第二十二話 夢の記録 三

 屋敷に戻ると彼は真っ直ぐにアネットの部屋を訪ね、頼まれていた花束を運び込んだ。

「すべてお願いした通りね。本当に助かったわ、ありがとう」

 薄緑色の楚々としたクロスのテーブルを挟んで彼女は微笑んだ。ナタリーの不器用な微笑とも、ジャンヌの悪戯っぽい笑みとも違う。匂やかに柔らかく、その瞳には慈愛が満ち溢れている。

 他の二人に比べて常に控えめなので気がつきにくいが、彼女もまた麗しい見目を持っていた。クレメント家に共通している美しい碧眼と、全身から滲み出る慈愛深さが魅力的だった。亡き父親の一番の特徴を見事に受け継いでいるといえる。

「ああそうだわ、ジルヴェール。下のみんなにはもう言ってあるのだけど、お母様やお姉様へのサプライズで、フォンテーヌ卿もお呼びしているの。いつものようにお出迎えしてもらえるかしら」

 彼の顔に一瞬、険がよぎった。その様子に気づいているのかいないのか、アネットは胸の前で両手を合わせて続ける。

「お姉様もジャンヌも、あの方を気に入っているでしょう。お母様もきっとお喜びになるわ。あの方はお話がとてもお上手でいらっしゃるし……以前のように、食卓に活気が戻るかもしれない」

 それにね、と続ける。珍しく、彼女の口数がとても多い。

「ジャンヌはあの通り二階に籠もっているけれど、ナタリーお姉様は何をなさっていると思う?」

「申し訳ありません、私には」

「お勉強なさっているのよ。私、この間お姉様のお部屋を訪ねたら、一瞬だけ見えてしまったの。テーブルの上に山のように積まれた書物を。もしかしてと思ってお父様の書斎を見にいったら、本棚や机からいろんなものがなくなっていたわ。きっとお姉様、本気でこの屋敷の未来をお考えなのね。自分がしっかりしなくちゃって、誰よりも気を張っていらっしゃるに違いないわ。今こうしている間にも……」

 だから、私にできることを少しでもやりたくて。

 清廉な笑みをこぼしてこちらを見上げるアネットに、ジルヴェールはただ、棒を呑んだように立ち尽くしていた。マリーには彼の頭の中でぐるぐる巡っている激しい衝動が透けて見えるようだった。

「……アネット様」

 彼の小さく開けた唇の隙間から、上ずった声が漏れる。

「なに?」

「……いえ」

 逡巡しつくして、彼はようやく首を振った。

「仰せの通りにいたします」

「ありがとう、ジルヴェール」

 従順に低頭するジルヴェールの瞳を覆う重苦しい影に、果たしてアネットは気がついているのだろうか。

 昼間、屋敷には静かな時間が流れていた。静かすぎる……不気味な沈黙といってもいいほどに。夫人も、姉妹たちも、誰もが部屋に閉じこもり、使用人たちは黙々と仕事を片付けていた。今は亡き主人に代わり、最も重用されていた執事が仕事を引き継いでいるようで、ジルヴェールは時折書斎を訪ねてはコーヒーを淹れていた。

「ジルヴェール」

 書斎を去り際、その背に向かって執事が呼びかける。

「はい」

「庭の手入れは、順調かね」

 ジルヴェールの暗く翳った瞳が一瞬、困惑に固まる。

「――はい」

「庭は奥様の宝だ」

 執事は書類から眼を上げ、ふ、と軽く息を吐いた。

「今、この屋敷の全てが喪に服しているが……せめて庭ばかりは、色づいていてもらいたいと思わんかね」

「ええ……」

「頼んだぞ」

 扉を閉め、取っ手に手をかけたまま、ジルヴェールはしばし動きを止めていた。やがてふらりとその場を離れて階段を降りる。地下室へ出向き、更衣室でお仕着せを脱ぎ始めたのでマリーは慌てて部屋の外へ出て行った。

 ジルヴェールは黒いエプロンの作業着に着替えていた。手にはバケツと鋏。屋敷の裏口から出て行って、ノットガーデンの方へ歩いていく。以前に夢で見たような激しい太陽の光はない。夏は過ぎているのだろう。

 陽から逃れ休息に入った庭園にはまだたくさんの花が咲き乱れている。ジルヴェールはゆっくりと足を運びながら、乱れや異常がないか、隅々まで細かに確認していった。ツゲの生け垣を越えて池の方へと出たところで、ふいに足を止める。

