第二十一話 夢の記録 二

 映像が明滅し、ぐるぐると急速に回転していく。場面が移り変わると、頭上に朧がかった月が見えた。足元には柔らかな芝。辺り一面の草木の気配に、ここは屋敷の庭だと気がつく。

 芝生を踏みしめる足音がして、マリーは思わず飛び上がった。見つかるわけもないのに咄嗟に身を隠す。赤煉瓦の柱の陰に潜んでいると、屋敷の裏手の方からお仕着せ姿のジルヴェールが現れた。

 すらりと高い、見上げるような背丈。その特徴的な白髪も相まって、夜の闇の中でもひどく目立っている。鋭い眼をますます細め、何か焦ったような足取りで歩いている。庭仕事ではなさそうだが、こんな暗い中で一体何をしに来たのだろう……

 彼の後ろについて、美しいノットガーデンの外周を歩いていく。こんな状況なのにも関わらず、それが嬉しかった。彼の広い背中をぼうっと見つめていたので、彼が突然足を止めた瞬間、つんのめって転びかけた。 

 ジルヴェールは背の高い生け垣の陰にしゃがみこんでいた。一体、何を覗いているのだろう。彼の背後にぴたりと寄り添うように、マリーも向こうを覗き込んだ。

 緑の芝と湾曲した池。その手前の小さなベンチに二人の男女が肩を寄せ合いながら座っている。よく目を凝らすと影の一つは両手で顔を覆っているようだった。肩を震わせて嗚咽を漏らしている。その背を優しくさするのは、黄金色の髪の青年である。

「ジャンヌ、ジャンヌ」

 青年――フォンテーヌ卿は、赤子をあやすような声で囁く。

「僕も悲しい……シルヴァン様には感謝しかなかった。本当に素晴らしい方だった……」

 ジャンヌの咽ぶ声が一層高くなった。

「私のせいよ! 私が……」

 ジャンヌが小さな拳で膝を叩いた。

「気づけなかった……お顔色が悪いと思ってはいたけれど……吐血までなさっていたなんて……高熱を出されていたなんて……」

「僕も気がつけなかった。ジャンヌ、シルヴァン様は誰よりも隠すのがお上手だった。周りに心配をかけたくなかったんだろう」

「そんなの関係ないわ! 私は娘なのよ、気がつかなくっちゃだめなのよ!」

 それからジャンヌは、フォンテーヌ卿がどんな言葉をかけようとも決して泣き止もうとしなかった。ひたすら自分を責め、父の死を嘆き続けていた。

 しゃがみこむジルヴェールの足が、じり、と土を踏みしめる。できることなら自分が行って慰めたいと言いたげな、切なく苦しい表情をしていた。

 いつまでも泣き続けているジャンヌに、さしもの伯爵も困り果てたのか、彼はベンチからそっと腰を上げた。

「行かないでっ」

 途端にジャンヌが顔を上げ、彼の服の裾を掴んだ。

「お願い……」

 いつも天真爛漫に自身の魅力を振りまいている彼女が、これほどまでに泣き崩れ、ひとりの男性にすがりついている姿など、誰が想像できただろう。

「ジャンヌ嬢」

 フォンテーヌ卿は困惑気味に眉を寄せ、服の裾を掴む彼女の手をゆっくりとほどいた。

「今夜はもう、休んだ方がいいでしょう。お部屋に戻ってお眠りなさい」

 それは、柔らかな拒絶だった。少なくともマリーはそう感じた。呆然と見つめる彼女の前で彼は踵を返し、左手の生け垣の隙間へ消えていく。

 残されたジャンヌは伸ばしていた手を静かに下ろし、空いたベンチの上に手のひらを這わせた。まるで、直前までそこに座っていた彼の温度を確かめるように。

 マリーの隣でジルヴェールが静かに立ち上がった。思い詰めたような顔つきで、今にもジャンヌの方へ駆けていきそうな気配である。そしてまさに、生け垣の向こうへ一歩踏み出そうとした時だった。

 反対側の生け垣の隙間で、何かがきらりと輝いた。月明かりを反射したような、明らかに人工的な輝きである。ジルヴェールもそれに気がついたのか、動かしかけた身体をびくりとこわばらせる。

