第十一話 夢幻の世界
部屋に戻るとマリーはすぐさま洋箪笥の奥をまさぐった。五年前まで夢中になって書き留め、読み返していた夢の記録を引っ張り出す。
これに関わる姿を見せると幽霊はひどく怒った。当時はわけもわからないまま恐怖し、何も考えずここへ封印してしまったが、管理人から話を聞いた今ならその理由もなんとなく察せられる。あの話が本当であるならば、一家の末娘ジャンヌを殺してしまった記憶を暴かれるのはさぞかし嫌だったに違いない。
だが、従僕の一人に過ぎない彼がなぜ主人の娘を殺さなければならなかったのだろう。
『ちょうど、お嬢さんのような綺麗な黒髪と、青い眼を持っておられましたな……』
老人の言葉を思い出す。昨晩、彼が自分に襲いかかったのは、この髪と眼を見てジャンヌと見間違えたからかもしれない。部屋に取り憑く彼の怨念に再び火がつき、殺意が芽生えたとしたら……そこまで考えて、マリーは首を傾げた。
彼からは確かに物凄まじい感情を感じたが、明確な殺意とは違うような気がした。殺意があるなら、あんなことは……唇に触れるようなことは、しないはずだ。
ともかく、五十年前の事件には表立っていない何か深い事情が隠されているに違いない。そしてその真相を知るには、再び夢と向き合う必要があるのだ。
もう一度夢の記録を書き留めようと決意した。だが彼に見つからないようにしなければならない。気づかれればたちどころに妨害されるだろう。――マリーは記録をもう一度奥へしまいこみ、戸棚を閉めた。
夜着になり、灯りを消してベッドに潜り込む。階下はすっかり静かだ。カトリーヌの縁談は上手くいったのだろうか……マリーにとっては、どちらでもいいことだ……
雨の勢いが和らいだのか、窓の外から細い音が響いている。その音に耳を澄ましていると、突如、ぞくりと背筋が凍りついた。
横たわるマリーのすぐ傍に、冷気を放つ彼がいる。おそらくベッドの縁に座るでもして、こちらを見下ろしているのだ。
それ自体はとても懐かしい感覚だった。母や姉に虐められてつらい思いをした夜は必ずこうして傍にいて、マリーに触れてくれていた。その冷たい感触が心地よかった。だが今は、背中を駆け抜けるぞくぞくとした悪寒が止まらない。幼い頃は自然と受け入れていた感覚だったのに、ざわざわと胸騒ぎばかりを感じてしまう。
それは昨晩、壁際に追い詰められた恐怖のせいだろうか。いや、違う――
『ジャンヌ様の死体のある部屋の隣の物置部屋で、自らの心臓に刃を突き立てて自害しておりました』
老人のひび割れた声が甦る。
五十年前、この部屋に人の死体があったのは紛れもない事実なのだ。話を聞いた時はあまり現実味を感じなかったが、改めて考えると身の毛がよだった。
つ、と細い氷の先のようなものがマリーの頬を滑り落ちる。思わず肩が大きくびくついた。せっかく眠ったふりをしていたのに、起きていることが知られてしまう。
「い、いや」反射的に声が漏れ出した。「触らないで……」
途端に、辺りの音が全て持ち去られたような静寂に包まれた。何も聞こえない。背中にはりつくような冷たさだけが増しているようだった。
その不穏な静けさに耐え切れず、おそるおそる眼を開ける。部屋の中は真っ暗だ。雨の音まで不気味に途絶えている。部屋を包み込む闇はどんどん濃さを増して、気づけば一寸先まで闇に呑まれて見えなくなっていた。
不吉な予感に心臓が嫌な音を立てる。
背後の冷気がするするとマリーの脚に絡みついた。それはたちまちのうちに腹に、胸に、首元に、手首に広がっていく。全身が氷漬けにされていくかのように、おぞましいほど寒く、冷たくなっていった。
「いや、……いやっ」
屋敷の中では静かにしていなければならないのに、あまりの恐怖に夢中で声を荒げていた。
「触らないで! わ、わたしは、ジャンヌじゃない……っ」
