第十八話 望まぬ縁談 二

 その日、マリーはベッドの上で膝を抱えたままじっとしていた。カトリーヌが扉を叩きつける騒々しい音と狂ったような甲高い声が、今なお耳にこびりついている。

 以前のマリーなら望まぬ縁談でも何も考えず受け入れられたに違いない。自分の人生はどう足掻いてもうまくはいかないことを知っている。母の言いなりになって見知らぬ相手と結婚して、ひっそりと生きていっただろう。

 だが今は。

 マリーの抱えた膝の中に、赤いダリアが一輪、大事に横たわっている。凍りついたみずみずしい赤。その細く柔らかい花弁に触れるだけで、心の琴線がびんと揺れる。かき乱される。

 幽霊はこの物置部屋に取り憑いている。結婚して屋敷を離れてしまったら、二度と会えなくなってしまう。ジャンヌと混同しているマリーが姿を消してしまったら一体どうなってしまうのだろう。闇に囚われたままの魂は浮かばれず、悲しみばかりが募って余計に天から遠く離れてしまうかもしれない。

 深夜、マリーはぱちりと目を開いてベッドに横たわっていた。部屋の空気を凍りつかせるような冷気が近づき、隣にぴたりと密着するのを感じるが、マリーはもう以前のように嫌がったり拒んだりはしなかった。それどころか、彼が額や頬、肩や腕を撫でるのを甘んじて受け入れたのである。

 肌に氷の溶け入るような感触を身に受けていると、そこに込められた想いまでもが伝わってくる。彼がマリーを通して見ている美しい娘への熱情……それが波のように押し寄せてきて、マリーはただ切なさに泣くことしかできなかった。

「もっと……もっと触れて。わたしを、抱きしめて……」

 このまま彼の冷気で命の芯まで凍りついてしまいたい。母の決めた結婚相手になど嫁ぎたくなかった。この屋敷で、この部屋で、彼とずっと一緒にいられたらどれほどいいだろう。母や姉に蔑まれようと、憎まれようと、顔が腫れ上がるほど殴られようと、彼にこうして抱きしめられたら、それだけで心が満たされるのに。

 マリーのぼんやり開いた唇にひやりとした感触が触れた。あれほど恐ろしく感じていたそれさえも、今はただ、胸を甘く締めつけるばかり。

 頬が涙に濡れる。それを受け止めようと口づける彼をすり抜けて、白いシーツに溶けていく。

 ――ごめんなさい。

 ――わたしは、ジャンヌじゃない。ジャンヌじゃないのに……

 つらい現実から逃げるために彼を騙している気がして、心がどろどろと濁っていく。自身の醜さに目を覆いたくなる。


 初めての見合いはその二日後に行われた。朝、何の予告もなくメイドたちが押し寄せ、大きな姿見が運び込まれ、丁寧に湯浴みを施され、清潔で高級そうな絹のドレスを着せられた。何も聞かされていなかったマリーはひどく戸惑ったが、姉のしているような派手な髪型に整えられていくうちに今日が縁談の日なのだと察し、途端に気が重たくなってしまった。

「本日は午後二時よりお見合い相手のフォスタール子爵がお越しになります。お嬢様には居間にてお待ちいただいて、我々がお通ししてからお見合いが開始されますのでそのおつもりで」

「あ、あの……」

 マリーがおそるおそる顔を上げる。メイドたちは互いに目配せし合ったのち、

「どうぞ」と年配のメイドがうなずく。

「あの、お見合いは今日だけでは、ないわよね……他に、あと何人くらい……」

「我々も深くは存じ上げませんので」

 とりつく島もない。

「では、頃合いになればお呼びいたしますので、それまではいつもと同様にお過ごしになられますよう」

 メイドたちが続々と去っていく。入れ違いに朝食の盆が運び込まれた。オートミールとスープ。いつも通りの食事なのに喉を通らない。やはりマリー自身の気持ちが落ち込んでいるために食欲は皆無であった。おまけに、普段タイトレーシングなどせず簡易的にコルセットをつけているだけだったので、極限まで締め上げられた腹部が悲鳴を上げている。

