第十話 白黒写真
やはり自分は夢の中で幽霊の人生を体験しているのだろうか。
マリーはダリアを手に悶々と考えていた。笑いかけてきた少女……彼女が口にしたダリアの名、そして、今手の中にある赤い花。偶然とは思えない。信じがたいことだが、幽霊の仕業としか考えられなかった。
だが、なぜこの部屋に持ってきたのだろう。彼はこの部屋に取り憑いているから出られないのだとばかり思っていた。庭に出て花を摘んでくるなんて、考えてもみなかった。
昨夜、いきなり壁に縛りつけられた記憶がまざまざと甦る。マリーは指先でこわごわと唇に触れた。冷え切った指の先がつんと触れた瞬間、あの氷の溶け入るような感触を思い出し、背筋がぞっと凍りつく。反射的に両手で胸を押さえた。
心臓がどくどくと脈打っている。これは恐怖のためだろうか。そうに決まっている。相手は得体の知れない幽霊なのだから。あれほど激しい感情をぶつけられて、心臓が怯えないはずがない。……
悶々としていたせいで、部屋に近づく騒がしい足音も耳に入らなかった。それは物置部屋の扉をごんごんと乱暴に叩き、マリーの肩を飛び上がらせた。
「ちょっと、いるんでしょう?」
カトリーヌだった。
「今日、私の見合い相手がくるの。いいこと? あんたはこの部屋から一歩も出ないでおとなしくしていてちょうだい。汚らしい妹がいるなんて知られたら大恥をかくわ。もし出なきゃいけないなら、メイドのふりをするのね。わかった?」
マリーは返事をするのも嫌になって、天井を仰ぐ。
「ちょっと、聞こえてるの?」
「聞こえています、お姉さま。あまり大声をお出しになるとお母さまに聞こえますよ」
「生意気!」
がん、と扉に衝撃が走った。
「最悪。あんたのせいで手が傷ついたわ」
「何も殴ることはなかったでしょうに……」
「うるさいわね! 薄汚い泥棒ねずみのくせに!」
かつんかつん、と強い音を響かせて足音が去っていく。彼女が肩を怒らせて歩いて行く様が目に浮かんだ。
客人が姉の見合い相手だろうが母の関係者だろうが、マリーにとっては何の関係もない。元々、この部屋から出てはならないからだ。
カトリーヌが去るとき、かすかに重々しい衣擦れの音がした。普段は着ないような上等なドレスを着ているに違いない。彼女がはりきっているということはそれなりにいい相手なのだろう。どうでもいいことではあるが。
自分は一体、だれの元に嫁がされるのだろう。
ベッドに背中から倒れ込み、そっとダリアを天井へ掲げた。みずみずしい姿のまま凍りついてしまった赤い花。これを持ってきてくれた彼の存在に思いを馳せる。
あなたは一体、だれ……? どんな人なの……?
昔、胸をときめかせ、いやというほど読み返した夢の記録を思い出す。庭師について歩いていた緑の光景、少女への焦がれるような強い熱情、そして、ぞっとするほど鮮やかな死体……
すべてが、彼一人に繋がっている。
今日ほど部屋を出たいという気持ちに駆られたことはない。いつもは頼まれなくとも出たくないのに、今はなんとか庭へ忍び込めないか、管理棟に行けないものかと思案を巡らしていた。
カトリーヌの見合い相手は夕方頃にやってきて、屋敷の広間で晩餐を共にするようであった。馬車の蹄の音、忙しない使用人たちの物音でだいたいの状況がわかる。
マリーはなるべくそれらしく見えるよう長い髪をひっつめた。質素な格好も相まって、その辺の家女中そのものである。
晩餐は夜中にかけて行われるに違いない。彼らは今、食事や音楽、お喋りに夢中になっている。万が一見つかっても女中のふりでやり過ごせる。マリーは足音を忍ばせ、気配を殺しながら階段を下りていった。一階の廊下は盆やワゴンを持ったメイドたちが行き交っていたが、今ならそれも落ち着いている。
そうして、マリーは裏口からするりと抜け出ることに成功した。
広々とした庭には薄闇が下りている。夏の夜のぬるい風がマリーの首筋を撫でていく。暗い木々の茂みに目を馳せ、薄暗い空に黒々と浮かび上がる木々のシルエットに背筋をぶるりと震わせた。
しかし幼い頃に植えつけられた森への恐怖も、この好奇心を打ち負かすことはできない。マリーは一歩ずつ芝生を踏みしめ、木立の間に入っていく。
