第十七話 望まぬ縁談

 ひどく息苦しい目覚めだった。乱れた吐息のかかった指先は冷たくかじかんで、夜が明ける直前まで幽霊に触れられていたのだとわかる。

 心が酷くひりついている。夢で最後に見た光景と、彼の中にあふれ出た強烈な感情を思い出し、しくしくと沁みるように痛んだ。

 ――彼は、ジャンヌがフォンテーヌ卿のものになったから、殺した……?

 マリーはのろのろと起き上がり、もやもやする頭を抱えながら椅子に座ってペンを取る。

 紙に書き起こすと頭が整理されていく。特に今回の夢は情報量が多いので文字にするのに苦労した。そうして改めて、夢でのジルヴェールに思いを馳せる。

 管理人は動機がないと言ったが、そんなことはなかった。長い間、身分の違いから許されざる感情を抱えたまま彼女を見守り……そして彼女はフォンテーヌ卿と結ばれたのだ。

 ジャンヌを殺して自害したとされているジルヴェール。殺人を犯した罰のつもりなのか、それとも愛する人を手にかけてしまった悔恨からか、彼の魂は未だこの物置部屋に囚われたまま召されずにいる。五十年もの間誰にも顧みられることのなかった彼は、同じ黒髪碧眼を持つマリーを愛しい娘と見誤るほどに混沌と化してしまったのだ。

 マリーはふと眼を上げ、窓辺に光る赤い花を見た。彼の手によって手折られた茎は固く凍りついている。マリーはそっと手を伸ばして、冷たいダリアを押し抱いた。

 彼は闇に溺れながらもジャンヌを愛しているのだ。こんなに冷えきってまで、朦朧となりながら花を贈り続けているのだ。

 視界が大きく滲む。それはひとしずくの涙となって氷漬けの花弁に落ちていった。

 ――ごめんなさい、ジルヴェール。わたしは、ジャンヌじゃないの。

 ――もう、あなたの愛したジャンヌは、いないのよ……


 この日の午後、屋敷に一人の訪問客があった。背の低い、でっぷりと肥え太った老紳士である。人のよさそうな微笑を浮かべているが、よく見るとその目はまったく笑っていない。

「お父さま、よくいらっしゃいましたこと」

 マルグリットは父の姿を認めると立ち上がり、居間のソファへ通した。

「おお、聞いていたより元気そうだな」

 モルガン=ロイエールはソファにどっかりと腰を下ろし、「体調はどうかね」と訊ねた。

「悪くなる一方ですわ!」

 噛みつくようなマルグリットの声。

「もう十年以上……あの娘が同じ屋敷にいて……今だって、この上にいるのだと思うとそれだけでもう……」

「落ち着きなさい。そんなだからベルナール君も家に寄りつかんのだぞ」

 途端に、何か大きなものを丸呑みでもしたように彼女は口を噤む。

「まあ、おまえの不安定な心の原因はまさしく件の娘だ。それさえどうにかしてしまえば、あとはゆっくりと仲を修復すればいい」

「どうにかって……でも……」

「ここに」と、モルガンは懐から封筒を取り出し、卓上を滑らせ娘の方へ寄越した。

「儂の見立てた者たちを集めておいた。あとはおまえの都合のいいようにやりなさい」

 マルグリットは震える指で封筒を鷲づかみ、中から白い用紙を取り出した。そこには三人の男の写真と、それぞれの生い立ちや爵位などの履歴が詳しく書かれている。

「ああ、お父様……!」

 それらすべてに目を通しながらマルグリットは感極まっていた。

「とうとう、ご用意くださったのね! ああ、これであの子を追い出せる……やっと、この屋敷に平穏が……」

「なにせ、訳ありの娘を嫁に迎え入れ、なおかつその一切を他言しないと了承してくれる者たちだ。どれも儂に掴むところを掴まれているので心配無用だぞ」

「まあお父様ったら」

「もちろん全員、爵位や土地持ちだ。借金を抱えてはいるがね……。まあこれでベルナール君も文句は言えまい。言ってきたとしても、大旦那である儂の縁談を覆すなど不可能だろう」

「そうですわ。それに……あの人は、結局仕事を理由に屋敷に近寄りもしていない! 今更父親の顔なんてできるはずありませんわ……」

 マルグリットの身体がまたも激しく震えだしたので、モルガンは慌てて水の入ったグラスを娘に差し向けた。

「これこれ、落ち着きなさい。そう、全ておまえの言うとおりだとも」

 マルグリットの上下していた肩が治まってくると、モルガンは改めて三枚の用紙を指さした。

「ともかく見合いの日取りなどはおまえと向こうに任せるが、場所はこの屋敷にしておくことだ。できるだけあの娘を外の目に触れさせんようにな。婚姻の儀も必要最低限にとどめて……汚点を人目に晒さぬように」

「承知しておりますわ」

 マルグリットは固い表情でうなずいてみせた。

 さて、居間の外でこの一連の会話を立ち聞きしていた者がいる。

 カトリーヌは居間の扉から二、三歩後ずさると、頬に手を当て、溢れんばかりの喜びに顔を輝かせた。

 やった、やったわ! とうとう、あの子がいなくなる!

