第十九話 破談
それからは散々だった。
「どういうつもりなの!? おまえ、子爵に何を……!」
マルグリットが顔面を蒼白にさせて怒鳴りたてる。マリーはびくつき、「わたしじゃありません」と必死に弁明してみるものの、聞き入れられることなどないのは明白だった。
怒り狂ったマルグリットは拳を高らかに掲げ、しかし、すんでの所で思い至る。今マリーに傷をつければ、後日に控えている見合いにまで支障が出てしまう。彼女は抑えた拳をソファへ思い切り叩きつけた。
「……子爵が目覚めたら、ゆっくり事情をきかせてもらうわ」
それからほどなくして客室で子爵が目覚めた。だがマリーの姿を見るやいなや、彼はベッドから転がり落ちるようにして後ずさった。
「く、来るな!」
青ざめた頬を引きつらせて叫ぶ。
「私に何をした、黒魔術でも使ったのか!」
「な、何のお話ですの?」
困惑するマルグリットに、子爵はマリーの方へびしりと指を突きつけてみせた。
「おまえか? おまえが私に怪しい術をかけたのか!」
「フォスタール子爵、一体どうなさいましたの、この子が一体……」
「私はただベンチに座っていただけだ! すると突然、地面から無数の……無数の、蔓が……」
「なんですって、蔓?」
マルグリットがマリーをぎろりと睨み据える。
「いいか、私は至って正常だ。おそらくその娘が、私に何か……呪いでもかけたのか、それとも、出された茶に薬でも入っていたのか……っ」
憶測を口にしながら恐怖がぶり返してきたらしい。子爵はぶるると背筋を震わせ、ベッドの側にあった上着や帽子をひっつかんだ。
「ともかくここへは二度と来るまい。私の領のことで弱みを掴んだ気になっているのだろうが、こんな恐ろしい家と関係を持つつもりなど毛頭ないからな!」
と早口で述べるなり、マルグリットの制止を振り切って部屋から飛び出してしまった。
後に残されたマルグリットは、両の拳を握りしめてぶるぶる震えている。マリーの背に嫌な汗が一筋、流れ落ちていった。
「……やってくれたわね」
ようやく口を開いたマルグリットは、今まで見たこともないような凄まじい表情をしていた。
「おまえが何をやったかは知らないけど……そこまでして私の邪魔がしたいの?」
「お母さま」じり、と後ずさりながらマリーは訴える。「わたしは、何も……本当です」
いつもなら弁明など諦めてしまうのに、この時ばかりは命の危険を感じていた。
「信じてください、わたしは何も……」
「おだまり! おまえが何かしたに違いないのよ。いつもおまえが家族の幸せを壊すの。 私も、カトリーヌも、みんなおまえが不幸にした!」
狂ったような吠え声と同時にテーブルの茶器が飛んできた。突然のことに身構えられず、マリーの額に正面から激突してしまう。だが母の怒りは収まらなかった。茶器、花瓶、手近にあった調度品が次々に投げつけられる。マリーは床にうずくまり、両手で頭を覆った。
硬い陶器がぶつかって割れる音。飛び散った破片がマリーの白い皮膚を切る、刺すような痛み。それらが止んだと思ったら、今度はマルグリット自らがやってきて、うずくまるマリーの背を思い切り蹴り上げた。
「おまえなんか死んでしまえばいいのよ! あの人の望みだからと、今まで堪え忍んできたけれど我慢の限界だわ! そうよ、おまえが死ねばあの人も諦めるに違いないわ!」
マリーの背を、脇腹を、頭を覆う手を、先の尖った靴が力いっぱいに打ちつける。発せられる言葉は支離滅裂でまともな意味をなしていないが、本人は恍惚とした表情を浮かべていた。
「そうよ、おまえが死ねばあの人は帰ってくる! ……ああ、おまえに会いたくなかったのね! どうして今まで気づかなかったのかしら!」
めいっぱいに締められたコルセットが母の足の衝撃にめり込み、とうとう口から苦いものが漏れ出した。
「本当に汚い娘!」
マルグリットはますます憎しみを込めてぐりぐりと靴底を押しつける。
