第二十話 夢の記録

 目覚めるとそこは物置部屋ではなく、清潔な客間のベッドであった。若いメイドは縫い物から顔を上げ、ぱっと顔色を明るく変えた。

「お嬢様、お目覚めになったのですねっ」

 縫いかけのクッションを脇に置き、彼女はマリーの手に手を重ねた。

「まだ起き上がらないでくださいませ。全身に痣や傷がございますから」

 言われてみれば胸元から腹部にかけて包帯が巻かれているような感触がある。額や頬にも何か貼り付けられているようだ。

「お母さまや、子爵は……」

「子爵は、とっくにお帰りになりました。奥様は……」

 メイドの顔が曇る。するとばたばたと騒々しい足音と共に客間の扉が勢いよく開かれた。汗ばんだ額に金の髪を張り付けたカトリーヌが顔を覗かせる。

「ようやく目覚めたの、あんた」

 姉の顔つきが憎々しげに歪む。

「客間なんか使って、生意気ね……!」

 そのまま猛然と近づいて、右手を思い切り空へ振り上げた。

「カトリーヌ様っ」

 メイドが咄嗟に割って入り、両手を広げて立ちふさがる。

「カトリーヌ様、どうぞお気持ちをお鎮めになってください。お嬢様は体じゅうを負傷なさっておいでです、どうかご容赦を……」

「何よあんた」

 カトリーヌは不承不承、腕を降ろし、目の前のメイドを睨み据えた。

「ふん……いいわ。お母様がお戻りになるとき、今の件を報告させてもらうから。そうなればあんたはクビよ」

「お姉さま、それだけは」

 反射的にマリーが口を挟む。

「わたしが悪いのでしょう。それなら、罰はわたしだけに」

「うるさいわね! この女中は、お母様の気持ちを無視してあんたなんかを庇うからいけないのよ。身の程知らずには制裁が必要だわ」

 びし、と指先を妹に向ける。

「あんたの罰は、急がなくともお母様が与えてくださるわ。覚悟してなさい、絶対……」

 マリーは思わず目を見張った。目の前で仁王立ちしている姉の瞳に涙が浮かんでいたのである。

「お姉さま、お母さまは……」

「あんたのせいで身体を壊したのよ!」

 カトリーヌは半分自棄的に言い放った。

「元々、あんたがいるせいでお母様は毎日苦しんでいらしたのよ。そして今日、とうとう限界がきてしまわれたの。激しく心を病まれるあまり……街の病院で入院しなければならなくなったわ!」

「お母さまが、入院……」

「全部あんたのせいよ!」

 今、彼女の全身に恨めしさと怒りがのたうちまわっているのだろう。母譲りの上向いた睫が瞬くたびに、火花が散るようであった。

「許されるなら、今すぐにでもあんたなんか殺してやりたいわ! お母様がなさる前に、あたしが……」

 そこまで言いかけて、カトリーヌは激しく首を振る。

「……いいえ、今はいいわ。あんたなんかにかまけている暇はないもの。とにかく、あたしは見舞いに通うために屋敷を離れるから。その間……あたしは嫌だけれど、お母様もお嫌だと思うけれど……屋敷にいるのはあんたと女中たちだけになるから」

 この世から消し去りたいほど大嫌いなマリーに、屋敷を託すのがよほど嫌なのだろう、カトリーヌは全身を戦慄かせて、ふいと踵を返した。

「いいこと……あんたは、お母様がお戻りになるまで今まで通りの生活をするのよ。決して、屋敷の余計な場所に入り込んで穢したりしないで。あんたはあんたの、物置部屋から出ないで過ごすのよ。いいわね」

