第十三話 言いがかり
目を覚めると、部屋には呑気な明るい日差しが入り込み、夜の闇の気配はすっかりなくなっていた。当然、あれほど濃くまとわりついていた幽霊の気配も消えている。
長い夢を見ていた気分だったが、まだメイドが起こしに来ていないのでいつも通りの時間なのだろう。寝返りを打ち、今し方見ていた夢を思い起こす。
下男だったジルヴェール少年と身体の痣、そして、鏡に映ったあの姿……確か映像では白髪を肩まで伸ばして青のリボンで結んでいたように見えた。あれが幽霊の正体なのだろうか。
昨夜、恐ろしい力で縛り付けられ、唇を奪われたのを思い出す。彼はジャンヌの名を口にした途端に暴走した。今まで誰にも恋心など抱いたことがないマリーでも本能的に悟ってしまう。夢の中でジルヴェールの感じていた胸の高鳴りと甘苦しい痛みの正体を。
そしてそれはマリーにも憶えがあった。彼の冷気を肌に感じたときや、押さえつけられ唇を奪われたあの瞬間に起こっていた。――そこまで考えてマリーは必死に首を横に振る。
違う。あれはまさに恐怖のどん底だった。得体の知れない幽霊に激しい感情をぶつけられ、金縛りにされて、恐ろしさのあまり気絶したではないか。自分がそんな感情を彼に抱くなんて、ありえない……狂気の沙汰だ……自分はどこかおかしいのだろうか。
「お嬢様、失礼いたします」
扉の外からあの若いメイドの声がした。慌てて起き上がるマリーの視界に窓辺の様子が映る。そこにまたしても深紅のダリアが一輪、無造作に置かれているのを見て咄嗟に叫んだ。
「待って!」
開きかけた扉に飛びつき、強引に閉める。
「まだ少しだけ、待ってほしいの」
「は、はい」
マリーは窓辺に急ぎ、ダリアを掴んだ。たちまち手のひらに刺すような冷たさを感じて思わず取り落としそうになる。
初めに置かれていたものより明らかに冷気が増している。これは彼のこめた想いの表れなのだろうか。ジャンヌへの……
気がつけば、花の茎が折れそうなほど強く握りしめていた。
彼がこの可憐な花を摘んできてくれるのは、マリーのためではない。マリーをジャンヌと混同しているのだ。その事実はマリーを言い知れぬ哀しみに突き落とした。それはもう、誤魔化しようがないほど明瞭に気がついてしまったのだ。
「やはり、ちょっとお寒いですね、この部屋は」
招き入れたメイドは憂うような表情で部屋を見回す。
「ブランケットなどお持ちしましょうか」
「大丈夫よ。もう十年、ここで過ごしているのに」
そう言ってマリーは朝食の盆を受け取る。
味のしないオートミールを平らげてから、机に向かって用紙を広げた。昨晩見た長い夢の内容を記録しておかなければならない。
屋敷での生活の様子を事細かに記録してから、マリーは迷うようにペン揺らした。
「ジャンヌは彼に花束をねだっていた。その仕草の一つ一つに彼は胸をときめかせているようだった。
彼は、ジャンヌを愛している」
その夜、マリーが入浴へ向かおうと階段を降りていたときだった。
「待ちなさいよ」
微かな甘ったるいにおいと共に高飛車な声が降ってきて、階段の上を振り仰ぐ。優雅な夜着に着替えたカトリーヌが手すりに頬杖をつき、口端を意地悪くつり上げていた。
「あんた、服を変えたの? 生意気ねえ」
マリーは努めてなんでもないように振る舞った。
「さすがに、酷くほつれていましたので」
「それで替えたの? あんたにはもっとぼろぼろなのがお似合いでしょうに」
一体なんのつもりか、カトリーヌは手すりに手を滑らせながらゆっくりと降りてきた。じろじろとこちらの青いドレスを見下ろし、不機嫌そうに顔を歪める。
「なによその恰好。だれからもらったの?」
「それは……」
マリーは言いよどみ、視線を宙へ投げる。あのメイドが妙な言いがかりをつけられるようなことがあれば気の毒だと思ったのだ。
「忘れてしまったわ」
「おほほ! さてはあんた、メイドたちの棄てたゴミを漁ったんでしょう。図々しくも一番新しそうなのを拾って着たんだわ!」
「なっ……」
思わずかっとなり、こめかみがひくついた。
「漁ってなんて……使い古しはないか探しただけよ」
「やだ、本当に漁ったんじゃない! マリーったら拾ったゴミを着るだなんて!」
突然、カトリーヌは声のトーンを上げた。階段下にも響くような大声だ。
