第十六話 特等席の夜

 場面は変わって昼間になった。ジルヴェールは剪定道具とバケツを手に裏口から外へ出て行くところであった。

 彼の足はノットガーデン方へ向かっている。昼まっただ中だが、陽の光は穏やかで、吹く風も心地よい涼しさだった。結び目模様の生け垣へたどり着くと全貌を見渡し、気になる箇所へ行ってしゃがみ込む。

 そういえば庭師のルトーは登場していない。マリーは視界の範囲内へ懸命に眼を凝らしたが、あの壮年の男の姿は見えなかった。成長したジルヴェールに後を託して引退したのかもしれない。

 ジルヴェールは鋏を手に、葉の伸びている箇所を整え始めた。少し切っては後方から眺め、納得のいくまで作業を続ける。それはもの凄い集中力で、ひとたびやり始めたら腹が空こうが喉が渇こうがおかまいなしだった。

 じりじりと時間が過ぎていく中、ふと頭上でがさりと葉擦れの音がして、彼は初めて後ろの上方を振り向いた。ノットガーデンを囲う木々の緑の中に真っ青な色がひらひらと揺れている。その下から覗いているのはブーツを履いた華奢な足だ。

 彼は息を呑み立ち上がる。急いで駆け寄った木の幹に、美しい令嬢が腰掛けていた。いつの間にかその木の側に脚立が移動している。

「お、お嬢様……!」

 ジャンヌは「もうばれちゃったわ」と悪びれもせずに呟き、眼を細めてにっこり笑った。

「お仕事の邪魔をするつもりはなかったの。どうぞ作業を続けてちょうだい」

「いけません」彼は慌てて両手を伸ばす。

「どうか降りてください、危ないですから」

「せっかく苦労して上ったのに」

 ジャンヌは唇を尖らせる。ひどく不満げだ。

「絶対、いやよ」

「しかし、もしお嬢様が落ちてしまわれたら、私は……」

 その後の言葉は続かなかった。次の瞬間、ジャンヌの身体が木の幹から落下していたのである。

 ジルヴェールは反射的に腕を広げ、落ちてきたジャンヌを受け止めた。腕の中にすっぽりと収まった彼女はころころと笑い出す。

「うふふふ。ほら、危なくないでしょう?」

 甘やかな香りがジルヴェールの鼻先を微かに包む。

「あなたが受け止めてくれるじゃない」

 言葉をなくした従僕の腕から彼女はするりと抜け出した。立ち尽くす彼の受けた衝撃を知ってか知らずか、ジャンヌは生け垣の群れを無邪気に眺める。

「私ね、お庭は全部、好きだけど……この裏庭が特に好きよ。この小さな迷宮も、池の周りに植えてくれたダリアも。だからちょっと特別な場所からお庭を見下ろしてみたかったの」

 彼女は「今度は見つからないようにしなくてはね」などと呑気に呟いているが、ジルヴェールはそれどころではなかった。うるさいほどの心臓の鼓動を抑えるのに必死だったのだ。

「見つかっちゃったから、私はもう戻るわ」

 彼女はくるりと背を向けて、軽やかな足取りで去っていってしまう。

 彼は空になった両腕を見下ろした。まだ彼女の感触が残っている。微かなぬくもりと残り香……崩れてしまいそうなほどの柔らかな感触。それら全てを抱きしめたい衝動に駆られて、彼の腕はどうしようもなく震えていた。

 ジャンヌに近づくたび、ジルヴェールの心は哀れなほどに彼女のことでいっぱいになっていた。しかしあの夜以降、ピアノを聴いてとせがまれることは二度となかった。時間を知らせても聞こえないかのようにピアノに熱中している。それどころか気が散るからと出て行かされることもあった。あの夜のことは本当にただの気まぐれだったようだ。

 それでも彼はジャンヌの秘密の練習を間近で聴いていたかった。何か、どうにかして聴く方法はないだろうか……そのとき彼の眼に止まったのは、隣の物置部屋だった。

 音楽部屋は防音仕様になっているが、物置と隣接している壁だけはなんの施工もされていない。ジルヴェールは仕事を終えたあと、こっそりと物置部屋に忍び込み、壁にもたれかかってピアノの音に耳を澄ました。外に比べれば良く聞こえるが、まだ音はくぐもっている。何か、もっと明瞭に聞く手段はないのだろうか……