 それだけ言い置いて客間を去ってしまった。

 マリーは姉の消えた扉を凝然と見つめていた。頭の中でカトリーヌの言葉を反芻させながら。

「……お母さま、入院なさったのね」

 ようやく口にすると、メイドは「はい」とうなずいた。

「その、お嬢様がお気を失われたあと、奥様は激しく錯乱なさって……鎮静効果のある薬をお飲みになってもなかなか治まらず、ついには……我々の手を押しのけて……」

 そこまで言って、メイドはとうとう耐えかねたように俯いてしまった。濁した言葉に、マリーはぎこちなく続ける。

「……わたしを、殺そうと?」

「ああ、お嬢様」

 メイドは両眼に涙を滲ませた。

「奥様はお心を病んでおいでですわ。ですから……」

「いいの。気にしないわ」

 嘘ではなかった。幼い頃からずっと、マルグリットから「殺してやる」という言葉を聞かされてきたのだ。今更驚くことでもないし、怒りも悲しみもなかった。気が滅入るのは確かではあるが。

「それより、物置部屋に戻るわね」

「そんな、お嬢様」

 起き上がりかけたマリーを、メイドは懸命に押しとどめた。

「いけません、せめてもう少し、お体が癒えるまではどうぞこのままで」

「でも、この客間は……」

「奥様もカトリーヌ様も、当面の間お屋敷を空けておいでですわ。お気になさらず、どうかこちらで療養なさってくださいませ」

 マリーの手首に、メイドの汗ばんだ手のひらの温度がじわりと伝わってくる。なんとかしてマリーを客間で休ませようという意志がひしめいているようだった。

「でも、他のメイドたちが許すはずないわ」

「問題ございません。どうか私を信じてくださいませ」

 彼女の並々ならぬ意思に根負けして、マリーはおとなしく客間のベッドで過ごすことにした。

「それはそうと、お母さまは大丈夫なのかしら。入院するほど心を病まれたなんて……尋常ではないわ」

 たちまち、メイドの顔にさっと暗い陰がよぎった。

 資産家であれば余程の事情がない限りかかりつけ医がいて、何かあればすぐに飛んできてもらうのが一般的である。手術が必要であるとか、医者や看護師による二十四時間の監視が必要な場合にようやく入院に至るのだ。

 マルグリットの不調は精神的なものだという。それなのにわざわざ病院で過ごさなければならないということは――マリーの脳裏に不穏な予感が浮かんでいた。

 果たして、メイドはおずおずと口を開く。

「今回、奥様のお心は今までにないほどひどく乱れておいででした。お嬢様を手にかけようとなさるほどひどく……ですから、カトリーヌ様のご意向もあり、精神病院の方へお連れしました」

「精神病院……?」

 聞き馴染みのない言葉、というわけでもなかった。学生時代、マリーはカトリーヌたちから「精神病院に入れてもらいなさいよ」とからかわれていた。手がつけられないほど頭のおかしな人が収容される場所、というイメージが浸透しているためである。マリーはこの悪口が一番苦手だった。入院している人々はそれまでよほどの困難に苦しめられたに違いないのだ。それなのに悪口に使われるなど、マリーには耐えがたい苦痛であった。

「お母さまが、精神病院……」

 病院へ収容されなければならぬほど錯乱した母の姿を思い浮かべた。殺してやる、と叫びながら暴れる母。周囲の手を振り払いマリーを殺そうと荒ぶる姿を想像し、マリーの胸が複雑に痛む。

「では、お姉さまは精神病院まで通われるおつもりなのね。お母さまのために」

「おっしゃるとおりでございます」

 静かにうなずくメイドを視界の端に捉えながら、マリーは途方に暮れていた。

 精神病院に収容されて、無事に戻ったという話はあまり聞かない。大抵が気を病んだまま世間の目から隔離され、生涯を終えてしまうのだ。

 もちろん一時的な患者もいるにはいる。あの母は一体どちらなのだろうか。


 マリーはその夜、ベッド脇に小さな火を灯し、夢の記録を一枚一枚捲っていた。

 ――彼を、救いたい。彼を呪縛から解放するにはどうすればいいのだろう。

 気絶している間に垣間見た闇。真っ暗な中で独りぽつんと膝を抱えていた白髪の少年。彼の魂はあの闇の中に囚われていて、あんな風に外の世界を眺めていたのだ。

 ジルヴェールはジャンヌを殺してしまったことを激しく悔いているのだろうか。それとも、殺した後も彼女を恨み、妄執の権化となって取り憑いているのだろうか。

 そこまで考えてから、マリーは頭の隅にふと妙なひっかかりを覚えた。

 愛は時として憎悪になりえることは知っているし、実際にそういう殺人事件も起こっているのでおかしなことではないが、彼にはもっと憎むべき相手がいるはずだ。フォンテーヌ卿という紛れもない恋敵が。しかし彼には何もしていない。

 ――いや、本当にしていないのか?