 結局ろくに朝食を食べられないままベッドに横たわることもできず、マリーは途方に暮れていた。窓辺に置かれていた赤いダリアを抱いて椅子に座っているだけだ。

「どうしよう……お見合いなんて、したくないわ」

 膝の上に握った花に向かって小さく嘆く。

「したくない……どこにも行きたくないのに」

 幾重にも重なる赤い花弁に、白い指先を埋めていく。

 結局マリーはその場からほとんど動かずに午後を迎えてしまった。

 

「これはお美しいお嬢さん」

 一人目の見合い相手、フォスタール子爵は、齢四十を過ぎた、やせ形で頬の痩けた男であった。貴族の男は大抵でっぷりと肥え太っているものであるが、見合い相手は全員借金持ちであるという。あまり贅沢もしていられないのだろう。

「マリー嬢、お会いできて光栄です」

 彼は恭しくマリーの手を取って口づけた。それは品位ある者なら当然の挨拶であり、カトリーヌも慣れっこになっているものであるが、マリーにとってはとんでもない行為であった。反射的に手を引っ込め、一歩後ずさる。

「申し訳ございません、この子はひどく人見知りでございますのよ」

 同席しているマルグリットが慌てて割り込んできた。子爵は手を払われたことに呆然とし、その顔からは張り付けていた笑みが消え失せている。

「こほん、まあ、そういうことなら……」

 居間に紅茶や茶菓子が運ばれ、テーブルの上が埋め尽くされた。これほど豪勢なお茶の時間などマリーは経験したこともない。

「なかなか良い香りの茶葉ですな」

 相手は硬直しているマリーのことなど気にも留めず、カップを啜り茶菓子を口にしている。その様子を眺めながらマリーは絶望的な心地になっていた。

 ――この人と、結婚……できるのだろうか。

 結婚したら具体的に何をするのか、どのように生活すればよいのか、全くの未知である。貴族の夫人になったら跡継ぎを産むのだということは漠然とわかっているが、今目の前でつまらなさそうに茶を啜っている二回り以上も歳の離れた男との結婚生活など、全く想像もつかなかった。

 それからフォスタール子爵はいくつかマリーに質問を投げかけてきたが、はっきりと答えることができなかった。恐ろしい母親の監視下であることも手伝って、完全に萎縮してしまっていたのだ。