 灯り一つない暗闇の中、よく目を凝らすと、眼前の闇の中にぽっとひとしずくの青白い光が見えた。それは壁に空いた爪の先ほどの小さな穴であった。

 彼は吸い寄せられるようにしゃがみこみ、穴の向こうをこわごわと覗き見た。すると、青白い月光のカーテンの中に、ピアノを奏でて揺れるジャンヌの背が見えるではないか。

 とんでもない特等席を見つけてしまい、ジルヴェールの心は躍り上がった。彼は全身で壁の穴にかじりつく。ピアノの音色は穴を通して一層鮮やかに聞こえてくる。ジルヴェールは音が止むまでそこにいた。居続けた。

 マリーはそんな彼の様子があまりに哀れでならなかった。彼の内に潜んでいるおかげでその純粋な熱情を理解しているが、傍から見れば躁病的で狂っているようにしか見えない。

 夢の映像はそれからもめまぐるしく転換していったが、どれもジャンヌが登場し、彼の心を悪戯にかき乱していった。しかし、彼女に惹かれているのはジルヴェールだけではないらしい。

「はあ、ジャンヌ様、本当にお綺麗だなあ」

 ある夜、使用人の食堂で遅めの夜食をとっていると、向かいの席で同期の従僕がパンを囓りながら呟いた。

「ナタリー様もアネット様も本当にお美しいが、なんていうかこう、ジャンヌ様って特別なんだよな」

「わかるぜ、次元が違うんだよな。背中に見えない羽根が生えてるんじゃないかって、時々思うことがあるよ」

 大の男が口を揃えておかしなことを言っているのに、茶化す者は誰もいなかった。

 その時マリーは木の幹から滑り落ちてきたジャンヌの軽やかな着地の感触を思い出していた。あの時彼女には本当に羽根が生えていたのかもしれない。

「そういえば、あたしはこの間ジャンヌ様のピアノを聴いたわ」

 いつの間にか会話にメイドが加わり始めた。

「フォンテーヌ卿がいらしてた日よ」

「ああ、あの日か、俺も聴いたよ。急に振られたのに、即興で弾いてしまわれたんだよな。あれはすごい才能だよ」

「あの方は芸術も秀でていらっしゃるわ。小さい頃は絵も描いておられたわね」

「でも、絵はすぐに飽きてしまわれて、翌日全部アネット様に差し上げたんだっけ」

「気まぐれな方よね。でもそこが素敵だけど」

 使用人たちの好き勝手な談笑から一歩外れたところで、ジルヴェールはひとり記憶を呼び起こしていた。

 ジャンヌは確かに才を秘めているが、それが密かな努力の賜物であることを自分だけが知っている。共有しているのだ。もう一度彼女が自分を呼んでくれる日がこないだろうか。もう一度「聴いて」と言ってほしい。「どうだった?」と、サファイアのような眼を自分に向けてほしい。あの時は緊張してしまって気の利いたことは何一つ言えなかったが、今度こそ、彼女の喜ぶような麗句を言ってみせる。

 嬉しそうに顔をほころばせる彼女が見たい。月光の差すあの部屋で、自分だけが知っている彼女の横顔を見つめていたい。……

 物置部屋の特等席は、ピアノを奏でる彼女の顔が見えないことが唯一の欠点だった。せめて横顔だけでも見つめられたらいいのに、それは叶わない。

 夜になるとジルヴェールはいつものように物置部屋に忍び込み、壁に空いた穴からジャンヌの背を、肩を、揺れる黒髪を覗き見ていた。この日の曲は珍しいことにひたすら気怠げで、ともすれば甘ったるさまで感じるほどに艶やめいていた。

 その理由はすぐにわかることになる。

 ジャンヌがふいに演奏をやめ、首を横に向けた。

「あら」

 くす、と笑う。

「こんな夜更けまで起きていらっしゃるなんて」

「それは貴女も同じですよ」

 穏やかで、少し甘い、男の声。フォンテーヌ卿の声だ。この日、彼は屋敷に宿泊していたらしい。革靴の足音と共にフォンテーヌ卿が視界の中へ現れる。彼は静かに歩み寄って、真白に塗られたピアノへ寄りかかった。

