第三十二話 告白
屋敷に戻ると、階段を急いで降りてくるエミリアの姿があった。
「お帰りなさいませ。ご用事の方は、ご無事に――」
「滞りなく済んだわ。夕食までまだ時間があるから、原稿の続きをするわね」
「はい。ではご夕食もいつも通りにいたします」
マリーは書斎に向かい、宣言通りタイプライターで物語を打ち続けた。
夕食は書斎まで運んでもらった。パンとスープとソテーという実に質素なものだが、長年それで育ってしまったので、今更豪勢な食事には変えられなかった。その浮いた食費を取材費に充てたり、数少ない使用人の給金にしようと思っている。
夕食と入浴が済めば再び書斎に戻る。あとは眠気の具合であった。集中力が切れるまでひたすら物語を書き続けるのだ。
何時になるかわからないので、エミリアには定時に眠るよう伝えている。「だれがお飲み物をお持ちするのですか」と彼女は食い下がったが、マリーは頑なに首を振った。
深夜の世話は、ちゃんとしてもらっている。この家唯一の従僕に。
がしゃがしゃとキーボードを打ち続けるマリーの横で、ティーポットが独りでに浮き上がり、空のカップに紅茶を注いだ。まだしっかりと湯気が上がっている。せっかく閉じた後ろの窓も開け放たれていた。
マリーは無意識のうちにカップに手を伸ばし、口をつける。一口啜って我に返った。
「あ」
さっと辺りを見回す。姿が見えない上に、窓から入る生ぬるい風のせいで冷気も薄い。
「いけない、すっかり遅くなってしまったわ」
壁時計は間もなく0時になろうとしていた。ランプの灯りで机回りだけは仄明るいが、戸口の方は暗い影が降りている。
「ジル、そこにいるの?」
すると、マリーの左の腕にひやりとした感触があった。いつの間にか彼が至近距離に立っていたのだ。驚いたマリーは慌てて打ちかけの紙を外して新しい紙を差し込んだ。
「ごめんなさい、つい集中してしまって。あの……昨日言っていた、話というのは……」
がしゃがしゃ、タイプライターのキーが動き出す。
〝原稿の方は、大丈夫ですか〟
「ひとまずできているわ。あとは推敲するだけよ」
〝それはなによりです〟
キーの動きが止まる。口籠もり、何事か思案している彼の様子が目に浮かぶようだった。
「言いづらいことなら、無理して話さなくてもいいのよ」
彼がどうして残っているのかなんて、本当は怖くて聞きたくない気持ちもある。
「時間がほしいと言っていたでしょう。昨日の今日なんて、足りないわよね」
そこまで言うとようやくキーが動き出した。
〝時間などいくらあっても、最善の言葉を見つけるには足りません〟
無機質な文字に、ジルヴェールの意思が刻まれていく。
〝丸一日使っても、どのようにお伝えしたものか、己の気持ちすら整理しきれませんでしたから〟
「あなたの、気持ち……?」
〝そう。気持ちです。私がここに残っているのは、ただ私の思い故なのです〟
マリーは膝の上の手のひらをぎゅっと握りしめながら、黙って文字を目で追った。
〝魂をこの世に縛りつけるものは、強い未練です。強烈な感情と共に魂を苛み、杭を打つもの。大抵は憎悪や悲哀、絶望といったところでしょう。かつての私も、そうでした〟
「でもそれは、もうなくなったんでしょう……?」
それとも、まだ燻っているのだろうか。彼の中にもう一つ強烈な気持ちがあるとしたら、それはただ一つしか、思い当たらない。
亡きジャンヌへの、純粋な恋慕の情である。
〝おっしゃるとおり、私を物置部屋に縛りつけていた醜いものは消えました〟
躊躇いがちだったキーの動きは徐々に速くなり、滑らかに彼の言葉を紡ぎ出す。
〝あなたに救われたあの瞬間、私の魂は確かに天へ昇るかのように思われました。ですが、行けなかったのです。その理由は不明だと思い込んでいましたが、心の底ではとっくにわかっていました。私にはまだ、明確な未練があります〟
「ジャンヌ……?」
胸が押しつぶされそうになりながら、マリーはとうとう声を絞り出した。
キーの動きがぴたりと止まる。
しばしの間、息が詰まりそうなほどの静寂が訪れた。マリーの心臓は強く打ち鳴らされすぎて壊れてしまいそうだった。
こわい。次に打ち出される文字が、こわい。