 管理人の話を思い出す。屋敷を襲った悲劇の日、ジャンヌと従僕の他にもう二つ失われた命があった。長女ナタリーと……おそらくフォンテーヌ卿である。彼もその日、死んでいるのだ。庭の池の底に沈んで。それもジルヴェールの手によるものなのだろうか。憎き恋敵を手にかけ、ジャンヌに迫り、しかし心までは手に入れられなかった絶望の果てに彼女も殺したのだろうか。

 それなら、ナタリーの死はどう説明する?

 ナタリーの存在など初めからジルヴェールの眼中にはなかった。何の関係もないはずだ。ではなぜ伯爵と共に池に沈んだのだろう。

 マリーは焦燥に追い立てられるように夢の記録を捲っていった。――あった。フォンテーヌ卿が屋敷に招かれた日、ジルヴェールの視界の隅で縮こまっていたナタリーの姿。夜の晩餐会では頬を真っ赤に染めて、伯爵の笑顔をまともに見られなかったナタリー。

 そう、彼女は伯爵に惹かれていたのだ。ジルヴェールが伯爵を池に突き落とそうとしたとき、止めようとして一緒になって落ちたのかもしれない。或いは、伯爵の水死体を見て発狂し、後を追って自ら池に飛び込んだという可能性もある。

 ――だめだ。

 マリーは首を振り、爆発的な勢いで広がっていく自身の想像を打ち止める。

 本の読み過ぎだ。何もかも憶測にすぎないのに、勝手に想像を膨らませてはいけない。

 マリーは夢の記録をサイドテーブルに置いて、燭台の火を吹き消した。ベッドに横たわる。メイドは厚い毛布を何枚も用意してくれていたが、マリーには必要なかった。この身体にぴたりと張りつくようなあの冷気を感じなければ眠れないようになっていたのだ。

 マリーはいつもの調子で身体を丸め、瞼を閉じた。だが、何も感じない。

 そう、ここは一階の客室だ。彼は、二階の物置部屋に取り憑く幽霊……

 急激に身体が冷え冷えとするのを感じた。それは幽霊の彼に触れられているのとはまったく違う。肌はむしろ熱いくらいなのに、身体の芯だけが凍りついていくようだった。

 自分は今、寂しいのだ。

 その感情にようやく気づいたとき、マリーはすっかり目が冴えてしまっていた。

 この部屋にいては、彼に触れてもらえない。

 両腕で自らの肩をぎゅっと抱く。包帯の下の傷がずきりと痛んだ。

 身体を縮めたまま無理矢理目を閉じて、どれほど経っただろう。薄目を開けて壁時計を見上げると、深夜の二時を指していた。いつもならとっくに彼に抱かれたまま眠りについている頃だ。時間を知れば一層心寂しさに襲われる。

 ――あなた無しでは眠れないなんて、なんて情けない……。

 冴えた目にもようやく疲れが上り始めた頃、薄れゆく意識の中でふと背中にぞくりとするような冷たさを感じた。一瞬、ここがいつもの物置部屋かと錯覚するほど見知った感覚だった。じりじりと骨まで染みいるほどの冷気……