「もう一度、聴かせていただけませんか」

「よろしくてよ」

 ジャンヌは一見、いつも通りのあどけない笑みを浮かべているが、覗き見ているジルヴェールはその表情がいつもとどことなく違うのを感じていた。

 ジャンヌが再びピアノと向き合う。細い指先が奏でる、滴り落ちるようにしとやかな音色。いつもの華やかで無邪気な彼女らしさはすっかり失せ、艶やかに狂い咲く花のむせぶような薫りがたちこめていた。

「不思議だ」

 曲が終わり、彼はピアノにもたれかかったままぽつりとこぼした。

「あなたは三人のお嬢様方の中で一番若いはずなのに、時折、まるで大人の女性のように熟した薫りを放つ時があるのです」

「気のせいですわ。私はお姉さま方の中で一番末の妹ですもの」

「ええ。ですが、あなたは他の誰よりもみずみずしさと艶やかさを兼ね備えた、素敵な女性だ。少なくとも、僕にはそう見えます」

 ほんの少しの間、沈黙が降りる。だがこれは言葉を失っているわけではない。ジャンヌの顔は見えないが、正面に見えるフォンテーヌ卿の表情から二人がまっすぐに見つめ合っているのがわかる。

「ねえ」

 ジャンヌが沈黙を静かに破る。

「どうでした?」

「ピアノですか」

「ええ」

 ジルヴェールの指先が、ぎり、と壁に食い込んだ。爪の先が血の気を失い白く染まっている。

「最高でした。酔いしれてしまいましたよ。曲も素晴らしいですが、何よりも貴女の演奏に」

「まあ」

「以前から何度か、貴女の演奏は下で聴かせていただいていましたが……それとはまったく違う。月光の褥にたった一輪だけ咲く芍薬のような……」

「芍薬の花言葉は、慎ましさですわよ」

「まさに貴女そのものだと思いますがね」

 ジャンヌの顔が少し俯いた。彼女が俯くところなど滅多に見られるものではない。

 彼女は何も言わずピアノに手をかける。

 また別の曲が始まった。フォンテーヌ卿はしばし耳を傾けていたが、おもむろに部屋の奥へ向かい、チェロと椅子を引いて戻ってきた。ピアノを弾く彼女のすぐ傍に腰掛けて、彼女の奏でる音色の波に自らもまた揺蕩っていく。

 しとやかなピアノの音色に、チェロの音色が絡みあう。二人とも口を閉じているのに、囁きを交わしているような密なる空気が部屋に満ちていく。

 フォンテーヌ卿は常にジャンヌを見つめていた。ジャンヌも時折、小さく首を傾げて彼を見る。灰色の瞳と青の瞳が絡み合い、外れて、また絡み合う。

 その光景を覗き見ているジルヴェールは、一体どんな表情をしているのだろう。苦しげに息を吐きながらひたすらに穴の向こうへかじりついている。

 

――ああ、お嬢様が。

 

マリー意識の中に、突如声が響き渡った。

 

――あのお嬢様が、あんなに、見たこともないような表情で……

 

 絶望的な声がわんわんと反響する。そのたびにマリーの意識は激しく揺さぶられ、ぐらぐらとかき乱されていく。

 やがて演奏がゆっくりと止み、静かな余韻を残して消えていった。フォンテーヌ卿が立ち上がる。後ろ手に楽器を椅子に立て掛け、腰をかがめてジャンヌの唇に口づけた。

 耳をつんざくような叫び声が反響する。だが実際に起こった悲鳴ではなかった。哀れなジルヴェールの心の叫びであった。口づけに酔いしれるジャンヌから顔を背け、荒い息を吐きながら胸を押さえてうずくまった。

 苦しい。胸が熱い。どす黒い炎が燃えたぎっている。誰か、誰か嘘だといってくれ。今見た光景は悪夢の見せる幻なのだと……目が覚めたら朝になっていて、いつもの通り無垢なる彼女を見ることができると……そう言ってくれ!

 彼の悲鳴はマリーの意識の中にいつまでもこだましていた。わんわんと鳴り響く絶叫の渦に呑み込まれて、マリーも叫び出しそうになる。

 辺りの景色がちかちかと明滅する。マリーの意識は強引に引き剥がされて、ぐるぐると渦を巻きながら上へ上へと引き上げられていった。

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