がしゃん。
〝いいえ〟
たった一言が、紙の空白に打ち出される。続いて、がしゃがしゃとキーが鳴り響いた。
〝私は、あなたに仕えたいと強く願いました。その願いは明確な未練となり、私の魂を再びこの屋敷に縛りつけたのです〟
息が止まるかと思った。
マリーは目を疑い、何度も何度もその文字の連なりを読み返していた。だが理解が追いつかない。納得がいかない。
「どうしてわたしなの? その、あなたの言うように、わたしはあなたを救ったかもしれないけれど――」
〝救われた恩返し、というだけでは、おそらくないでしょう〟
彼の言葉は、信じがたい面持ちで固まるマリーを優しく追い詰めていった。
〝私は、あの瞬間、あなたにいただいた口づけを忘れることができません。この気持ちは自身でも理解しがたいものでしたが、いくら時間をかけようと意味はありませんでした〟
――ただ、私の自覚の問題でしたから。
「うそよ」
マリーはひどく狼狽え、椅子ごと後ずさっていた。
「また、勘違いをしているのよ。わたしが、ジャンヌに似ているから」
〝その可能性も考えました〟
落ち着き払った調子で文字が淡々と綴られていく。
〝私があの場所であなたに明かしたことを、覚えておられますか〟
マリーは少し考えて、
「二つの意識がどうとかって……?」
〝覚えておいでですね。ではおのずと答えは導き出せるはずです。当時私を形成していた醜い意識はお嬢様を求め、反して冷静だった私の意識は、あなたを求めていました〟
「そんな、でも」
〝他に考えようがありません。この気持ちが紛いものだとは思いたくないものです〟
絶句しきったマリーの目の前で、タイプライターは締めくくられる。
〝私の考えは以上です。もう眠らなければなりません、マリー様〟
「マリー様、なんて……」
複雑な心境であった。あのとき彼は最後に、マリーと呼んでくれたのに。
〝私は一介の従僕ですから。では、そろそろ寝室へ参りましょう〟
「待って、まだ話は終わってないわ」
〝私の気持ちはもう、すべてお伝えしました。明日も執筆に勤しまれるのでしょう、お休みいただかなければなりません〟
かしゃん、と無機質な音と共にタイプライターの排紙ローラーが回る。
「そんな、待って、わたしの気持ちは……」
言いかけて、マリーは思わず小さな悲鳴を上げた。全身に氷が押し当てられたような感触が包み込み、身体が独りでに浮き上がったのだ。
「な、なに――」
そのまま、マリーの身体は宙を漂う。鼻先で扉が開き、書斎を出た。
燭台もなく暗い廊下を進んでいくのは怖かったが、しがみつくようなところはない。マリーを持ち上げているのは実体のない亡霊だ。
やがて物置部屋にたどり着き、マリーはベッドの上にそっと横たえられた。
「ジル」
無言でシーツが被せられる。冷たい指先のような感触が、開きかけたマリーの唇を優しく押さえた。
途端に、疲労がどっと肩にのしかかる。朝から執筆に集中し、午後は母に会った。それからまた書いて、書いて、書いて――
懐かしい感触がマリーの肩や腕に触れる。ぴたりと包み込むようにして、マリーを抱きしめてくれる。
幼い頃、彼から与えられる冷たさにどれだけ救われたことだろう。とっくの昔から、この亡霊なしでは生きていけなかったのだ。
マリーの高鳴っていた心臓の音は不思議と穏やかになり、瞼が少しずつ降りてくる。彼の魂に包まれる安堵感に満たされて、凪のような静寂の中、眠りに落ちていった。
小さな主人が寝息を立て始めると、物置部屋のサイドテーブルで何かが動いた。マリーが寝起き様に突然アイディアをひらめいたとき、書き留められるように置かれたメモである。その上に重しのように置かれたペンが独りでに浮き上がり、インクに浸された。
〝あなたの気持ちは、既にお聞きしていますから〟
几帳面に整えられた文字が綴られる。短い一言。その周囲の空白に、言葉にできない彼の想いがひしめいている。
〝夜が明けても そばにいます〟
夜が明けてもそばにいる シュリ @12sumire35
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