 マリーは誰にも見えないのを利用して自ら飛び出し、池の方へ足早に近づいていった。ジャンヌのいるベンチの横を通りぬけ、向こう側の生け垣へたどり着く。

 その陰に潜んでいたのは、黒いドレスに身を包んだナタリーだった。さきほどの光は、彼女の眼鏡の反射だったのだ。

 戸惑うマリーの足元が吸い込まれるように回転し、場面が地下室の様子に切り替わった。白いクロスの敷かれたテーブルの上に銀食器を並べ、同期の従僕と二人で一心に磨いているところだった。

 相手の従僕がフォークを置き、はあ、と深いため息をつく。

「こんな時に言うことじゃないかもしれないが……やっぱりこの家は、旦那様がおられてこそだったんだな」

 無表情のまま手元の皿を拭き続けているジルヴェールに、彼は問いかける。

「おまえもそう思わないか。あの日から屋敷の中はまるで廃墟みたいだ。奥様は見るからにやつれておられてもうお会いするのもつらいくらいだし、ジャンヌ様は……」

「おっしゃりたいことは、わかります」

 ようやく口を開いたジルヴェールもまた、息苦しそうな声音であった。

「そうだよな。おまえは特に……ジャンヌ様を気にかけてたからな」

「……そういうわけでは」

「隠すなよ。俺にはわかる。おまえ、いつもジャンヌ様を見ていたじゃないか。池の方もダリアの球根だらけだろ」

「……」

「でもわかるよ。俺もそうだ。俺もジャンヌ様をすごく敬愛している。あんな天使のようなお方はそういない。だから、余計につらいんだ……音楽部屋にずっと閉じこもってらっしゃるのがさ」

 マリーは池の側で泣き崩れている哀れなジャンヌの姿を思い浮べた。あれから幾日経っているのかわからないが、彼女は今、二階の音楽部屋から出てこないらしい。

「ナタリー様も自室にこもりきりだし……俺はなにより、アネット様が気の毒で仕方ないよ。一番おとなしかったあの方が、今は奥様と姉妹を結びつけようと、屋敷の中を駆け巡っておられる。おまえも見ただろう?」

 ジルヴェールも微かにうなずいた。

「昼間も、それぞれのお部屋にお声かけを……」

「そうだろう。もう、そのお姿を見るだけで胸が痛くてたまらないんだ。アネット様こそ、お体を壊されなければいいんだが……」

 その時、りんと涼やかなベルの音が響き渡った。二人ははっと壁を見上げる。横並びに幾つも取り付けられたベルの一つを見上げ、「アネット様だ」と従僕が呟いた。

「ジル、すまないが行ってくれないか」

「はい」

 ジルヴェールは拭いていた皿を丁寧にしまい込むと、地下室を出て階段を上がっていった。マリーも慌てて後からついていく。

 アネットの部屋は三階の東側にあった。ジルヴェールが近づくと扉が開き、中から淡いブルーの瞳が覗く。

「ジル、来てくれたのね」

 アネットは母譲りのブルネットの髪をシンプルに編み込み、質素な黒服を着ていた。手にしたメモ書きを彼に手渡す。

「急なのだけど、明日、お花をもらいに行ってくれないかしら」

「それでしたら、週末に業者が……」

「週末じゃ遅いわ。明日、どうしても晩餐に間に合わせたいの」

 アネットの声は相変わらずおっとりと穏やかだが、どこか急くような気配が滲んでいた。

「お母さまと、ナタリーとジャンヌを呼んで、一刻も早くきちんと食卓を囲いたいの。あれからずっと、みんなお部屋で食べているでしょう……」

「かしこまりました」

 ジルヴェールのメモを持つ手に力がこもる。

「花は、どちらへ」

「一旦、この部屋に持ってきてくれたらそれでいいわ。あとはメイドたちと一緒にやるから」

「そのようにいたします」

 従僕の了承した声に、アネットはほっとしたように目を伏せた。

「ありがとう……」

 場面が変わる。屋敷の映像は消え、代わりに人々の群れが姿を現した。空には陽が昇り、辺り一帯がからりと明るい。翌日になったのだろう。

 ジルヴェールとマリーは今、賑やかな街道を歩いていた。彼の両手には色とりどりの花がぎっしりと詰まった花束が抱えられている。彼が向かっているのは馬車道の向こうに見える停留所だ。乗り合い馬車に乗って帰るつもりなのだろう。