「なんて浅ましいことを!」
「ですから、わたしは」
気がつくのが遅かった。はっと口を噤み、おそるおそる後方を振り返る。
階段下に仁王立ちするマルグリットの姿があった。努めて顔を合わせないようにしていたのだが、久しぶりに見る顔は目がつり上がってますます悪鬼めいており、顔色も一段と悪くなっていた。
「おまえという子は!」
彼女は狂ったような叫び声をあげて、猛然とこちらに向かってきた。
「卑しい女の血を引いているとはいえ……まさか屋敷のゴミ漁りなんて! 誰かに知れたら……この恥知らず!」
「違います、そんなこと」
「嘘をおっしゃい!」
半狂乱の声が響き渡る。
「おまえに服を寄越した者がいるとでも!? いたら即刻解雇してやる」
さっと血の気が引いていく。マリーは目を伏せ、心に分厚い覆いを掛けた。感情に蓋をして堪え忍ばなければならない。これは幼い頃から学んだ術だ。今は彼らの気が済むまで黙っていなければ……あのメイドを守らなくては。
肩が恐ろしい力で突き飛ばされる。マリーは段差に身体を強く打ちつけられながら転がり落ちていった。厚い絨毯が敷かれているとはいえ、全身を打たれた衝撃で息が止まりそうになる。
「私はね、おまえなんて引き取りたくなかったのよ! おまえはあの人を道から踏み外させた、悪魔の女の子どもなのだから!」
マルグリットが息も絶え絶えに叫ぶ。
「この悪魔! 消えて! さっさと、ここから、消えて!」
母の硬い靴先がマリー脇腹に容赦なく叩きつけられる。母の力自体は決して強いものではないが、その衝撃はマリーの心身を激しく抉った。
「お母様、いけませんわ」
たっぷりと頃合いを見計らってから、ようやくカトリーヌが駆け寄ってきた。
「お母様のお靴が汚れてしまいます」
「いいのよ、こうでもしなければ私の気が収まらないわ……それに、あなただってこの子のせいでずっと嫌な思いをしてきたでしょう」
ぴくりとも動かないマリーを見下ろしながら母は呟く。
「もう限界なのよ……十年以上……でも、あと少しよ。あと少しでこの子の相手をお父様が……ああ、カトリーヌ、あなたのお祖父様よ……見つけてくださるの」
「それはいいことですわ!」
「ええ。一応はきちんとした結婚よ、あの人も……何も言えないに違いないわ」
マルグリットはがカトリーヌに肩を支えられて階段を上がっていく。その足音を耳にしながら、マリーは踊り場に倒れ伏していた。マルグリットの最後の言葉が頭をぐるぐると巡っている。
結婚……祖父の見つけてくる相手……それがあまりまともでなさそうなのは、母の口ぶりからなんとなく察せられる。
自分が父の不義でできた忌み子であることはもう知っている。その事情を気にもせず受け入れてくれるような相手だ。父を納得させるだけの地位を持ちつつ、そんな条件を呑む者というのは何か妙なところがあるに違いない。
ああ、自分の人生とは、一体なんなのだろう。
「お、お嬢様!」
若いメイドの声がする。ばたばたと足音が駆け寄ってきた。
「一体どうなさったのですか?」
肩を優しく揺さぶられる。彼女の身体から石けんの香りが微かに漂っていた。湯浴みを済ませたばかりのようだ。
「大丈夫よ、ちょっと……貧血気味で」
「ひ、貧血ですって」
彼女は一層慌てたようにマリーの腕を取り、
「ともかくお部屋に戻りましょう。お身体をお拭きするタオルをお持ちしますからっ」
「いいの、ほんとうに、そこまでしないで。お母さまに見つかったら……」
「なんとでもごまかせますわ。さあ、私におつかまりくださいっ」
メイドはマリーの腕を肩にかけさせ、支えるようにしてゆっくりと歩きだした。そのたくましさに安堵し、マリーはうっかり涙をこぼしそうになった。
二人は物置部屋に到着するまで一言も発さなかった。そして部屋に入り、マリーをベッドに腰掛けさせてから、メイドはタオルと湯桶を取りに走って行ってしまった。
彼女はどうして自分に優しいのだろう。なんだかんだと十年近く屋敷で働いているが、マリーに接するたびに憐れんでくれる姿勢は変わらない。
その優しさがマリーの胸に沁みて痛かった。嬉しいことのはずなのに、正面から受け入れるのはひどくつらいものだったのだ。
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