第十五話 秘密の練習

「ナタリー様が後をお継ぎになるなら、クレメント家も安泰ね」

 声が聞こえる。ぼやけていた視界が少しずつ鮮明になる。目の前にメイド服の後ろ姿がいくつか見えた。目線が高い。地下室の様相も変わっている。

 マリーはまた、彼の夢を見ているらしい。

「でも、よく奥様が納得なさったわねえ。ナタリー様の嫁入り相手を一生懸命お探しだったのに」

「婿入りさせるんでしょ。だから奥様のご尽力も無駄にはならないわよ。それよりナタリー様にまったくその気がないのが心配よねえ」

「誰が来てもお断りなさってるんですってね」

「そうそう、この間なんか、素敵な貴族様とご縁があったそうなのだけど……」

 ここは地下室にある使用人の食堂だった。ジルヴェールは誰かの食卓を整えている。おそらく上司である執事のためのものだろう。

「あ、その話、違うわよ。フォンテーヌ卿のことでしょう」

「なに、知ってるの?」

「あの方はお見合い相手じゃないわよ。旦那様のお仕事上でご縁のある方で、旦那様が大層気に入られてお屋敷にお招きなさったのよ」

「へえ、じゃあ、お嬢様たちとはそういう関係にはならないのかしら?」

「旦那様がどういうおつもりかわからないけどね。でも、ちらっとお見かけしたばかりじゃ、なかなかの色男だったわよ。歳は二十代後半くらいかしら。綺麗な金髪で、背がしゅっと高くって、鼻筋の通った凜々しいお顔立ちだったわ。しかも伯爵で、確か軍の騎士さまだとか」

「きゃーっ、いいなあ、私も見てみたいわ。またいらっしゃらないかしら?」

「地位もおありなんだし、本当にお嬢様方のどなたかと懇意になられたりして……」

「ありえるわよねえ。あたしも今からすっごく楽しみなのよ。騎士様はいったい三人のどなたをお気に召されるのかしらって……」

「あんたたち!」

 メイドたちは揃って背筋をびくりとさせた。戸口の方で料理長が目をつり上げて立っている。

「食べ終わったなら、いい加減食器を片付けな! まったく最近の若いメイドは無駄口ばっかり叩いて!」

 以前の夢と同様、場面が変わる瞬間は景色が大きくかき乱される。ぐるぐると回転して、今度は屋敷の正面玄関になった。

 ジルヴェールは他の従僕たちと共に玄関で見知らぬ青年を出迎えていた。

「お待ちしておりました、フォンテーヌ卿エリック様」

 執事が丁寧に一礼し、奥へ促す。

「こんなに仰々しく出迎えてもらったら、僕も緊張するね……」

 青年は照れたように笑い、肩にかけていた外套を手近な従僕に手渡した。

 ジルヴェールはその一挙手一投足を目で追っていた。フォンテーヌ卿はその全身から溌剌とした若さを放っており、笑顔が眩しい。白く輝く歯が唇からほんの少し覗いている。なるほどメイドたちが夢中で噂話をしていたのもうなずける。

「おや、君は……」

 通り過ぎる際、フォンテーヌ卿がこちらに眼をとめた。灰色の瞳が一瞬でジルヴェールの上から下までを行き来する。そして再びジルヴェールの頭上に……長い白髪に目を留めた。