 池の周囲のダリアの花畑に、ぽつんと黒い人影が座り込んでいた。髪もドレスも漆黒で、鮮やかな背景に映りこんだ影絵のように見える。

 そよそよと流れる風に髪をなびかせ、ジャンヌは真っ赤なダリアの花弁に指を這わせていた。やがて立ち尽くす従僕の姿に気がつくと、ゆるやかに顔を上げる。

「あら……」

 力なくはにかむ。薔薇色の唇には血の気がなく、濃い青の瞳には生気がない。

「花壇のお手入れかしら?」

「お嬢様、お部屋をお出に……なられたのですね」

 呆然とした呟きに、ジャンヌは力なく俯く。

「逢いたくなったのよ……この子たちに」

 彼女は今の今まで泣いていたらしい。大きな眼のまわりは赤く腫れぼったかった。

「ねえ、今夜、エリック様はいらっしゃるの?」

 唐突な問いにジルヴェールは面食らう。しゃがみこんだままジャンヌは薄く微笑んでいた。

「フォンテーヌ卿よ。アネットお姉さまが今朝お部屋にいらして……今夜はどうしても晩餐会をやるから、絶対に来て欲しいっておっしゃったのよ。ねえ、もしかして、あの方も来られるのかしら?」

「……申し訳ございません。晩餐に関する詳細は伏せられておりますので」

「そう、残念だわ」

 ちっとも残念でなさそうな声音だった。青白いジャンヌの頬に薄らと赤色が差している。

「お姉さまったら、お隠しになることなんてないのに……そう思わない? ジル」

「……ええ」

 答える声のほんの刹那の空白に、彼の思いとどめた言葉がひしめいているようだった。

 その夜、屋敷の前に一頭の馬が到着した。ジルヴェールたち使用人は皆、玄関に立ち並び、フォンテーヌ卿を出迎える。

「奥様のご様子は、どうかな……」

 伯爵の問いに執事は静かに首を振った。

「以前と変わらず、お部屋に籠もっておられます。しかし、今夜ばかりはアネット様のご要望ということもあり……」

「それはよかった。そろそろご機嫌を伺いたいと思っていたんだ。アネット嬢には後ほどきちんとお礼を申し上げたいところだな」

 伯爵の帽子と外套を受け取った執事は、そのまま隣にいたジルヴェールに手渡した。その時、ほんの瞬きの間のことであったが、通り過ぎていくフォンテーヌ卿の瞳とジルヴェールの暗い瞳が交錯した。

「では、ご案内いたします」

 執事が促し、フォンテーヌ卿も後に続く。

 広間のテーブルには久しぶりに上等なクロスが張られ、豪勢な料理がきらきらしく並べられていた。そしてテーブルや壁の調度品の間などに真新しい花を生けた花瓶が置かれている。母と姉妹たちのためにと懸命に花を生けるアネットのいじらしい姿が目に浮かんだ。

「相変わらず、この屋敷は華やかだ」

 そんな細やかな気遣いにさっそく気がついたのか、広間に踏み入るや否やフォンテーヌ卿が口にした。

「男の寂しい一人暮らしの館とは違うね」

「伯爵、いらしてくださったの」

 シャルロット夫人が扉の陰で立ち止まり、驚いたように目を見開いていた。

「こんばんは、夫人。ご機嫌はいかがですか」

「え、ええ、おかげさまで――」

 夫人は曖昧な返事を口にして、戸惑い気味に微笑を浮かべた。

「今日は一体、どうして……」

「アネット嬢が僕を招いてくださったのですよ。久しぶりに晩餐会を開くので、是非にと」

「まあ……アネットが……」

 夫人の弱々しい微笑みがわずかに明るくなった。

「お忙しいのに、ようこそおいでくださいましたわね。どうぞお席の方へ……」

 それから間もなく、次女アネットに押されるようにしてナタリーが、一歩遅れてジャンヌが、広間に到着した。

「フォンテーヌ卿……」

「エリック様、いらしてくださったのね!」

 まったく対照的な反応を見せる長女と末娘に、伯爵は白い歯を見せて笑いかける。

「ごきげんよう、お嬢様方。お招きに預かり光栄の至りです」

「フォンテーヌ卿エリック様、お越しいただき感謝いたしますわ」

 次女アネットが前に出て、ドレスの裾を摘まんで微笑んだ。壁際に控えていた使用人たちが互いにそっと目配せし合ったのをマリーは見逃さなかった。控えめな彼女が今、誰よりも張り切って客をもてなそうとしているのだ。亡き主人やふさぎ込んでしまった夫人に代わって……。

