第二十三話 夢の記録 四
「――ご謙遜がすぎますこと」
ようやく声を振り絞ったジャンヌの顔は卓上の蝋燭よりも白く、苦笑とも痙攣ともつかぬ微妙な表情が張り付いている。
「残念ですが、お母さま、私ではこの方のお眼鏡にかないませんでしたわ」
「あら……」
夫人は酒に赤らんだ顔をきょとんとさせ、
「いやだわ、わたくしったら。ごめんなさいね伯爵」
「いえ、僕はただ、自らの価値をわきまえているだけです。宝石のように輝くお嬢様方には不釣り合いなことこの上ない」
「でもね、伯爵。わたくし、ずっと思っていましたの。このお屋敷は主人だけではなく、わたくしや娘たちにとってもかけがえのない場所ですわ。おわかりいただけますわよね」
「もちろんです」
「あの日からずっと……輝くばかりだったこの屋敷は日陰に曇って、まるで廃城のようになってしまったわ。わたくしはそう遠くないうちに主人の後に続くでしょうけど、娘たちには取り戻してあげたいの」
「お母様」
アネットが慌てたように口を挟む。
「少し、呑みすぎですわ。どうぞお水を――」
「いいえアネット、あなたも聞いてちょうだい。伯爵、この屋敷には今こそ、あなたのお力が必要だと思っていますの。主人もきっと同じ思いのはずですわ。だから――」
「お母様っ」
突如、厳しい声音が淀んだ空気を貫いた。見れば長女ナタリーが顔を上げ、毅然と背筋を伸ばしている。
「屋敷のことでしたら私がおりますわ。実はお父様からお仕事のことをいろいろと学んでおりましたの。今代行している執事のところにも通わせていただいています。ご心配は無用ですわ」
「まあナタリー」
夫人は困惑気味に眉を寄せる。
「確かに、あなたは賢い娘。あなたになら任せられるとお父様もおっしゃっておいでだったわ。でもね、あなたは女の子なのよ。いくらあなたが聡く賢いといっても、世の中には――」
「それこそ執事に手伝ってもらいますわ。お母様、伯爵も困っておいでですわよ」
夫人は赤らんだ顔をはっとさせ、申し訳なさそうに俯いた。
「ええ……そうね、わたくし、やはり呑みすぎているようね。ああ、ごめんなさいね伯爵、今夜のわたくしの失態、どうぞお忘れになって」
マリーは、ナタリーの口から出た意外な言葉に唖然としていた。極めて奥手なナタリーは、伯爵と長女を結婚させて屋敷のことを託したいという夫人の話に身を任せてしまうに違いないと思っていた。まさか断固として押しとどめるとは思ってもみなかった。
酒に火照った頬をますます赤らめて恥じらう夫人の横で、フォンテーヌ卿は意味ありげな視線をナタリーの方へ投げかけていたが、彼女は再び奥手な娘に戻ってしまったのか、晩餐が終わるまで二度と顔を上げることはなかった。
その晩、ジルヴェールは屋敷を見回っていた。廊下に灯された洋燈を順繰りに消し、各部屋の窓の施錠を確認しながら二階へ向かう。
彼はいつも二階を後回しにしていた。あの音楽部屋の音を聴くためだ。扉に耳をつけてジャンヌのピアノの音を確認すると、隣の物置部屋へ赴き燭台の灯りだけを頼りに壁に向かってしゃがみ込む。両手をぺたりと壁にくっつけてピアノの音色に酔いしれるのだ。
マリーはその光景を眺めながらふと気がついた。壁の穴だ――色々と衝撃的な光景が多すぎてすっかり忘れていたが、今もあの部屋の壁には穴が空いているのだろうか。長年暮らしてきたのに気づかなかったとは考えにくいが……
改めて、ジルヴェールがしゃがみこんでいる場所と現実の光景とを重ね合わせてみた。そして、気がついた――マリーの暮らしている物置部屋には、丁度あの位置に衣装箪笥が置いてあるのだ。穴が空いているとしても隠れて見えていないに違いない。
ジャンヌの演奏を覗き見ているジルヴェールの表情はどこか張り詰めたように歪んでいた。眉を寄せ、唇を引き結んで、ひたすら憂うように穴の向こうを見つめている。音に聴き入るというよりは、心配して見守っているという方が正しい表現だろう。
今夜のジャンヌは、喪中であることなど忘れたかのように底抜けに明るい曲を奏でていた。まるで胸をときめかせながら何かを待っているような高揚感にあふれている。
聴けば聴くほどジルヴェールの顔色は青ざめていった。そしてとうとう耐えかねたように腰を上げ、重々しい足取りで物置部屋を出て行く。マリーも慌てて後を追った。彼は音楽部屋の分厚い扉のノッカーを叩き、返事も待たずに扉を押し開けた。