「あの女と同じ……汚泥のよう! はやく消えて、消えてよ!」
「お母様!」
叫び声と共にカトリーヌが飛び込んできた。そして、目の前で繰り広げられている惨状にひっと息を呑む。
母の眼はぎらぎらと殺気だち、嬉々として踏みつけている娘は吐瀉物に塗れている。その壮絶な光景と部屋に充満した異様な空気に、さしものカトリーヌもいつもの調子を失ってしまった。
「お、お母様、これは……」
「ほほほほ! 私、もう我慢できなくなったの。この娘は今日ここで始末してやるのよ!」
「始末……?」
カトリーヌの顔色がさっと青ざめる。
「お母様、どうかあたしのために殺人だけは犯さないで! この子は追い出すんでしょう」
「追い出そうとしたわよ! でもだめだったの! この娘は生きているだけで不幸を呼ぶのよ、あの人も帰ってこないのよ! だから、今ここで殺すしかないのよお!」
「やめてお母様! ちょっと、誰か来て! お願いお母様を止めて!」
泣き叫ぶカトリーヌの声にすぐさまメイドたちが駆けつけ、暴れるマルグリットを抑え込んだ。彼女らも部屋から聞こえる凄まじい物音が気になりながらも、命令に反して押し入ることができずにいたのだ。
マルグリットは隣の客間へずるずると引きずられるようにして連れ出され、医者の薬を飲まされた。これは彼女がいつも常飲している頭痛薬で、効果が強いために頭がぼうっとして眠りについてしまうものである。ようやく事態が沈静化したとき、居間の中も客間へ続く廊下も、飾られた調度品や額縁までもが滅茶苦茶になっていた。
事態の収束に関してマリーは一切目にしていなかった。剥き出しの肌に無数の傷や痣を負ったまま、床に倒れて気を失っていたのである。
***
気がつくとマリーは見知らぬところに立っていた。屋敷でも庭でもない。見渡す限りに闇が降りて、どこまでも静寂が続いている。
また夢の続きを見ているのかとも思ったが、見下ろした手足は見合いのドレスの格好のまま、マリー自身のものだった。
ふと、耳に微かな物音を捉えた。囁くような、すすり泣くような、弱々しい誰かの声だ。マリーは慌てて周囲を見渡す。
「……だれか、いるの……?」
果たして、声の主は突如視界に現れた。
ほんの一瞬、瞬きの間であった。見渡す限りの暗闇だったはずの場所に、誰かが小さく背中を丸めて座っている。闇の中に白髪がひどく目立って、一瞬老人だろうかと思った。だが近づいて目を凝らすと、どうやら痩せた小柄の子どものようである。
その色の抜け落ちたような髪には見覚えがあった。かつて見た夢の中でたった一度、目にした姿を思い出す。
マリーは所在なげに少年を見下ろしていたが、意を決してしゃがみこんだ。
「どうしたの?」
声をかけると嗚咽はぴたりと止んだ。
少年が顔を上げる。濡れた灰褐色の瞳が、夢で垣間見た彼の瞳と重なった。思わず、言葉が次いで出た。
「ジルヴェール……」
少年は名を呼ばれても微動だにしなかった。ただじっと鋭い眼を向けているだけだ。
しばしの沈黙の後、少年が唐突に口を開いた。
「お呼びですか」
およそ感情というものが感じられない、抑揚のない声だった。それでも、初めて彼と対話することができたのだ。マリーの心がじわりと温かいもので満ちていく。
「わたしを、知ってる?」
マリーを見つめる眼が訝しげに翳り、彼は困ったように硬直した。
「お嬢……」言いかけ、手で額を抑える。何か痛みを耐えるような表情になる。
「ちがう……あなたは……」
「思い出して」じり、とマリーは身を乗り出していた。
「わたしのことを、思い出して」
「……あなたは……」
顔をしかめながら、彼は必死に何かを思い出そうとしていた。マリーは固唾を呑んで見守っている。
目の前の少年に夢中になりすぎて、マリーは気がついていなかった。この空間を押し包んでいる闇の一部が徐々に薄れ、いつの間にかやんわりと光が見えだしていることに。
