第十二話 夢幻の世界 二
再び場面が移り変わる。先ほどの映像からそこまで日は経っていないようだった。陽にに照りつく庭の中、ジルヴェール少年は長靴を履いて麦わら帽を被り、土のついた前掛けをしていた。バケツの中に詰め込まれていた雑草たちを炉に使う木々の上に放り込み、額の汗を拭う。
彼が庭に戻るとルトーの姿があった。裏庭の植木を刈り込んでいる。少年はその足元に落ちた枝葉を拾い集めているのだ。
何度か物置と庭とを往復していると、遠く後方で人の気配がした。たしなめるような女の声と、たおやかな婦人の笑い声が聞こえてくる。
「だいじょうぶよ、わたくし、こう見えてなかなか丈夫なの」
「いけません奥様、今は大切な時でございます! どうぞ中でお休みになってください」
「ほほ、心配しすぎよ。たまには陽の光も浴びないと、お腹の赤ちゃんにもよくないわ。そうでしょう?」
マリーが初めて聞く声だった。だが会話を聞いているうちにそこにいるのが誰なのか、すぐに察してしまった。
はたして、声の主はこちらに気がついたようだった。「あら」と嬉しそうに近づいてくる。
「ごきげんよう、ルトー」
「おお、奥様」
ルトーは脚立から降り、帽子を取って一礼した。そして、婦人のドレスから盛り上がった腹部に眼をやり、「お加減はいかがですか」と訊ねる。
「ふふ、おかげさまで順調よ」
シャルロット夫人は、大きく膨らんだ腹をさすって微笑んだ。百合の花のような優美な笑みであった。豊かなブルネットの髪を品良く結い上げ、淡いブルーの眼を眩しそうに細めている。
傍についていた侍女が困り果てたように日傘を揺らし、「奥様……」と額に手をやった。
「奥様、日差しが強うございます、どうかお戻りくださいませ、お体に何かあっては……」
「もう、心配性ね。この間もお庭を見に降りたじゃない」
「この間……奥様、あれは一ヶ月以上も前のことではありませんか! 空も雲っておりましたし、まだぎりぎり涼しい頃でしたから、我々もなんとか短い時間でといろいろ思考いたしまして」
「ありがとう。わたくしのために考えてくれていたのね」
「ああ奥様、もったいのうお言葉……って、誤魔化されませんよ、さあ、お屋敷へお戻りください!」
厳しい侍女の言葉にシャルロットは唇をとがらせた。決してものすごい美人というわけではないが、その優美な表情の中に歳を感じさせない愛嬌を覗かせている。彼女はルトーに向かって再び笑みを向けた。
「わたくしの赤ちゃんが産まれたら、このお庭を一番に見せてあげたいの。どうか綺麗に飾ってちょうだいね」
「心得ておりますとも」
ルトーが深々と頭を下げる。ジルヴェールも慌ててそれに倣った。シャルロットはジルヴェールにも慈愛に満ちた眼差しを向ける。
「あなたもよ。もうこの屋敷には慣れて? 素敵なお庭でしょう」
マリーは驚いた。姉のカトリーヌも母マルグリットもメイドの顔などいちいち覚えてはいない。それが普通だと思っていた。まして、こんな下男の出入りなど屋敷の夫人が把握しているものなのだろうか。
ジルヴェールも同じ思いだったようで、ひどく狼狽えていた。
「は、はい。あの、すみません、僕、いえ、私は……」
「いつもありがとう。ルトーに習って、お庭を守ってちょうだいね」
シャルロットは、ふうと息をついて、扇を広げて仰いだ。すかさず侍女が顔色を変える。
「ああ奥様! お暑いのですね、すぐにお屋敷へお連れいたしますからっ」
「もう、おおげさなのよ、あなた……」
二人が去っていく。ぽかんとしているジルヴェールの横でルトーが帽子を被り直す。
「相変わらず変わったご夫人だ。旦那様に似て情け深い方だよ」
それから再び刈り込み作業が始まった。景色が高速で回り出し、場面が変わっていく。
次に眼を開けた時、マリーの視界は随分と高くなっていた。ジルヴェールが成長している。しかも、驚いたことに黒く上等なお仕着せを着て、食器の積まれたワゴンをがらがらと押しているのだ。
この頃になると、彼の姿を見ても怯えたような目をするメイドはいなくなっていた。むしろ視線が少し柔らかい。
「ジル、もう食器はないかしら?」
皿洗いのメイドが訊ねてくる。彼はうなずいた。
「はい。もう、ありません」
「そう、わかったわ」
メイドが引っ込む。