 ふいに、ジルヴェールの足が止まった。急だったのでマリーはまたもぶつかりそうになる。一体何を見つけたのか――背の高い彼の脇から顔を覗かせると、停留所の人だかりの向こうに頭一つ抜き出た背の高い人影を見つけた。褐色の軍服、黒い外套。そして、黄金色に輝く優雅な髪。

 ジルヴェールは道を渡り、停留所を通り過ぎていった。フォンテーヌ卿の後を追うつもりなのだ。マリーも置いて行かれまいとついていく。

 フォンテーヌ卿は揃いの軍服の男と肩を並べて歩いていた。何やら楽しそうに話しているが、街の喧騒が大きいせいで内容までは聞こえてこない。

 彼らが向かっていたのは広場だった。出店が立ち並び、中央に置かれたベンチの群れに人々が座り込んでいる。新聞を読む人、何かを食べている人、神妙な顔で話し合う人々……その人ごみに紛れるように二人は入り込み、空いていたスペースに腰を下ろした。

「やれやれ、ようやく休憩だな」

 やっと声を聴きとることができた。これは同席しているもう一人の男のもののようだ。

 彼らは葉巻を取り出して火をつけた。その背後に広がる人の群れに紛れながらジルヴェールは忍び寄る。

「おまえ、大変だったんだってな。クレメント氏がだめになったなら、計画もおじゃんだろ」

「そうだな。本当に、どうすればいい?」

 フォンテーヌ卿が肩をすくめて苦笑する。

「せっかくお嬢さん方が俺に夢中になってくれていたのに、今じゃまったく相手にしてもらえないよ」

「そもそも、あの家には男児がいないんだろ。一体だれが継ぐんだ?」

「さあ――ああ、もしかして」

 彼の顔から苦笑が消えた。顎を撫で、じっと何かを追うような半眼の眼差しになる。

「ナタリー嬢かな……」

「だれだ? 娘さんの一人か?」

「ああ、一番上のね。一番地味でさ、堅物で……正直、さして興味もなかったが……」

「でも、娘なんだろ? 跡継ぎになれるのか? ああそうか、婿入りか」

「そうするしかないだろうな。だが、さっきも言ったが彼女はとんでもなくお堅いんだ。クレメント家のご令嬢というだけあって縁談は山ほど舞い込んでいるはずなのに、全部断っているらしい」

「そんなにか……だがおまえの手にかかれば造作もないだろう。ほら、いつだったか、身持ちの堅い未亡人をうまく騙くらかしていたじゃないか」

「騙くらかすなんて乱暴な言い方はよしてくれ。寂しい女性を慰めただけさ」

「たんまり金をせしめたくせに、よく言うぜ。しかもその後とんずらまでしてな」

 周囲の喧噪の中でこの男たちの会話だけがやけに浮いて聞こえた。マリーの頭はその内容についていけなかったが、強烈な後ろ暗さだけは感じとっていた。

「そうだな、今ならまだ間に合うか。あの娘、俺に気があるみたいだし」

「はっはっは! なんだ、全然大丈夫じゃないか。その娘がおまえに惚れ込んで結婚、フォンテーヌとクレメントが一つになる。おまえの借金もチャラだな。土地も増えるし、羨ましいぜまったく」

「おまえも良い家をみつければいいさ。簡単だ、軍の伝手で出会えばいい。そしてそこの旦那に気に入られる。そうなればあとはもう流れさ。器量良しの娘がいれば尚ラッキーだな」

「確かにな……俺もやるか、嫁探し」

 マリーの視線がジルヴェールの背を捉える。彼の黒い背中は激しく戦慄いていた。青ざめた頬をひきつらせ、歯を食いしばっている。

 今にも殴りかかりそうな雰囲気に、マリーは思わず彼の燕尾の裾を掴もうとした。だがやはり、その手は彼の身体をすり抜けてしまい触れられない。

 ジルヴェールは爪の先が白くなるほど拳を握りしめていた。震える腕の中で花束の包みがくしゃりと音を立て、そこでようやく我に返る。

 彼の眼は刃のような冷たい光を帯びていた。その先に捉えているのはフォンテーヌ卿ただ一人だった。ジルヴェールはゆっくりと踵を返し、人混みの中へ紛れていく。

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