。
話す声は聞こえない。
足音はする。
物には触ることができる。
私は頭の中で特徴をまとめていった。
由希さんの証言と自分自身の経験を照らし合わせると、物の干渉は受けている、と仮説が立てられる。そもそも映画の幽霊のように、物体を透過するなら床の上に立っていること自体がすでにおかしいのだ。戸を通り抜けられないなら、私達と同じように開けて出ていくしかない。
「これってすごいスクープだと思うんですけど、お二人とも冷静ですね。誰かに話したくならないですか?」
花乃の質問に、私と由希さんは苦笑していた。
「ならないですよね」
「ねー。このお屋敷、薄気味悪いって評判だから。学生時代にも噂とか立てられたし、もう騒がれるのはこりごりっていうか」
「暗黒時代のことは考えるだけで気が重くなる……」
私達がぼやくと、花乃がすぐさま頭を下げた。
「あの、ごめんなさい。嫌なことを思い出させてしまって……」
「いや、いいんだ。これから騒がれなければ問題ないし」
「そういうこと。花乃ちゃんは気にしないで」
「はい……」
「とりあえず、みんなで距離を縮めてみよう」
「なんか冒険してる気分になってきたね」
由希さんがちょっと楽しそうに言う。私も心臓がずっとバクバク騒いでいる。昨日物置で味わったものとは違った緊張だった。
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