第二十四話 夢の記録 五
暗い廊下を歩くごとに頭の疼きはどんどん強くなる。急かすように、はやくはやくと追い立てる。これはいったいなんだろう。まるで屋敷全体がマリーに何かを見せたがっているかのようだった。
追い立てられるようにして階段を下り、マリーは裏口を飛び出した。不吉な雲のひしめく闇の空に、爪の痕のように白く浮かぶ月が見える。その下をジャンヌが彷徨い歩いていた。
マリーは吸い寄せられるようにジャンヌの元へ近づいていった。彼女は美しい眉間に皺を寄せ、口を半開きにして、生け垣の間をひたすら歩いていた。
「どこ……」
掠れた、蚊の鳴くような声が唇から漏れ出る。
「どこに……どこにいらっしゃるの……」
不安と焦燥に塗れた表情で、風に髪を乱しながら庭を彷徨う。やがて生け垣を抜け出ると、ざあ、と冷ややかな風が吹きつける中、ジャンヌはふいに立ち止まった。全身が凍りついたように動かない。
マリーもジャンヌの視線の先を追った。 湾曲した池を囲う石柱の側に、二つの人影が見える。一人はすらりと背が高く、こちらに背を向け優雅な格好で石柱にもたれかかっていた。もう一人は小柄でドレスを着たシルエットをしている。その人影は一瞬、月明かりを受けたようにきらりと強い光を放った。
「それで、何か私におっしゃりたいことがおありなのでしょう」
硬く慎ましい声。間違いない、ナタリーのものだ。
「まさか、庭の美しさについて語るためだけに、わざわざ私をお呼びくださったわけではございませんわよね」
「さすがはナタリー嬢だ、察しが良い」
フォンテーヌ卿は黒い外套を肩へ優雅に押しやり、すっとかがんで石畳に膝をついた。そのまま、流れるような動作でナタリーの右の手を取る。
「……お待ちください伯爵、一体どういう」
「そのままの意ですよ」
フォンテーヌ卿は甘く囁いて、その手の甲に唇を落とした。
「僕の気持ちを、受け取っていただきたくて」
「……」
ナタリーは何も返さない。ただ押し黙って跪いた彼を見下ろしている。
青白く映し出されたその光景を、ジャンヌはただ呆然と見つめていた。マリーもまた、目の前で起こっていることに頭の理解が追いつかない。――いや、理解はしている。少し前にジルヴェールと街へ出て、盗み聞いた会話から察していた。だが、未だそれを受け入れられない自分がいた。あれほどジャンヌと甘い言葉を交わし合っていた彼が、今こうして別の女性に跪いているなどと。
フォンテーヌ卿はナタリーの細い手をうやうやしく押しいただいたまま、熱っぽく語りかける。
「もうお気づきでしょう。ご聡明な貴女なら」
「理解が及びませんわ。貴方は……」ナタリーはごくりと唾を呑んだように、一寸間を空けて、
「貴方は、妹の……ジャンヌの、おもいびとではありませんか」
「どうやら、そのようですね」
彼の声に苦笑が滲んだ。
「僕はシルヴァン様をとても敬愛しています。そしてもちろん、シャルロット夫人も……三人のお嬢様方のことも。僕としては、皆さんと等しくお近づきになりたかったのですが」
「あらそうでしたの。それは、気がつきませんでしたわ」ナタリーの声はひどく素っ気ない。いや、素っ気ないふりをしているのか。
「貴方は一番下の妹にばかり気を割いておられるようでしたから」
「誤解ですよ。ジャンヌ嬢は屈託なく僕の話に付き合ってくださる。ですが貴女は僕の顔すらまともに見てくださらなかったでしょう」
ナタリーは一瞬言葉を失ったようだ。じり、と硬い靴底が石畳に擦れる音が響いた。
追い打ちをかけるように伯爵は嘆息する。
「寂しかったですよ。僕はそれほど貴女に嫌われているのかと……」
「それこそ、誤解ですわね。私は貴方を――」
マリーの視界の端で小さな木の葉が散った。ジャンヌが生け垣に指を埋め、無意識のうちにかきむしったのだ。
一瞬の間の後、ナタリーは静かに口にした。
「貴方を、お慕いしておりましたもの」
「……はは」
フォンテーヌ卿は額に手をやって笑った。
「では僕たちの気持ちは、お揃いというわけですね。ああ、遅かった。旦那様がご存命の間に何もかもお話してしまいたかったのに」