冷気の浸食がぴたりと止まった。
「あ、あなた、殺したんでしょう。五十年前、隣の部屋で、この屋敷に住んでいたご令嬢を殺して……ここで自殺したんでしょう!」
次の瞬間、音にならない絶叫を聞いた気がした。マリーの言葉は哀れな幽霊の怨念を更に焚きつけてしまったようだった。マリーの手足がぎりぎりと縛り付けられるように動かなくなる。
昨晩と同じ、冷たい息吹が首筋にかかるのを感じた。はっと眼を見開き、マリーは微かに首を振る。
「いや……やめて……」
すぐさま喉も縛られた。声も出ない。身動きの取れないマリーの唇に、荒々しい氷の口づけが落とされる。
その途端、まるでベッドに大穴が開いたかのようにマリーの意識は深い闇へと突き落とされていった。何も見えない、聞こえない、どろりとした濃い暗闇に沈んでいく。もがくことも叫ぶこともできないまま。
***
落ちていく意識が着地した場所は、温かな暖炉のある広い部屋だった。足元に深紅の絨毯が敷かれ、目の前には口ひげを蓄えた品のある紳士が上等な椅子に座っている。
紳士の顔には見覚えがあった。管理人に見せられた写真の真ん中で椅子に座っていたクレメント家の主人だ。白黒写真ではわからなかったが、優雅なロマンスグレーの髪と爽やかな碧眼が紳士の気品をより高めている。
「君がジルヴェールだね」
その声は今までマリーが聞いてきたどの声よりも優しかった。マリーは、いや、ジルヴェールと呼ばれた自分は、「はい」と言って、深々と頭を下げる。
「よろしくお願いいたします、旦那様」
初めて聞く自分の声はまだ幼い少年のものだった。声変わりさえしていない。紳士は嬉しそうに目を細めてうなずいた。
「今日から君はうちの下男だ。さて、あとは執事に任せようかな」
「おまえのお人好しには呆れるばかりだ、シルヴァン」後方で低く冷たい声が響いた。
「こいつのポンコツぶりにはうちの執事も手を焼いていた。役に立つかは知らんぞ」
「構わないよ。うちはこの通り、なかなか仕事の多い屋敷でね……人手は不足していたから助かるよ」
「ふん」
声は面白く無さそうに息を吐き出した。たちまち煙たいにおいが鼻を衝き、ジルヴェールは小さく控えめなくしゃみをした。慌てて居住まいを正し、ぺこぺこと低頭を繰り返す。
「も、申し訳ありません……」
「ははは、煙が苦手なんだね? うちは誰もキセルをやらない、安心しなさい」
「シルヴァン、使用人を甘やかすのは感心せんぞ。そんなだから、おまえはいつまで経っても地主どまりなのだ」
「私は今の生活に十分満足しているよ」
周囲の景色が高速で回り出す。場面が移り、マリーもよく知る屋敷の地下室になった。ジルヴェールは黒服の従僕たちに囲まれている。
「おまえの仕事はとにかく朝一番に起きて、暖炉の準備だな。居間の方に火を入れて、残りの全部は掃除しておく。それが終わったら薪割りだ」
「おい馬鹿か、こんな細っこいガキに薪なんか割れるかよ」
「だが下男の仕事だろ。前のとこでもやってたよな? ジル」
ジルヴェールは「はい」とうなずく。ひどく抑揚のない声だった。感情がまるで感じられない。
それからジルヴェールは言われたとおりに外へ出て薪を割った。もやしのような白く細い腕なので時間はかかるが、手つきは慣れたものである。それより気になったのは、彼がふとしたときに捲ったシャツの袖の下、痛々しく走る幾つもの痣である。あまりに濃い痕なので一瞬刺青かと思ったほどだ。これほどの痣は鞭打たれでもしなければ残らない。幼さを微塵にも感じさせない彼の態度と何か関係があるのだろうか。