ジャンヌは手を止めずこちらをちらりと見もしない。優雅に、楽しそうに、鍵盤の上で指を走らせながら、薔薇色の唇を開く。
「遅いご到着ですこと。私、お待ちしてましたのよ。エリックさ――」
「彼は、来ませんよ」
ピアノの音が止まった。
ジャンヌが首をゆっくりとこちらに向ける。その青い瞳が伯爵ではなく従僕の姿を捉えた途端、すっと熱が冷めたように翳った。
「まあ、誰かと思ったら」
「お嬢様、彼はここへは来ません」
「なんのお話? いやあね」
ジャンヌは唇を軽くとがらせ、再び鍵盤を叩こうとした。
「フォンテーヌ卿は、あなたではなく、ナタリー様を選びました」
華奢な肩がびくりと強ばった。
さらり、黒く長い髪が肩から胸に滑り落ち、俯くジャンヌの横顔を覆い隠してしまった。
「……どういうこと」
「お嬢様、あの男はクレメント家の財産を狙っています。初めはお嬢様を選びました。ゆくゆくは旦那様に認めていただき、婚姻にこぎつけ、ゆっくりと屋敷の権利をもぎとってゆく算段だったのでしょう。しかし――」
「うそよ!」
き、とジャンヌは顔を振り向ける。月光だけが支配する薄闇の中で、青の瞳が爛々と光っていた。
「うそよ! いくらあなたでも、そんな馬鹿げたことを――ゆるさないわ」
「おゆるしいただかなくても構いません」
ジルヴェールはジャンヌの方へ歩み寄っていった。緩やかな足取りであるが、彼の長い脚はあっという間に彼女の元へたどり着いてしまう。
「本日の晩餐会のことは覚えていらっしゃいますか」
見上げるジャンヌの白い顔に、黒々とした影が落ちる。
「あの者はお嬢様の想いを踏みにじったのです。奥様の眼前ではっきりと、容赦なく――」
「あれは謙遜よ」
「本当に、そう思われますか。ではこの間の夜は。お父上を亡くして涙に暮れていた貴女の言葉を、彼は最後まで聴き届けましたか」
瞬間、ジャンヌは大きな目を見開いた。赤い唇が小さく戦慄く。
「……あなた……まさか……」
「私はあの時、はっきりと違和感を覚えました。我々の知るフォンテーヌ卿ならば、きっとお嬢様の気の済むまで傍に寄り添い、涙を拭い、その言葉に耳を傾け続けたでしょう。しかし、そうはしませんでした」
「見て、いたのね」
ジルヴェールは感情を押し殺したような眼でじっとジャンヌを見下ろしている。
「全て、見聞きしておりました。あの男の不審な態度とお嬢様の痛ましさを目にして、憤懣を噛み砕きながら……」
更に一歩近づく。椅子に座るジャンヌの膝と彼の脚が触れあうほどの距離になった。彼女は後ずさろうとして動くことができず、椅子の背を掴んでわずかに仰け反る。
「盗み見なんて、最低だわ! そんな人だったなんて……」
「私はいつでも、お嬢様を見ておりました。お嬢様のなさる表情のひとつひとつ、上げられるお声や、軽やかな足取り、目配せ……何もかもをお見守りしておりました。それが私にできる唯一のことだと信じて……」
虚ろな顔つきで淡々と語りかける従僕に薄気味悪さを感じたのか、ジャンヌの顔は一層硬く青ざめる。
「ち、近寄らないで! ……私はあなたを、少なくとも信頼していたわ。だって、あなたの手はとても綺麗で……素敵な庭を生み出すんですもの。だけどあなたはとても、怖いわ……怖い人だわ!」
「どう思ってくださっても構いません」
彼はとうとうジャンヌの両手を掴んだ。右手を椅子の背の上で、左手をピアノの上で。――鍵盤が押されて、ガン、と低い音を響かせる。
「私はお嬢様を……貴女を、愛しています」
かがみ込む彼の頬に、白髪が一筋、はらりとこぼれた。
「貴女が幼少の頃よりずっと、お慕い申し上げておりました」
「……な」
信じがたい面持ちでジャンヌは呟いた。
「なに、それ……そんな……だって……」
「お気づきでなかったのですか、本当に……? あれほど愛らしい瞳で、艶やかな笑みを向けておられたのに」
「何を言っているのかわからないわ! 笑顔ですって……私はみんなと仲良くしたいだけよ」
マリーはジルヴェールの記憶の中で垣間見た、愛くるしいジャンヌの姿を思い起こしていた。あの時は彼の目を介して見ていたせいで、彼女の言動すべてが特別なもののように感じられた。だがジャンヌはただ楽しいから笑い、嬉しいから踊り、興味を持ったから近づいただけなのだ。目の前の男の一方的な想いなど関係なく。