「夫人」

 子爵は、後方でにこにこと甘ったるい笑みを浮かべているマルグリットに向かって訊ねた。

「マリー嬢と少し散歩してみたいのだが、お許し願えるだろうか」

「え、ええ、もちろんですわ」

 マルグリットはメイドを付き添わせようとしたが、子爵は丁重に断った。そしてマリーを連れて屋敷の外へ出て行った。

 庭へ一歩足を踏み出すと、ひやりとした風がマリーの頬や髪を撫でていた。子爵はどこへともなく歩きだしながら口を開く。

「何をそんなに怯えているのかね」

「……え」

 一歩先を歩く子爵はちらりとこちらをふり返り、ふん、と鼻を鳴らす。しばらく無言で歩いていくうちに、裏庭の方へと出てしまった。

 池の側のベンチまで来ると、彼はマリーに向かって促した。

「かけたまえ」

「……はい」

 こわごわ腰掛けると隣に子爵も座る。小ぶりなベンチの上で、マリーの剥き出しの腕に子爵の服の袖が触れた。そのざらついた感触に、マリーはびくりと肩を震わせる。

「マリー嬢、私が怖いのかな?」

 はっと目を上げると、子爵の落ちくぼんだ眼がこちらをじっと見下ろしていた。そのどこか荒涼とした、すさんだような目つきに、改めて背筋がぞくりとなる。

「い、いえ、わたしは……」

「私の領地はここと同じくらい穏やかな郊外だ。君は何もせずとも、ただ私と共に生活してくれればそれでいい」

 子爵がずいと身を乗り出す。マリーはじりじりと身を退いたが、この狭いベンチの上では肘掛けにすぐ腰がぶつかってしまう。

「私との縁談、引き受けてくれるね」

「……え……と」

 こちらに迫る子爵の目は薄らと血走っている。ひしひしと伝わる必死さに、聡いマリーは彼が余程お金に困っているのだと察した。

「何を躊躇うことがある。それとも、他にも縁談相手がいるのかね」

「……いえ、あの」

「君は私との縁談を断れない。断れないはずだ。君は私がいなければ他に結婚相手などいない。嫁入りできない娘の人生は厳しいぞ。君も、重々わかっていることだと思うが」

 子爵はますます身を乗り出してマリーに迫った。両手でマリーの細い手首を掴む。かさかさとした手のひらの感触にマリーの全身が粟立った。

 ――いや!

 無意識のうちに、心が悲鳴を上げていた。本能が彼を拒絶している。やはり自分は目の前の男との結婚を受け入れられるはずはなかったのだ。

 自覚した途端に絶望する。恐ろしい母と祖父の前にマリーは無力だった。いくら心が拒もうと、縁談からは逃げられない。

「いやとは言わせん。言えないはずだ。そうだろう、君も自分の立場を……」

 手首を掴む手にじりじりと力が込められる。それがマリーの限界だった。

 ぽろ、とひとしずくの涙がこぼれ落ちる。止めることができないまま、涙はあとからあとから次々に流れ落ちていった。子爵はぎょっとしたように目を見開く。

「君……」

「も、申し訳ありません」

 人前で泣くなど、十六を目前にした娘のやることではない。慌てて目を拭うが、涙は止めどなく溢れてきてしまう。

「そんなに、嫌なのか。気の毒なことだ」

 子爵の声にはたっぷりと皮肉が込められている。

「だが君は断れない。私と共にフォスタール領に来てもらう。……何がなんでもだ!」

 鬼気迫る表情で子爵が声を荒げた、その時だった。

 突如、子爵の顔が大きく引きつり、びくりと動きを止める。

「な、なん……だ……」

 まるで全身が何かに縛られでもしたように上体をのけぞらせる。見開かれたその眼に恐怖の色が浮かんでいた。

「子爵様っ」

 突然の異変に慌てたマリーは、訳もわからないまま立ち上がる。

「一体、どうなさったのですか、何が――」

「この、蔓、は……」

 子爵は力の限りにじりじりと腕を動かし、喉元で何かを掴むような仕草をした。

「蔓……?」

 見えない何かに首を絞められているかのようにもがき苦しんでいる。みるみる青くなっていく子爵の顔に、マリーは血の気の引く思いがした。

 紛れもなく、人知を超えた力が働いている。こんなことができる者は、一人しか思い至らなかった。

「幽霊さん――ジルヴェール!」

 マリーは苦しむ子爵の背をさすりながら、庭園中を視界の限りに見渡して叫んだ。

「やめて、お願い……!」

 だが子爵は一向に解放される気配を見せない。骨張った首には赤黒い痕が浮き上がり、口端が小さく泡立ちはじめている。

「ジルヴェール!」

 マリーは大きな青の瞳に涙をためながら、拳をぐっと胸に当てた。

「ジル……!」

 かつて彼をその愛称で呼んでいた、可憐な令嬢の姿を思い浮かべる。様々な思いを込めながら、マリーはもう一度その名を口にした。

「……ジル」

 ぐらり、唐突に子爵の身体が前方へ傾き、そのまままっすぐ芝生へ倒れ込む。

 頬は青ざめ瞼は固く閉じられているが、息はある。マリーは急いで屋敷の裏口へ戻り、手近なメイドたちを呼んだ。

「子爵が気を失われたの、お願い、来て!」

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