薪を割った後も彼にはたくさんの仕事が待っていた。汚れ場所の掃除や大量の洗濯物干し、従僕や執事たちの食卓の準備まで、あらゆる使用人たちの下の雑用を担わなければならないのだ。マリーは彼の意識に入り込みながら、初めて目にする地下の仕事に目を見張るばかりだった。そして一つも音を上げず、まるでオートマタのように淡々と仕事をこなすジルヴェールにも感心してしまった。同時に、腕に見えた痣を思い出して胸が痛んだ。
ジルヴェールの下男としての生活を知る中で、マリーが一番つらかったのはメイドたちの反応である。
執事や従僕たちは彼を厳しく監督する反面、優しい気遣いも与えてくれていた。彼らに食事を運ぶと礼も言ってくれた。ところがメイドたちは彼の姿を見ると決まって顔をひきつらせるのだ。若い娘など怯えたように目を合わせようともしない。一体、この幼い少年がどんな醜い姿をしているというのか――顔の大半を火傷が覆っているとか、眼を患った痕があるとか、ついよからぬ想像をしてしまう。だが映像は彼が鏡を覗く瞬間を映してはくれなかった。
それからまた場面は変わり、再び昼下がりになった。ジルヴェールが陶器の壺を磨いていると、ふいに従僕から収集がかけられた。
従僕は集められた下男たちに裏口を指し示した。
「庭師のルトー氏がいらしている。おまえたちは氏の指示に従って庭の雑草を抜いてきたまえ」
下男たちはすぐさま汚れ仕事用の前掛けをして外へ出た。季節を一つ飛び越してしまったらしく、空には強烈な太陽がかっと照りだしていて、うだるような暑さだった。仲間の下男たちに続いてジルヴェールも歩いていく。裏庭の全貌が視界に見えた途端、マリーはあっと声を上げそうになった。
緑の迷宮の手前に仏頂面の壮年の男が立っていた。夢で何度も見た、マリーのよく知る庭師の男である。
「新入りかね」ルトーはぶっきらぼうな声でこちらに問う。
「はい」
ジルヴェールはどこか緊張したように返した。この緊張は、彼の声に初めて宿った感情らしい感情であった。
ルトーはうなずくと下男たちにバケツを配った。
「ガーデン周りの雑草を抜いてくれ。間違っても花を抜くなよ。迷ったら聞きにくるんだな」
そう言って、彼は木製の脚立を手に樹木の方へ歩いて行く。
ジルヴェールはきょろきょろと辺りを見回し、下男たちの手を付けていない花壇の方へ近づいていった。可憐な花々の間を縫うようにして明らかに異質の草が伸びている。彼は手を伸ばした。雑草を引き抜くかと思いきや、その先についた小さな黄色い花にこわごわと触れる。
つん、と指先でつつくと黄色の花弁はひらひら揺れた。マリーは困惑する。雑草にも花がつくことは知っているが、それでも雑草だ。なぜ抜かないのだろう。ジルヴェール少年は、一度は引き抜くような仕草を見せたが、結局躊躇うように手を離し、再び黄色い花弁に見入っていた。
じりじりと焼き焦がすような陽が首筋に照っている。その後方からぬっと大きな黒い影が伸びて彼の頭上を覆った。
「花が、気になるか」
ぶっきらぼうな低い声。はっと振り仰ぐと、眩しい太陽を背にルトーが立っている。
「申し訳ありません」
ジルヴェールは慌てて雑草に手をかけた。慌てたせいか、ぶちりと嫌な感触を残して草がちぎれる。
「あっ……」
「下手くそめ」
ルトーはしゃがみこみ、ちぎれた短い雑草を掴んだ。
「いいか、まず根元をしっかり持て。それからまっすぐ上に引き抜く。たったこれだけだ。慣れりゃあこの花壇全部、十分程度で片付くだろう」
気持ちのいい音を立てて雑草が引き抜かれる。ジルヴェールの視線は、その先についている黄色い花を追っていた。
「この庭は奥様の宝だ」
抜いた草をバケツに放ってルトーは言った。
「どこに何を植えるか、どんなイメージの庭園を造るか……すべて奥様がお決めになる。それはそれは凝っておられる。奥様の望む庭を造るためには、不必要な草は抜かなきゃならん」
「……はい」