ほどなくして、新しい銀の盆をワゴンで運んだ。到着した広間はいかにも高価な調度品に満ちており、それら全てが時代がかっている。この頃はきっと流行の最先端であったのだろう。
執事や先輩従僕たちが盆をとり、広い食卓へ運んでいく。テーブルには主人のシルヴァン――少々老け込んだようで、頭部の白髪が増えている――と、夫人のシャルロット、そして、三人の小さな少女が並んで座っていた。全員が、濃さはばらばらだが青い眼を持っている。三人の娘のうち二人は母親と同じふわふわのブルネットの髪をしているが、一人だけ真っ黒で、癖のない流れるような髪を持っていた。そして、瞳の青が一番濃くはっきりとしている。末娘のジャンヌだ――マリーは緊張気味に息を呑む。
彼女はまだ十くらいの歳であろうか、卓上に置かれたプディングを見て無邪気に目を輝かせていた。
「まあおいしそう! わたし、これ、だあい好き」
びっくりするほど甘く、愛くるしい声だった。ジルヴェールの視線もまた彼女一点に注がれる。
すると椅子一つ挟んで座っていた少女がじろりと眼鏡を押し上げた。
「食事のときくらいおちつきなさいよ。みっともないわ」
「まあまあナタリー」
シルヴァンが屈託なく笑う。
「ジャンヌは甘いものに目がないんだ。はしゃぐのもむりはないよ」
「お父さまったら、ジャンヌに甘すぎるわ。お母さまもなんとかおっしゃって。アネットも笑っていないでっ」
「ほほ、あなたたちほんとうに仲が良いのねえ。……」
広間に朗らかな笑い声が響く。優雅で、平和な晩餐の光景が回転して遠ざかる――
「ねえ」
鈴の鳴るような軽やかな呼び声に、マリーの意識は引き戻された。その声は先ほど耳にしたばかりの、砂糖菓子のように愛らしい声である。
燦々と陽の降る夏の午後。洗ったように鮮やかな庭園の景色の中で、ジルヴェールは銀色のじょうろを両手に持ち、花壇に水を撒いているところであった。彼は自分よりはるかに小さい背丈の少女を見下ろすと驚いたように目を見開いた。
「ダリアは? ダリア、植えてくださるんでしょう?」
淡い水色のエプロンドレスを身に纏い、髪に同じく水色のリボンをつけている。こちらを見上げる青い瞳は、日差しを受けて宝石のように輝いていた。
「ええ、もちろんですよ」
答えたのは庭師ルトーの声。彼は脚立に乗ったままタオルで汗を拭った。
「お嬢様のお好きな……ええと、どこでしたかな」
「うっふっふ、わかっているくせに」
ジャンヌは可憐にくるくると踊って、ノットガーデンの方を指さした。
「あそこよ、庭師のおじさま。私、あそこがお気に入りなの。忘れちゃいやよ」
石柱に囲われた湾曲した池を見て、マリーはどきりとした。そこは、老人の話では――
「あの辺りに植えてね。お願いね」
「承知しておりますとも」
「あなたも、約束ね」
ジャンヌは薔薇の花弁のような唇に小さな人差し指をそっと当てる。まだあどけない少女とは思えない、まるで大人の女のような艶を放つその仕草に、ジルヴェールの意識が一瞬、眩暈のようにゆらぐ。彼がやっとの思いでうなずくのを果たして見とどけたのだろうか、ジャンヌはすぐに踵を返して、妖精のように軽やかな足取りで駆けて行ってしまった。
「あのお嬢様は相変わらずダリアがお気に入りだな」
ルトーは苦笑を上らせながら木を刈り込んだ。
「坊主、球根の植え方を教えただろう。今度はおまえがやってみろ」
そう言ったあと、ふと思いなおしたように頭を掻く。
「いや……おまえも二十歳を超えた、いい加減、坊主はいかんな。あー、ジルヴェール……ジルだな。俺もおまえをジルと呼ぶか」
ルトーの呟きが遠ざかる。再び景色が回転し、ジルヴェールは独りでじょうろを手にしていた。季節はいつ頃だろうか。視界の端で、沈床花壇にしゃがみこみ蜜を吸う蝶のように顔を近づけている娘の姿が見える。遠くからでも見間違いようのない黒い髪と、白いレースをたっぷりとかざりつけた鍔広の帽子。彼は水をやりながら彼女の背中をぼうっと眺めていた。
ふいにジャンヌがこちらを振り返った。ジルヴェールに気がつくと立ち上がり、こちらへ向かって軽やかに近づいてくる。以前よりまた少し背が伸びているようだ。顔つきはまだ幼い子どもみたいだが、近づいてくるその表情はどきりとするほど大人びていた。
「ねえ、ジル」
ジル、と呼ぶその声が彼の中で大きく反響する。
「はい」
