第十四話 憐憫と熱情と
「あの、お嬢様」
タオルを絞りながらメイドは遠慮がちに口を開く。
「差し出がましいようですが、お気をつけいただきたくて……」
「どうしたの」
「カトリーヌ様のことです。十六歳になられて、いよいよ社交パーティに出席なさったり、何度かお見合いもされているようですが、なかなかいいお返事をいただけていないご様子なのです。それで……その、使用人たちに苛立ちをぶつけておられていて」
言いづらいのかメイドは遠慮がちに口籠もるが、言わんとしていることはすぐにわかった。マリーは努めて穏やかな表情を浮かべる。
「ありがとう。そのとばっちりがわたしに向かないか心配してくれているのね」
「ああ……」メイドは両手でぱっと口を覆い、青い顔で声もださずにうなずいた。
「ごめんなさい、あなたたちに迷惑がかかってしまって」
「とんでもないことでございます。私共のことではなく、お嬢様のことが心配で……」
「わたしはもう、慣れているから。やりすごす方法も知っているわ」
「お嬢様」
メイドはさらに身を乗り出して、マリーの両手を掴んだ。
「カトリーヌ様だけではありません。奥様も近頃妙な動きをしていらっしゃいます。怪しい者たちをたびたび屋敷に招いて、金銭をお渡しになっているところもお見かけしました」
「それは、研究所でのお父さまの行動を報告しに来る探偵ではなくて?」
「おお、お嬢様、そのようなことまで……ですが、それとはまた別の者たちと思われます。我々使用人は屋敷を出入りする人物の顔を覚えておりますから、確実に申し上げられますが……」
ほとんど二階から動くことがないので、母の雇う者たちが増えているのは知らなかった。マリーはあらゆる可能性を考える。
「こんなこと、あなたにお話してどうなるということじゃないけれど」
「なんでもおっしゃってくださいませ」
「それは、わたしのためじゃないかしら」
夜着を着せられながらマリーは言った。ボタンを留めるメイドの手が、はたと止まる。
「それは、どういうことで……」
「わたしももうすぐ十六になるの。結婚ができるのよ。そうなったら堂々と厄介払いができるでしょう。不当に追い出したりしたらお父さまからお咎めを受けるかもしれないけれど、結婚なら問題ないもの」
「そ、そんな」
「お母さまのことだから、この家にとって一番都合のいいお相手を探していらっしゃるに違いないわ。出入りしている人たちはその関係者だと思うの」
メイドは青ざめた顔のまま震えている。
「そんな、そんな……お嬢様のご意思は」
「良家の子女に意思なんてないものでしょう。カトリーヌだってお母さまのお決めになった相手の中から選んでいるのよ」
夜着のボタンを留めるメイドの手はかわいそうなほど震えていた。その手が踝まできたとき、とうとう嗚咽を漏らしだしてしまった。
「なんておいたわしい……お嬢様は、幼少の頃から何も自由がなかったのに……」
「あ、あの」
マリーは戸惑い、慌てて彼女の方へしゃがみこむ。
「わたしは、平気よ。ほんとうよ。大丈夫だから……どうか、泣かないで」
「申し訳ありません、本来ならば、私がお嬢様をお慰めするべき立場ですのに」
「関係ないわ。わたし、あなたに感謝しているのよ。たくさんお世話になったんだもの。……」
マリーは、続けかけた言葉を危うく呑み込んだ。
今まで何度も、彼女にかけたい言葉があった。だがどうしても言えなかった。言ってしまったら、彼女との関係が深まり迷惑がかかってしまう恐れがあるからだ。
――あなたの名前は、なんというの?