古い革の靴底に湿った柔らかい土の感触があった。草いきれが鼻腔を覆い、知らない生き物の息づかいを感じる。見渡す限りに不気味な木々の陰が立ち並び、こちらの不安を煽るようにざわざわと揺れている。
ふいにばさばさと羽音がして、マリーはきゃっと悲鳴を上げた。鳥か蝙蝠か、翼を持つものが夜空を駆け抜けていく。
手足が震えている。泣きそうなほど怖かった。だが幸い、頭上には煌煌と月が照っていた。星明かりも霞むほどのまばゆい光がマリーの行く道を照らしている。はっきりと場所がわかっているわけではないが、なんとなく、月が白く照らしている道を行った。木々の少ない、痩せた一本道を。
その先に、背の低い建物の陰が黒々と出現した。一階建ての円形の小屋である。石壁をくり抜いたような小さな窓から灯りが漏れており、マリーは安堵のあまりくずおれそうになった。
あの老人はいるだろうか? 戸口に立ち、おそるおそるドアノッカーを叩いてみる。
「ごめんください」
するとほどなくして、すっと音もなく扉が開いた。奥からぎょろりとした黄色い眼が覗く。
「おや、お嬢さん」
老人はあの時のようなフード姿ではなかった。はげ上がった頭からわずかばかりの白髪が垂れている。やはり、どちらの性別かは不明である。
「今頃、お屋敷では晩餐時ではないですかな」
「わたしはあの人たちとは違いますから」
老人はマリーをじろじろと眺め、不気味な笑みを浮かべて奥へ招いた。
「どうぞこちらへ。何もない、不便な管理棟ですが」
マリーはこわごわと一歩踏み出した。ぎしり、古い床の軋む音がする。
「こちらにお客様がいらしたのは、何年ぶりになりますかな……」
小屋の真ん中にシンプルなテーブルセットがあり、老人が手近な椅子を引いてくれた。
「それで、どのようなご用件で」
「教えていただきたいことがあるんです」
椅子に腰かけると、マリーは胸の前でぎゅっと手を握りしめた。
「この間、池の前で言ってらしたこと……詳しくお聞かせ願えませんか」
「ほほお」
老人はどことなく嬉しそうに口元を歪めた。
「やはり、気になりますか」
「はい」
「ふむ……では、お聞かせしましょう」
老人は箪笥の上に立て掛けられていた写真立てを手に取り、マリーの正面に座った。大きめの四角い枠の中にはインクの滲んだ古い写真が収められている。写っているのはいかにもお金持ちといった風情のある一家と、使用人たちのようだった。
「クレメントご一家の記念写真です。五十年ほど前になりますかな。私は当時からこの屋敷の管理人をしておりました」
と、しわくちゃの指先で写真を指し示す。
「こちらがご主人のシルヴァン様」
口ひげを蓄えた紳士が穏やかな微笑を湛えて真ん中の椅子に座っている。老人は続けて、紳士に寄りかかるように立っている品の良い貴婦人を指した。
「こちらが奥方のシャルロット様。お二人はいつも仲睦まじくしておられました」
続いて、今度はその反対側に並んだ三人の若い娘に指先を向ける。
「そしてこちらが、三人のお嬢様方です。残念ながら男児には恵まれませんでしてな、しかしどなたも美しく聡明で、それぞれまったく違う良い性格をなさっておいででした」
マリーの目線は、一番端に立つ娘の姿に吸い寄せられた。
は、と息を呑む。
「この、方は……」
カメラの方へ、まだあどけなさの残る笑みを向けている少女。何より特徴的なのは、背中まで垂れた真っ直ぐな黒髪。滲んだ白黒写真でもはっきりとわかるほど整った美貌をしている。
「その方はジャンヌ様といって、一番末のお嬢様でしてな……」老人は懐かしむように眼を細めた。
「自由で奔放、そして、大変に美しい方でした」
老人のぎょろついた眼が、まっすぐにマリーを見据える。
「ちょうど、お嬢さんのような綺麗な黒髪と、青い眼を持っておられましたな」
脳裏に、毒々しい鮮血の海と死体の娘が甦った。
「……あの、亡くなったお嬢様とは、この方ではありませんか」
「おお、確かにこの方は亡くなっておいでだ。しかし、池で亡くなったのは別のお嬢様です」
「え?」
老人の指が、今度は主人の椅子の隣に立つ、眼鏡をかけた生真面目な表情の娘を指した。
「池で亡くなられたのはナタリー様。ご一家の長女でしてな。なぜか、末の妹ジャンヌ様の恋人であった騎士殿と共に池に落ちてしまわれたのです」
「では、ジャンヌさんは」