気がついたときには、二人の眼前にぼんやりと光を放つ幕が降りていた。それはやがて見覚えのある風景を映し出す。緑の庭の中、ベンチに座る男女の姿が見えはじめると、少年は弾かれたように立ち上がった。
映像の二人のうち、男は身を乗り出して娘に迫っていた。その手をしっかりと握りしめて、落ちくぼんだ眼を血走らせ、必死に何かを言い聞かせている。
「――ああ……」
半開きになった少年の唇から、悲しみに満ちた声がこぼれ出る。そしてすぐに怒りの気配が全身を包み込んだ。
少年が映像の幕に両手を埋める。
「触るな……触るな……」
マリーの見ている目の前で、彼はいつの間にか背が伸び、もう少年とは呼べない姿に変貌していた。
「汚い手で……お嬢様に……」
埋めた両の手のひらから無数の蔓が凄まじい勢いで飛び出し、子爵に向かって地を走る。それは蛇のように鎌首をもたげて、子爵の足首に巻きついた。
子爵は突然の異変に眼を見開き慌てて振り払おうとしたが、蔓は恐ろしい速さで全身に絡みついて子爵の身体を縛り上げてしまう。あまりのおぞましさに子爵は恐怖の色を浮かべてもがき始めた。
「やめて、お願い……!」
マリーは思わず叫んでいた。幕に映し出されたマリーも同じように叫んでいる。
彼はまるで聞こえていないかのように、鬼気迫る顔つきで手を翳したままだ。彼の心を映したように、周囲の景色も急速に変わっていく。静かで穏やかだった空間は絶えずちかちかと明滅し、赤や青に光り、めまぐるしく変化していた。
「ジル……!」
ジルヴェールの背がびくりと震えた。映像の中で、子爵の身体から緑の蔓がするすると解かれていく。それらはやがて地中に埋もれるように姿を消していった。
「ここは、あなたの中なのね」
胸に手を当て、マリーは呟く。
「夜になるとここから出て、わたしの傍にいてくれたのね」
マリーはおそるおそる近づき、その背に手を伸ばしたが、触れられなかった。マリーの震える指先は彼の身体をすり抜けてしまった。
「ジル……」
その時だった。
突如、彼の足元から何か細長いものが幾つも這い出てきた。それは蛇のように全身をくねらせながらジルヴェールの足首に絡みつき、上へ上へと上っていく。
彼は異変に気がつく様子もない。ひたすら映像のマリーを見つめたまま棒立ちしている。微動だにしない彼の身体を、蔓はどんどん覆い隠していく。
「待って!」
マリーは暴走する蔓を必死に掴もうとした。だが蔓はマリーの手を巧みに避け、やがて大きな繭のごとく彼を包み込んでしまった。
緑の表面に拳を打ちつけてみたが、びくともしない。叩いた衝撃は頑丈な蔓に吸い込まれてしまう。
絡み合った蔓の隙間から、今なお目を見開き硬直しているジルヴェールの姿が見えた。彼との間を阻む壁はなんと厚いことだろう。彼はただ己の内にある美しい日々の記憶だけを抱き、他のものをすべて視界から締め出してしまっているのだ。
だが、まだ諦めきれない自分がいた。マリーは硬く冷たい蔓に全身を預け、頬をぴたりとくっつける。
「ジル……ジャンヌは死んでいるのよ。あなたも、お屋敷の人も、もう誰もいないのよ」
目に涙を滲ませながら、蔓の繭越しに囁きかける。
「五十年……あなたはずっと、囚われたままなのね」
その日、屋敷で一体何があったのだろう。彼の切なく苦しい、だけど美しかった日々は、一体どうして潰えてしまったのだろう。
「わたし、あなたを救けたい」
そう口にしたマリーの瞳は静かな光を宿していた。
「この闇の世界から、あなたを救い出したい……」
絶望に打ちひしがれ苦しみにもがいていたとき、彼は傍にいてくれた。彼の優しさに幾度となく救われてきたのだ。
「今度は、わたしの番。だから、もっと教えて……あなたのことを。あなたの記憶を……」
――わたしが、屋敷を離れてしまう前に。
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