 晩餐会はアネットの期待通り、フォンテーヌ卿のさりげない話題のおかげで穏やかに進んでいった。シャルロット夫人は食事前に一度出直して厚めに化粧を施していたが、やはり目の下の濃い隈やこけた頬は隠しきれていない。それでも、彼女らしい柔らかな微笑みが戻っているように思えた。アネットは伯爵の話題を受けながら、隣で硬直している姉に促していた。

「おかしいわね、伯爵は。ねえ、お姉様」

 振られたナタリーの肩がわずかに震える。

「え、ええ――」伏せられた眼は丸めがねの反射で見えない。

「ねえエリック様、また冬の日の泊まりがけの訓練のお話を聞かせてくださらない?」

 固い表情の長女とは反対に、ジャンヌが無邪気な声を上げる。

「まだまだおかしなお話がおありでしょう?」

「ええ、ありますよ」フォンテーヌ卿はパンをちぎってにっと笑った。

「では、ある夜臆病な部下の身に起こった悲劇的な怪異について――」

 彼の話に広間の雰囲気は少しずつ活気を取り戻しつつあった。廊下で盆を運んでいると、すれ違いざまにメイドたちの囁きが聞こえてくる。

「良かったわね、フォンテーヌ卿がいらっしゃって」

「ねえ! やっぱりあの方は、クレメント家になくてはならない存在だわ……」

「ナタリー様は相変わらずね。内心ではものすごくお喜びになっているに違いないけど」

「ああ、伯爵がこのままお屋敷に住んでくださらないかしら。ほら、それこそナタリー様と……」

「そうねえ、それが一番いいわよね。そうなってくれないかしら。もう、一日中お通夜みたいなお屋敷は嫌だわ。いくら喪に服しているからって、これじゃみんな気が滅入るだけだもの」

 無邪気に囁き交わす声を耳にするたびに、ジルヴェールの表情はますます硬くなっていった。

 晩餐会も少しずつ終盤へ向かい、デザートが運ばれはじめると、シャルロット夫人が空のワイングラスをとん、とテーブルに置いた。

「ねえ、フォンテーヌ卿」

 角を挟んだ隣の伯爵へ向かって、潤んだ瞳を投げかける。目の縁が赤く染まり、怪しげな目つきになっていた。

「夫人、少し酔っておられるようですね」

「そんなことはどうでもいいの、それより聞かせてちょうだい、娘との今後のことを」

 途端に、広間から全ての音が途絶えた。少なくともマリーにはそう感じられた。壁際に控える使用人たちも、姉妹も、皆が固まっている。フォンテーヌ卿も例外ではなく、いつもの爽やかな笑みを凍りつかせていた。

「夫人――一体、なんのお話です」

「あら、隠すことないのよ。愛し合っているでしょう、あなたたち」

 あなたたち、と夫人が示したのは、フォンテーヌ卿と、まさに会話の途中で身を乗り出していたジャンヌである。この時ナタリーが初めて顔を上げた。眼鏡の向こうの厳格な視線でまっすぐにジャンヌの横顔を射貫いている。

「お、お母さま」

 ジャンヌは上ずった声を上げた。いつもの蠱惑的な笑みはどこへやら、生娘らしく頬を染めて。

「その、私たちは……」

「夫人、僕はジャンヌ嬢をとても尊敬しています。こうなったら白状いたしますが、夜中に彼女のピアノが聴きたくて、何度も二階へ足を運んだこともありました」

 ジャンヌの声を遮るようにしてフォンテーヌ卿が口を開く。

「まあ、そうだったのね、それなら――」

「ただ、愛し合うなど、とんでもないことです」

 夫人以外の誰もが息を呑む異様な静寂の中で、伯爵は落ち着き払って続ける。

「僕は一介の騎士にすぎず、一応爵位はあるものの土地も財も決して裕福ではありません。それでもこの素晴らしいクレメント家とお近づきになれているのは、亡き旦那様と皆様のご厚意あってこそ。僕など到底、ジャンヌ嬢には釣り合いませんよ」 

 ジャンヌは凝然と伯爵を見つめていた。唇を真一文字に引き結び、ガラス玉のような青い眼は大きく見開かれ、今し方耳にした言葉を何度も胸中に反芻しているようだった。

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