「ジャンヌ様は、殺害されたのです。犯人ははっきりとはわかっておりませなんだが……一番疑いの深かったのは、この家に仕えていた従僕の男でしてな。彼はジャンヌ様が亡くなった部屋の隣の物置部屋で、自らの心臓に刃を突き立てて自害しておりました」
――物置部屋。
――自らの心臓に、刃を。
全身から血の気が引いていく。今度こそ息が止まりそうだった。
「そ、それでは……その、従僕の方が、ジャンヌさんを……」
「彼が自害に使った刃はジャンヌ様を殺した凶器であったらしいと、後に判明しましてな。ただいかんせん、動機がない。その従僕はジャンヌ様と特別接点があったわけではありませんでしたからな。犯人説は濃厚ではあるが、死人に口なし、事件は五十年経った今も未解決のままです」
マリーの全身に悪寒が走る。むき出しの腕が不気味に粟立った。
「それで、クレメント家は娘を二人も失ったということで……引っ越しを……?」
「いいえ。まずお二人が亡くなられる前にご主人であるシルヴァン様が流行り病でお亡くなりになりましてな。それまでは本当に、この家こそ世界一幸福な一家であると誰もが疑わぬほどの栄華を極めておられましたが、それから一転して立て続けに不幸が訪れたのです。ナタリー様の溺死、ジャンヌ様殺害、そして、従僕の自殺。おかわいそうに、奥様はショックで気が触れてしまわれて、精神病院へ搬送され……残された次女であるアネット様のご希望でこの屋敷を明け渡し、街中にある病院近くの別宅にお移りになられたのです。その後看病も虚しく、奥様は息をお引き取りになられたとか」
マリーは改めて写真に目を落とした。
次女アネットはおっとりした表情で二人の間に慎ましやかに立っている。自分以外の家族全員が続けざまに亡くなったとき、一体どのような心境であったのだろう。
「その後……アネットさんは」
「その後はわからずじまいですな。私は屋敷が敷地ごと取りつぶしに合わぬ限り、ここ管理棟におらねばなりませんからな」
「ずっと、お屋敷を守ってらしたのですね」
「守る甲斐なく、気味悪がって誰も寄りつきませんでしたな。一家のほとんどが死んでしまったいわくつきの屋敷であると、まことしやかに噂されておりましたので」
そんな、いわくなんて――そう言いかけたマリーだが、物置部屋に取り憑く幽霊の存在を思い出して口を噤んだ。噂は間違いではなかったのだ。
「ですから、あなたがた親子が住まわれてようやく屋敷は息を吹き返したのですな。といっても、かつてのような輝かしい姿とはほど遠いものでありますが」
「母も、気を病んでしまっているところがありますので……」
言いながらうつむき、首をわずかに横に振ってもう一度目を上げる。
「その、物置で自殺した、従僕のことは……」
「彼のことは、私もよく知りませんで」
老人は顎に手をやりつつ写真に目を落とす。
「どうやらこちらには写っておりませんな。なにぶん遠くから目にする程度でしたので……すらっと背の高い、無口な青年だったとだけは……ああ、少年時代からこちらに奉公しに来ていましたかな、確か」
「少年時代から……」
瞼を閉じれば今でも鮮やかに甦る。幼いマリーと同じ、低い目線で見えた庭園の景色。
「あの、彼の仕事は従僕だけでしたか」
「ふーむ。基本的には従僕として働いておったようですが、暇を見ては庭の手入れを手伝っておったようですな。私の憶えている限りでは、残念ながらここまでです」
「そう、ですか」
あの夢の中で、自分はおそらく、彼になっていた――
マリーは写真に写る一人ひとりに眼を向ける。
華やかな衣服に身を包み、幸福そうな笑みを浮かべるクレメント一家と、執事や家政婦らしき人々。普通ならこういった写真は家族だけで写るものだが、彼らの湛える穏やかな微笑を見ていると、ごく自然に使用人も入れて撮ったのであろうことが窺えた。
こんな素敵な一家に、どうして不幸が……そして、どうして彼が、お嬢様を?
老人が、すんと鼻を鳴らした。
「おや、いけませんな。雨の匂いがします。お嬢さん、早めにお戻りになったほうがよろしいでしょう」
空はマリーが屋敷の裏口に戻るのを見届けたかったのだろうか、屋敷に入った途端、叩きつけるような大量の雨が降り注ぎはじめた。
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