「うっふふ……相変わらず無愛想。でも、あなたの植える花はみんな素敵」
「恐れ入ります。しかし、花は奥様がお選びに」
「そういうことを言っているんじゃないわ」
彼女は拗ねたように口を尖らせる。
「もうすぐ私のお誕生日でしょう。あのね、晩餐のとき、広間にね、ダリアを中心にした大きな花束を飾り付けてほしいの」
「花束、ですか」
「普通のじゃないのよ。ものすっごく大きな……」と、両腕をいっぱいに広げてみせる。
「そして、眩しいくらいに豪華にしてね」
「それでしたら、御用達の花屋に頼んで」
「お馬鹿さん。私、あなたにお願いしているのよ」
ジャンヌはくすっと笑って、くるりと背を向ける。黒く長い髪が波打ち、きらきらと輝いている。
ジルヴェールの胸に焦がれるような甘い痛みが走った。彼は思わず胸に手を当て、彼女の去っていく背中を見つめている。
景色はわずかに回転し、時間が少しだけ経過した。ジルヴェールはお仕着せに着替え、空の銀盆を手に二階の廊下を歩いているところだった。
「あなた、昼間あの人と話していたでしょう。……よく平気でいられるわね」
通り過ぎようとしていた部屋から声がした。ここはまさに、マリーにとっても憶えの深い場所……物置部屋の隣の部屋であった。
「どうして?」
無邪気な声が問う。
「ナタリーお姉さまったら、何をそんなに怖れているの?」
「あの従僕、私は苦手よ。だって……あんな、まるで老人みたいな……」
「老人? あの人まだ、二十代でしょう」
「そういうことじゃないわよ。とにかく不気味で……表情もないし、何を考えているのかわからないし、嫌だわ」
「そう? とても綺麗な顔をしているじゃない。いかにもお姉さまの好きそうな」
「なんですって? 私は、あんな不気味な人いやよ」
「ひどい言いよう。あの人はお父さまが連れてこられた人なのよ。私たちが産まれるずっと前にね。お姉さまったらもう十六歳なのに、未だにそんなことを気になさっているなんて、おかわいそう」
「あなた、さっきから私を馬鹿にしているの?」
ジルヴェールは足早に部屋を通り過ぎていった。マリーもショックを受けていた。
映像のはじめの方でメイドたちによそよそしくされていたのを思い出す。一体彼がどんな恐ろしい姿をしているというのだろう……いい加減、鏡に映る姿を見てみたかった。
マリーの願いは思わぬ形で叶えられることになった。
「ジル、旦那様のコートにブラシをかけておいてくれないか」
執事に声をかけられる。
「旦那様の懐中時計が傷ついてしまってな。急ぎ見にいくから、代わりに頼む」
「承知しました」
ジルヴェールはすぐさま三階へ赴く。突き当たりより一つ手前の部屋の扉を開いた。
そこは重厚な木製の家具が揃えられた寝室だった。そのどれもが落ちついた深緑の色合いで統一されていて、屋敷の主人の部屋に相応しい様相である。
洋服掛けからコートを手に取る。その時、ふいに目線が横様に動いた。
クロゼットの脇に全身鏡がかけられている。銀を磨き上げ、シックな木枠に収めた高級な鏡だ。そこに映った姿を目にした途端、マリーはひっと息を呑んだ。
鋭利な刃物のような目つきの、すらりと背の高い男――だが、少し癖のかかった長い髪は、まるで老婆のように真白く色が抜け落ちていたのである。
まだ若いので肌に皺こそないものの、白髪とひどい顔色のせいでぎょっとするような容姿であった。彼を見て怯えたような目をしていたメイドたち……そして、ナタリーの言葉……
だが、主人のシルヴァンは。大きなお腹を抱えて優雅に微笑んでいたシャルロットは。庭師のルトーは。そして何より、無邪気に花束をねだったジャンヌは。
初めから彼の容姿をまったく気にしていない者たちもいる。ジルヴェールは彼らの存在に救われていたのだ。
彼はジャンヌの姿を思い浮かべていた。心がじわりと熱くなる。だが、甘く苦しいその感情は決して抱いてはならないものだった。
景色が明滅する。再び景色が回転するが、これまでとは違い意識が引き剥がされていくような感覚に襲われた。ちょうど雑草が根っこからまっすぐに引き抜かれるように、マリーの意識も視界も何もかもが離れていく。上へ上へと、天に昇っていく。
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