 ばたばたと階段を駆け上がり、二階の廊下を突っ切った。ごんごんごん! 騒々しく扉を叩く。

「あんた、いるんでしょう? いるわよね?」

 扉の向こうからは返事らしいものは聞こえないが、カトリーヌにはわかっていた。卑しいマリーの居場所などこの物置以外にはない。きっと今頃、いつものみずぼらしい身なりで鬱屈としているに違いないのだ。

「今日ね、お客様がいらしているの! どなたかわかる? わからないわよね、お祖父様よ! お母様とお話をなさりにいらしたのよ、あんたのことでね!」

 一気にまくしたてると、カトリーヌは一旦言葉を切り、息を整えた。そして再び息を吸う。

「いいこと? あんたはお嫁にいくの。もうすぐここを追い出されるのよ。うふふ、惨めな物置部屋から出られると思った? 残念でした! あんたの相手は全員借金持ち! 卑しい生まれの娘をわざわざ娶らなければならないくらい、後ろ暗さを抱えた哀れな人たちなのよ!」

 カトリーヌは勝ち誇ったような笑みで再び扉を叩いた。力いっぱい叩きつけた。

「あんたなんか生まれてはいけなかったのよ! だからあんたは、お嫁にいっても一生日の目を浴びることなくひっそりと暮らしていくのよ、しょぼくれた結婚相手とね! おーっほっほっほ! 愉快だわ! 愉快でたまらないわ!」

 扉を殴りつけるカトリーヌの拳は真っ赤になっているが、痛みなど感じないかのように叩き続けている。狂ったように喚くカトリーヌの頬には血の気が上り、目は爛々と輝いていた。今この光景をメイドたちが見たら気でも触れたと思うだろう。

 カトリーヌは今が好機とばかりにマリーを責め立てた。長い間……それこそ十年以上もの間、マリーの存在によって与えられた苦しみを返すためだった。

「あたしはね……いつだってあんたを消し去ってやりたかったわ。お母様があんたのせいで苦しんでいるのを見るたびに、何度殺してやろうかと思ったかしれない……でも、最後に勝つのはあたしよ! あたしと、お母様よ! あんたは生まれたことを後悔しながらこの後の人生を生きていくといいわ! おほ、おほほほほ!」

 高らかに笑いながらカトリーヌは去っていく。彼女は三階の自室にたどり着くまで笑いを止められなかった。だが、ひとたび自室に入り扉を閉めた途端、その笑い声はぴたりと静止した。

 ぶちぶち、下唇を噛みしめる。つかつかとベッドまで歩み寄り、クッションを鷲づかむと壁に向かって思い切り叩きつけた。

 何度も何度も叩きつける。その顔に浮かんでいるのは激しい憤怒であった。

 先ほどマリーの縁談を嗤ったが、カトリーヌ自身、見合いは難航していた。母も自分も眼鏡に叶い、良いと思った相手に限ってすぐに断りを入れられるのだ。一体自分の何が気に入られないのかわからなかった。母譲りの輝くばかりの金髪も、白い素肌も、どんなドレスも着こなせるよう維持してきた身体も、何もかもに誇りを抱いて生きてきたのに。学校では羨望の的だった。クラスメイトの兄弟たちでさえ、自分を見て頬を赤くしていたというのに。

 一体何がいけないのだろう。どうして、どうして……

 そう考えた先にはいつも、階下にいる忌々しい異母妹の存在にたどり着く。マリーは疫病神だ。父を奪い、母の精神を病ませ、散々自分を苦しめてきた。これもきっとあの子のせいに違いない。あの子のせいで何もかもうまくいかないのだ。

「大っ嫌い……大っ嫌いよ! 殺してやりたいわ! 殺してやりたい……」

 ばん!

 もう何度目だろう、叩きつけ続けたクッションはとうとう綻びがほどけ、中から大量の綿が溢れ出して宙を舞った。

 ようやく手が止まる。乱れたシーツと無残に破れたクッション、飛び散った綿。その惨状を見下ろして、カトリーヌは未だ小さく身体を震わせていた。

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