 マリーは咄嗟に目を開けようとしたが、できなかった。凍りつくような冷気のヴェールが瞼を覆っていたのだ。まるで後ろからそっと手のひらを当てられているように。

 彼は物置部屋に取り憑いているのではなかったのか。あの部屋から出ることはできないはずではないのか。

 思い返せば庭で摘まれた花も、子爵の見た恐ろしい幻も、彼が部屋の外へ干渉できたことを示している。そして今も彼は階下の客間に現れて、マリーに触れているのだ。

 閉じた瞼の隙間から熱い涙が滲みだした。だが泣きたくなかった。この涙が、せっかく彼のくれた氷のヴェールを溶かしてしまう気がして。

「ジル……」マリーは泡の消えゆくような儚い声を漏らしていた。「ジル……」

 繰り返すほどに、氷のような感触がますます全身に絡みつく。冷気の塊がマリーの全身の傷を労るように撫でるのを感じてますます涙が止まらなくなる。

 ――ごめんなさい、ゆるしてね。

 ――あなたの愛を利用して慰めてもらおうだなんて、卑怯なことをしているわたしを、どうか今だけ、ゆるしてね……

 心の底にちくりとした痛みを覚えながら、見えない彼の存在にしがみつく。

 無限に流れ込んでくる彼の熱情は、その晩もまた、マリーに夢を見せた。彼の魂からはらはらとこぼれ落ちる記憶の残滓に、マリーは自ら溺れていく。


***


 まず初めに覚えたのは違和感だった。咄嗟に自分の手足を確かめると薄い夜着の生地が見えた。メイドに着替えさせられ、今の今まで着ていたものだ。つまり今、マリーは紛れもなくマリー自身なのだ。

 慌てて周囲を見回す。ここは外だが、勝手知ったる屋敷の庭ではない。見知らぬ場所。足元には土の感触、周囲には黒服を着た人々の姿がある。そして無数に広がる十字に切り出された石の群れ……

 ここは墓地だ。黒服の人だかりは誰かの死を悼んで集まっているのだ。それは一体誰なのか――嫌な胸騒ぎがした。

 二人の男性が地面に穿った穴の縁に立ち、シャベルで土を被せようとしている。

「やめて!」

 突如、空気をひりつかせるような叫び声が上がった。

 それが誰のものなのかすぐにはわからなかった。転がるように前に出た姿を見て、やっとジャンヌの声だと理解した。これまでジルヴェールの感覚を通して耳にしてきた甘い声とは打って変わって、甲高くもつれた声音であった。

「やめて! やめてちょうだい! お父さまなのよ、私のお父さまなのよ!」

 人だかりの中心で膝をつき、棺に取りすがるジャンヌ。上等な喪服の裾が土に汚れるのも構わず、彼女は泣き崩れていた。

「およしなさい、およしなさいったら」

 長女のナタリーが厳しく嗜める。

「お願いだから、もうみっともない真似はしないで」

「みっともない……ですって?」

 姉の方をきっと振り仰いだジャンヌの瞳には、青い炎が散りかかっていた。

「お姉さまこそ非情だわ。葬儀の間、涙の一つも見せないで!」

「ジャンヌ」

 反対側から次女アネットが肩に触れる。おろおろと困惑と哀れみの入り混じったような顔つきだった。

「お父様の前なのよ、どうか落ち着いて」

「いやよ!」

 アネットの差し出した手を振りほどき、ジャンヌは棺に追いすがる。

「いやよ……こんな、土なんか被せて、お父さまはきっと寂しくお思いだわ! やめて、やめてったら!」

 とうとうその両脇を母と執事が掴み、棺から遠ざけた。涙に潤む彼女の瞳の中で、父の眠る棺がみるみる土に覆われていく。

「いやああ! やめて、お願い、お願い……!」

 胸を深く抉るような痛々しい叫び声だった。

 やがて彼女の声も枯れ果て、荒涼とした墓地には風に交じってすすり泣く声だけがこだまするようになった。棺が土に埋まり完全に見えなくなった頃、年老いた牧師が前に出て片手を上げた。

「クレメント氏の魂が安らかに旅立てるよう、祈りを込めて、送り出しましょう」

 その言葉を皮切りに、人々は各々賛美歌を口ずさむ。もの悲しい旋律は白く霧の滲んだ墓地にまぼろしのように漂っていった。

 マリーは管理人から聞いた話を思い出していた。クレメント家の主人は病で亡くなっている。この映像は、その最期の別れの時――

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