使用人はマリーと必要以上に接してはならない。名前を訊かなければ彼女は大勢のメイドの中の一人にすぎず、母の怒りもカトリーヌの嫌がらせも、すべてマリー一人のものだ。だがひとたび名前を訊いて、答えてもらってしまったら、このメイドは他の使用人たちよりマリーに近づいてしまう。
もう十分、彼女は危うい線を超えて助けてくれていた。もし母や姉に気づかれたら、最悪の場合解雇されてしまう。そうなればどれほど悔やんでも悔やみきれない。
マリーは唇を噛みしめ、ただ深い感謝を湛えた眼でメイドの背をさすり続けた。
「本当にありがとう。あなたは、この屋敷で一番優しい人よ」
――だから。
「あなたには、自分と、自分の守りたい家族を一番に考えてほしいの。きっとお給金を仕送りしたりもしているでしょう」
は、とメイドは顔を上げる。素直な、誠実そうな瞳が潤んでいた。
「お嬢様……」
「これ以上わたしに関わらない方がいいわ。放っておいても、わたしはそのうちこの屋敷を出ることになる。それまでどうか辛抱して……お母さまやお姉さまに目をつけられないように……自分の立場を、失ってしまわないように……してほしいの」
幼い頃、マリーに情をかけた使用人はひどい嫌がらせを受け、最後には解雇されてしまった。そんな場面を何度も何度も見てきたのだ。この優しいメイドまで同じ目に遭ってほしくなかった。
「わたし、あなたにとても感謝してる。あなたがいてくれて、ほんとうに良かったと思ってる。この服も、大切に、すり切れるまで着るわ」
「いいえ、お嬢様っ」
メイドは必死に首を振った。
「お嬢様がお屋敷をお出になるそのときまで、精いっぱいお仕えさせていただきますから! 誰になんと言われようと、それだけは、譲れません!」
今まで聞いたこともないような、きっぱりとした物言いだった。彼女は桶とタオルの山を手に立ち上がり、「失礼しますっ」と言って足早に出てしまった。
マリーは床にしゃがみこんだまま呆然としていたが、ややあって、ふっと顔を泣きだしそうに歪める。
「お願いだから……」
マリーは夜着の胸元をぎゅっと掴んだ。
「誰も、わたしのために……傷ついてはいけないのに……」
物置部屋の小さな窓に、氷の欠片のような弦月が浮かぶ。
部屋を包み込む冷気は一層強くなり、床に座り込むマリーの身体にじわじわと迫っていた。
つ、と氷のような感触が背筋に触れる。マリーはもうその気配に気がついていた。
「あなたも、触れないで……」
弱々しい声で懇願する。
「これ以上、わたしを弱くしないで」
それでも凍りつくような感触はマリーの背中を這い上り、後ろから抱きすくめるように覆い被さる。その冷たい温かさに、マリーの心臓がひりひりと痛んだ。
「お願い……お願い、もう、放っておいて」
背に覆い被さる彼の重みが、じわりと増す。
「わたしは、あなたの好きなジャンヌじゃないのよ……」
わたしはただのマリー。
父の背徳で産まれて、母も姉も不幸にした。
わたしに近づいた人たちもみんな不幸になってしまう。
あなたもきっと、間違った娘を慰めていたと知ったら後悔するでしょう。己が嫌になるでしょう。……そしてすぐに、わたしから離れていくでしょう。
「だから、触らないで」
ぎゅ、と両肩を抱き、身体を縮こまらせる。
「触らないで……」
冷たくて優しい感触は、マリーの声など聞こえていないかのように手足に優しく絡みつく。拒めば拒むほどまとわりついてくる。
***
幽霊 二
――わたしは、あなたの好きなジャンヌじゃないのよ……
彼女の弱々しい声を耳にするたび、心に突き上げるような痛みが走る。何を言われているのかわからない。
彼は一層強く彼女の背を抱きしめた。
あなたがどれだけ拒もうと、私はもう、離しはしない……
どす黒い熱情に溺れながらも、彼の中のある一点だけは、じっと首を傾げていた。
違う。彼女は……違う。
お嬢様は、とっくに……
しかしその理性の声すら彼の熱情に呑み込まれていった。
お嬢様。私の、お嬢様。
膝を抱え、身体を縮こまらせている彼女の耳元に囁きかける。
どうかお嘆きにならないで。私はいつでもあなたと共におりますから……
違う。彼女は、お嬢様じゃない。
最後に訴える小さな声も、彼は無意識のうちに掻き消していた。
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