「なかなか古風なかつらだね」

「……おそれいります」

 応えた声には恐ろしいほど感情がこもっていなかった。

 その時、ふと視界の端で何かがきらりと光ったのに気がついた。廊下の曲がり角をじっと伺っていると、ひょっこりと顔を覗かせるナタリーと目が遭う。

「……!」

 ナタリーはたちまち真っ赤になって角の向こうへ消えてしまった。光ったのは彼女の眼鏡の宝石細工のようだ。

 それから再び景色は回転し、広間になった。上質なテーブルクロスと贅沢な食事が並ぶテーブルには、シルヴァンと夫人、三人の娘たち、そしてフォンテーヌ卿の姿もある。

「まあエリック様ったら」

 真っ先に声を上げたのは、珍しいことに次女のアネットだった。他の二人よりおとなしく温厚柔和な彼女だが、やはり彼にははっきりと興味を抱いているようだ。

「それで、どうなりましたの?」

「簡単ですよ。ちょっとこう、後ろ手に腕をひねって……縄も監視もゆるくてすぐに脱出できました」

「……ふふっ」吹き出したのはジャンヌだ。深い青の瞳をまっすぐに彼へ向けている。

「おもしろい体験ばかりなさっているのね」

「僕はなぜか、生まれつきいろんな事件を呼び込んでしまう質でしてね……僕と行動を共にしている仲間たちは皆、退屈しないと言ってくれていますよ」

「まあ」

 楽しそうにころころ笑う二人の隣で、ナタリーだけは黙りこくって俯き加減である。だが、眼だけは一心にフォンテーヌ卿を見つめていた。

「おや、ナタリー嬢、グラスが空いておられるようですが」

 フォンテーヌ卿がそう口にした途端、ナタリーはびくりと肩を震わせた。

「わ、私は……」

 すぐさまメイドがやってきておかわりを注ぐ。その間も彼女は真っ赤になって硬直していた。

「ナタリーったら、どうしたの?」

 夫人が心配そうに声をかける。

「気分が優れないのかしら?」

「い、いいえ」

 ナタリーが首を振る。普段はつけない銀の髪飾りがしゃらしゃらと揺れた。

「少し、足元が冷えるだけですわ……」

「お姉さま」アネットを挟んだ隣の席で、ジャンヌがくすっと笑った。「それなら、エリック様の上着をお借りになったら? 温かそうですわよ」

「な……っ」

 ナタリーは今度こそひっくり返りかけた。

「なんてことを! あなた、そんな……失礼よ!」

「僕の上着でよろしければ、いつでもお使いください」フォンテーヌ卿もくすくす笑う。それだけで部屋の隅のメイドたちが色めきだっている。

「しかしクレメント家のお嬢様には、無骨な騎士の上着などより上質なブランケットの方がよろしいかと思いますが」

「わ、私は……け、結構、です」

 ナタリーはかわいそうなほどどもってしまった。

 みんながフォンテーヌ卿に注目している中、ジルヴェールはただ一点を――子供のように無邪気に笑うジャンヌの方を見ていた。もちろん食事の世話をこなしながらではあるが、隙を見てはジャンヌの様子を窺っている。

 ジャンヌはシャンデリアの輝きを映した美しい瞳で食事の皿とフォンテーヌ卿とを交互に見ている。それは一見なんでもない動作に見えた。だがジルヴェールは……長い間彼女ばかりを見つめてきた彼は、フォンテーヌ卿を見る一瞬の瞳に微かな熱が籠もっているのを感じ取っていた。そう、熱……家族や使用人などには一切向けたことのない情熱の色が、彼を見るときにだけぽっと揺らめくのだ。

 そしてフォンテーヌ卿もまた、ほんのわずかな動きであるが、そんな彼女の瞳と瞳を意識的に合わせる瞬間がある。二人の間に灯った見えない心の揺らめきに、ジルヴェールの胸の内は暗い気持ちに侵されていくのだった。

 また場面は変わり、今度は夜になった。ジルヴェールは地下室の階段を上がっていた。手には小さな燭台を持ち、一階から順に見回っている。辺りに人の気配はない。二階の廊下をぐるりと回ったところで、彼はふと立ち止まった。

 そこはマリーのよく知る物置部屋の隣の部屋であった。彼は扉の側で耳を澄ませ、じっと息を殺す。すると扉の向こうから軽やかなピアノの音色が聞こえてきた。一体だれが弾いているのか、ジルヴェールには心当たりがあるようだった。彼は何事もなく廊下を曲がり、階段を上がって三階も見て回った。それから再び二階に戻ってくる。

 先ほどの扉の前でもう一度立ち止まり、懐中時計を取り出した。時計の針は十二時を回っている。彼は時計をポケットにしまい込み、しばし躊躇ってからこんこんと扉を叩いた。

 途端にピアノの音はやんだ。ジルヴェールはぎこちなく扉を開く。

「失礼いたします」

 マリーの時代、この部屋は古びた内装のまま何もなくがらんとしていた。だが今は落ち着いたペイズリー柄の絨毯が敷かれ、壁際には様々な楽器がぐるりと置かれている。ヴァイオリンケースやチェロ、カバーを被せられたもの――それから、部屋の真ん中に主役のように置かれている、真白のピアノ。

