間話 幽霊 二
彼は見ていた。洋箪笥の後ろの壁に小さく開けられた穴から、じっと覗き見ていた。
あの娘が真新しいドレスを着て、つぼみの開くような微笑を浮かべてくるりと回る。したたるような月光が長い黒髪を濡らして艶めき、その瞳は月明かりを余さず受け止め、サファイアのようにきらきらしく輝いていた。
彼に肉体があったなら思わず息を呑み胸を抑えていたに違いない。それほどの衝撃が彼を貫いていた。混沌とした意識の中で、様々な映像の断片がフィルムのように高速で再生されていく。
庭園を駆け抜ける風の精のような少女、深紅のダリアのような笑みを散らしながら、無邪気にこちらを見上げる少女……
小さな覗き穴の向こうで、娘がもう一度くるりと回る。青いドレスの裾がふわりとひるがえり、濡れ羽のような黒髪がなびく――
彼の意識はさらに混沌と化し、何が何やらわからなくなった。ただ確かなのは、狂おしいほどの陶酔と焼けつくような嫉妬の炎。それは、黒い髪と青い瞳を持つ少女に容赦なく注がれている。
だからだろうか、部屋にもどってきた娘の姿を見るやいなや彼は襲いかかり、壁際に追い詰め手首を縛りあげてしまった。無意識の、本能的な衝動だった。
――アァ、オジョウサマ、オジョウ……サマ……
幾度も呼びかける彼の声に、悲しげな熱情が絡みつく。記憶の中の少女と目の前の娘の姿がはっきりと重なり、彼の中の焦がれるような熱がさらに激しく燃え上がる。
気がつけば、おののく娘の唇を奪い取っていた。触れ合うこともできぬはずの唇。その生きた熱の感触を受けた時、得も言われぬ悦びが彼の胸を貫いていった。
娘の瞳から光が消える。糸が切れたように脱力して意識を失った。そこで彼はやっと我に返る。
床に倒れ伏した娘の顔をじっと見下ろした。
青ざめた頬と薄紅の唇。この娘の顔は確かに美しいが、記憶の中の少女のみずみずしい果実のような艶めきはない。似ているのは黒く長い髪と、瞼の下の青い瞳だけだ。彼の意識を沸きだたせた青いドレスも、よく見れば古く地味なスカートにすぎない。
だが娘の姿を見れば見るほどに感情が昂ぶるのを感じる。やはり、似ている。面影がある。
――ダリアは?
あどけない声が彼の心をかき乱す。
――ダリア、植えてくださるんでしょう?
とろける蜜のような声が彼の心に滴り落ち、わんわんと波紋を広げていく。
気がつけば彼は、庭からダリアを一輪、摘み取っていた。自分から屋敷の外に出られたのはこれが初めてだった。霊としての力が強まっているのだろうか。
幾重にも重なる天鵞絨のような見事な深紅の花弁に口づけ、窓の桟にそっと置く。
床に横たわる娘の寝顔を、いつまでも眺めていた。月が沈み、再び陽の光が差して、彼の意識がまどろみのなかに落ちるそのときまで。
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