「こいつはな、一見綺麗な見た目だが、放っておくと周囲の花の栄養を全部独り占めしちまうんだ。そうなりゃ花壇はおしまいだ。おまえがかけた情けで奥様が悲しむことになるんだぞ」
ジルヴェールははっとしたように花壇を見た。赤、青、白……色とりどりに散りばめられた花々を見て、ぱちぱちと眼を瞬く。
「気持ちはわかるが、こいつらは街中にすら生えているし、放っていても生きていけるくらいの強靱な命を持っている。情けはいらん、全部抜け」
そう言い残すとルトーは去っていった。ジルヴェールはその背中を呆然と見つめていた。除草作業に戻っても、時折目を上げては植木を刈り込む庭師の姿をぼうっと眺めている。
ジルヴェール少年の中に潜むマリーは、この時彼の心にぽっと灯った一筋の光が見えた気がした。今まで感情のない人形のようだった彼の中に、明らかな変化の兆しが現れたように思えたのだ。
それは決して勘違いなどではなかった。その後ジルヴェールは、自分に与えられたわずかな休息時間のたびに裏口に出て、見事に整えられた庭園を眺めるようになった。雑草抜きの仕事がくると自ら進んで名乗り出た。この暑さの中、草むしりなど誰もやりたがらないので従僕たちは彼を褒めた。
「やっとやる気が出始めたか。いや、今までも仕事はよくやっていたが、おまえ、死人みたいだったからな」
だが、周囲の人間に対しての彼の態度は相変わらずだった。一切の無駄口も叩かず、必要以上には関わらない。
ある日もジルヴェールはバケツを手に、庭園の端の植え込みにしゃがみ込んでいた。雑草を片っ端から引き抜いていく。疲労を感じると一旦手を止め、周囲の花々に眼をやった。そして、風にそよぐ手近な花弁につんと触れる。
「庭がだいぶ気に入っているようだな」
しゃがれ声がして、ジルヴェールは弾かれるように振り向いた。ルトーが脚立と鋏を手に立っている。
「聞いたぞ。おまえ、あれから積極的に草をむしってくれているらしいな」
「はい」少年は慌てて立ち上がり、気をつけの姿勢を取る。するとルトーの無愛想面に苦笑が上った。
「俺は一介の庭師だ、そこまで畏まらんでもいい。それより、このまま仕事を手伝え。今日は人手が欲しい」
ルトーの申し出に、ジルヴェールの胸が明らかに高鳴ったのをマリーは感じた。彼はバケツを手に取り一直線についていく。
ルトーは梯子に上って樹木の形を切り削った。敷地を取り囲むように生えているイチイの木々はすべて、丸みを帯びた円錐型に刈り込まれている。彼が切り落とした木の葉や枝をジルヴェールは残さず拾い集め、バケツに放り込まなければならなかった。厳しい炎暑にも関わらず、ジルヴェール少年は夢中になって庭師の作業に見入っていた。
「おーい! こら、ジル!」
遠くで呼び声がする。屋敷の方から従僕が叫んでいた。
「いつまで草をむしってるんだ!」
ジルヴェールは思わず首を竦めた。従僕は汗をふきながら走ってくる。
「おや、ルトーさん」
彼はルトーの姿に気がつくと急いで停止した。
「いらしてたんですか」
「ああ、この坊主を少し借りていたんだ」
「それは……しかし、こちらも人手が」
従僕が言いよどむと、ルトーは鋏の動きをぱちんと止める。
「坊主、仕事に戻れ。もう十分助かった」
「……はい」
押し隠してはいるが、残念そうな感情がありありと出ていた。
「まったく、おまえにも呆れたもんだ。庭いじりがそんなに楽しいか?」
従僕は歩きながらポケットからハンカチを取り出し、汗に濡れた首筋を拭いた。
「ああ嫌な汗を掻いた。こんな暑いのにおまえもよくやるよ」
ジルヴェール少年にとって暑さなどまったく苦ではなかった。むしろ、庭に出られる瞬間だけが、ようやく見つけたささやかな愉しみであったのだ。
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