「お願い、離して……あの人はどこにいるの? まさか、あなたが何かしたの?」
「彼は来ません」
ジルヴェールは固い声で繰り返す。
「あの者は貴女を選びませんでした。あの者にとって、お嬢様はもう、価値などないのでしょう」
「嘘!」
次の瞬間、ジャンヌは力いっぱいに彼を押しのけようとした。だが目の前の男はびくともしない。いくらお転婆で走り回っていたといっても、所詮は良家の令嬢である。大の男を押しのけるほどの力などなかったのだ。
ジャンヌの瞳に怯えが走る。
「どうして……」
今までひたすら自分に傅いてきた男が、本当は自分より一回りも二回りも身体が大きく頑丈であるという事実にようやく思い至ったのだ。そしてそれは、世間知らずの令嬢に絶望をもたらした。
「い、いや……お願い、私を行かせて!」
「なりません」
長い腕が、ジャンヌの華奢な背を抱き包んだ。
「貴女を傷つけたくない」
「何を言っているの! この分からずや、さっさとどいてちょうだい!」
「どきません」
じたばたともがけばもがくほど、彼の両腕はますます強くジャンヌを抱きしめる。
「お願いですから、どうか……私の気持ちなどどうでもいいですから……あとでどのような処罰もお受けしますから……あの者のことなど忘れてください」
「いやあっ!」
悲鳴のような声を上げ、ジャンヌは思いきり強く床を蹴った。ぐらり、重心が傾く。ジルヴェールの切れ長の眼が驚愕に見開かれる。
ジルヴェールは彼女の身体を壊れ物のように抱いていた。いくら体格差があれど、椅子ごと思い切り倒れこまれてはバランスが取れなかったのだ。
二人は絨毯の上へもつれ合うように転がり込んだ。ジルヴェールは反射的にジャンヌを力強く抱いて、背中を床へ強かに打ち付ける。
「――っ」
「あ……」
がばと上体を起こして、ジャンヌは慌てふためく。
「だ、大丈夫……? ごめんなさい、私……」
「……行ってはなりません、お嬢様」
痛みに顔をしかめながらも、彼は未だ訴え続けた。
「どうか、あの者のことなど……」
「まだそんなことを」
たちまちジャンヌの眼がつり上がる。
「私は、彼の婚約者よ。だって結婚したいとおっしゃってくださったのだもの。本当なら、お父さまにもとっくにお話できていたはずなのよ。お父さまはきっと快くお許しくださったに違いないのよ……!」
言うやいなや、ジャンヌは膝をついて起き上がり、つんのめるように駆けだした。
「お待ちください、お嬢様……!」
「来ないで!」
ジャンヌは後ろ手に扉の取っ手を動かし、光る瞳を従僕へ向けた。
「見損なったわ。あなたなんて、あなたなんて……大嫌いよ」
喚くでもなく、叫ぶでもなく、ただその声は、重々しく部屋の底へ沈んでいった。
部屋の扉が開き、ジャンヌが滑るように外へ出て行く。ジルヴェールは動くことができなかった。瞳を震わせ、扉へ向けて伸ばされた腕はゆっくりと落ちていった。
マリーは思わず駆けだしていた。今すぐその肩を強く抱きしめたい。悲しい衝撃に打ちのめされている彼を抱き包んであげたい。そして許されるなら、わたしがここにいるよと大声で叫びたかった。だがマリーはこの時代、この世界に存在を認められていない異質な者だ。この手は彼に触れられない。決して抱きしめることなどできはしない。その事実はあまりにも悲しく、マリーの心を締めつける。
その時、マリーの頭の隅で何かが強烈に疼き出した。胸を激しくざわつかせるような、本能的な衝動――扉を開けて、外へ出なければならないという衝動が突如湧き起こる。
いいえ。マリーは激しく首を振る。今ここで彼を置いていくなんて、できるはずがない。こんなにも打ち震えている彼を見捨てることなど……。
だがマリーの思いとは裏腹に、庭へ出たいという衝動はどんどん強くなっていく。それはマリーの意思とは明確にかけ離れていて、ひどく不気味だった。まるで誰かにそうしむけられているような、指図されているような、奇妙な感覚であった。
頭の片隅の疼きは一層強烈になり、マリーはとうとう、操られるような足取りで一歩踏み出した。だが目だけは彼を振り向いている。視界の端に捉えたジルヴェールは、未だ目を剥き立ち尽くしていた。
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