 マリーははっと気がついた。以前からずっと気になっていた絨毯の白い三つの跡……あれは、ピアノの脚の跡なのではないか。

 ピアノの椅子にはジャンヌが座っていた。大きな青い眼をぱちぱちとさせている。

「あら、どうしたの?」

「お嬢様、もう深夜になります。お休みにならなくては」

「ああそんなこと」

 彼女はどうでもいいというように再びピアノを弾き始めた。

 ジルヴェールは困ったように立ち尽くしていた。夜中に起きているジャンヌを放っておくわけにもいかず、かといってこれ以上どうすればいいのかもわからない。

 彼女の奏でる旋律は優美でなめらかで、月明かりだけが差し込むこの部屋に優しく溶け入るような繊細な音色だった。マリーも思わず聴き入ってしまっていた。演奏は瞬く間に終わってしまい、ジャンヌがぱっとこちらを振り向く。

「どうだった?」

 ジルヴェールは狼狽える。

「どう、とは」

「聴いていたんでしょう。どうだった?」

 こちらをまっすぐに見つめるジャンヌの瞳は薄闇の中でもはっきりと見える。ジルヴェールはぎこちない姿勢のまま眼を逸らした。

「大変、お美しかったです。まるで……熟達した宮廷音楽家のようでした」

「ふふっ」

 せっかく一生懸命に言葉を紡いだのに、ジャンヌはおかしそうに吹き出した。

「思ったより上手なのね、ジル」

「……いえ、私の、率直な感想を申し上げたまでです」

「ほんとう?」

 深紅の薔薇のような唇が月明かりに艶めいた。ジルヴェールの胸に打ち抜かれたような衝撃が走る。

「じゃあ、もっと聴いてちょうだい。適当に座ってね」

「お待ちくださいお嬢様、もう十二時を回っております。はやくお部屋にお戻りにならなければ」

「いやよ」

 愛らしい顔がたちまち不機嫌そうに歪んだ。

「あなたも退屈なことばかり言うのね」

「お許しをいただけるのなら、この場でいくらでもお聴きしたいほどに思っておりますが……私は一介の従僕です。お嬢様のお体を想って……」

「もう、いいわ。勝手に弾くから」

 ジャンヌは拗ねたように唇を尖らせたまま鍵盤に向き直った。そして今度は違う曲を奏で始める。

 ジルヴェールはほとほと困り果て、時計と扉と、そしてジャンヌを見ていた。しかし彼女の奏でる音色が頭に流れ込むごとに、彼の頑なな意思も次第に溶けていくようだった。 彼は壁際に置かれていた椅子にふらふらと腰掛け、食い入るようにしてジャンヌを見つめていた。鍵盤の上で踊るほっそりとした白い指先……時には力強く叩き、時には撫でるように優しく滑りゆく様を、ただうっとりと眺めている。

 そうして再び曲が終わったとき、ジャンヌこちらにとろけるような笑みを向けた。

「どうだった?」

 ジルヴェールははっと夢から醒めたようになった。呆然と口を開く。

「お美しい……演奏でした」

「そう」

 ジャンヌは立ち上がり、まっすぐにこちらへ向かってきた。眼前で止まるかと思いきや、更に近くへ身を乗り出す。彼も慌てて立ち上がった。ジャンヌの細く華奢な腕がすっと伸びる。

 激しく狼狽え胸を痛いほど高鳴らせる彼のジレのポケットに、ジャンヌの手がするりと滑り込んだ。

「まあ、こんな時間なのね」

 取り出した懐中時計を戻してこちらを見上げる。かつてないほどの近い距離に彼女の青い瞳がある。

 緊張に強ばる従僕に悪戯っぽく微笑んで、唇に人差し指の先を当てた。

「わたしの、今日の秘密の練習はこれでおしまい。内緒にしててね、ジル」

 うふふと笑って部屋を出て行ってしまった。

 誰もいないこの音楽部屋で、彼は独り壁に背をつけ、胸を押さえていた。切ない痛みに疼いている。

 普段はあどけない、愛らしい笑みを湛えているのに、ふとしたときに見せる妖艶な微笑。それが彼に向けられてはひとたまりもなかった。ジルヴェールは恍惚の表情で天を仰ぐ。

 部屋にはまだ、彼女の気配が残り香のように漂っている。彼が正気を取り戻すのは、これよりもう少し後だった。

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