「気持ちが、お揃い? ――本当に?」
マリーはその時、ナタリーの声が微かに震えているのを感じた。いつも気丈で、感情を走らせないよう理知的に話す彼女の声が、このときばかりは明らかに平静さを欠いている。
「伯爵、貴方は、私の妹のことをどうお思いでいらっしゃるの」
「妹? ええ、どちらも素晴らしい方だと」
「そうではありません。一体貴方は、誰を一番に想っていらっしゃるの」
「どうしたんです。僕の気持ちを試しているのですか?」
フォンテーヌ卿はくすっと笑い、立ち上がってナタリーの方へぐいと腰をかがめた。
「もちろん、貴女ですよ。ナタリー嬢」
「――そう、ですか」
ナタリーは声だけでなく、肩までも小刻みに震わせていた。
「そうですよ。おや、泣いておられるのですか? 綺麗なお顔が台無しだ」
フォンテーヌ卿が胸元を探るような仕草を見せる。「どうぞ僕のハンカチを……」
ナタリーはそれを受け取ると、ゆっくりと目元に押しつけた。それから、震える手で胸元に押し抱く。
「ああ……」
彼女は押し殺したような声を上げた。
「貴方にこうしてお近づきできて、お声をかけていただいて……ハンカチまで……どれほど、どれほど夢見たことか」
「光栄ですね。それほど僕を想ってくださっていたとは」
「ええそうですわ……私、貴方のこと、本当にお慕いしておりましたのよ。憧れておりましたのよ。もしかしたら、いずれこの先の屋敷の経営のことまで、ご相談して寄りかかってしまっていたかもしれませんわ」
「僕は大歓迎ですよ。貴女に頼っていただけることほど名誉なことはない」
「……伯爵」
ナタリーの細い腕が伸びて、フォンテーヌ卿の背にゆっくりと回された。彼も彼女に応えて、覆い被さるようにしっかりと腕に抱く。
「ふふ、貴女にこれほど情熱的な一面があったとは。嬉しいですよ、とても……」
「私も、嬉しいですわ」広い背中へ巻き付いた腕に、ぐっと力がこもる。
「とても……とても、嬉しいですわ……」
その声には喜びなど少しも籠もっていなかった。悲しみだけがひしひしと伝わるような切ない声だった。
「たとえ貴方が……屋敷の相続だけを目当てに、私を愛してくださっているのだとしても」
刹那、空気が凍りついた。吹く風も、草木の囁きも、何もかもが静まり返る。
「……ナタリー嬢」フォンテーヌ卿の声はひどく掠れている。
「一体何を……」
「私、存じております。全て」
喉につかえるものを吐き出すように、ナタリーは語りかける。
「私、こういう性格ですけれど……外に友人はおりますのよ。将来私と同じように家督を継ぎ、情報を交え合える仲間が」
「……」
「ですが、初めは信じませんでしたわ。だって、貴方はとても素敵で……何よりお父様がとても信頼なさっていたのですもの。それに貴方は初め、私ではなく末のジャンヌを選ばれましたわ。屋敷が目当てなら私をお選びになる方が手っ取り早いでしょうに」
マリーは思わずジャンヌの方を見た。その顔は月の光よりも青白く血の気が失せている。
「そうはなさらなかったのは……単純に、ジャンヌが一番お好みでしたからでしょう? あの子は確かに、魅力的ですわね。私やアネットにはない、周囲をたちまち魅了してしまう不思議なところがありますから。貴方もまた、そのうちの一人だった……。お父様が存命ならば、誰を選ぼうと問題はありませんものね? 貴方と父の間には信頼がある。ジャンヌの心を射止めれば、本当に近々、婚約までこぎつけるおつもりだった……」
「ナタリー嬢、先ほどからおっしゃる意味がわかりませんが……」
フォンテーヌ卿は困惑気味に遮って、身体を離そうとした。だが、できなかった。そのの細い腕のどこにそんな力があるのか、頑丈な彼の身体をしっかりと抱いて離さない。
「私は貴方をお慕いしておりました。大切な妹に醜い嫉妬を抱くほどに……ですが、それでもよかった。貴方の訪問がある日は、あの子はとても幸せそうでしたもの。妹が幸せならと、私、じっと耐えておりましたのよ……あの時までは!」
宝石細工の眼鏡が月光にぎらりと反射した。
「お父様が亡くなってから、貴方はあまり屋敷に寄りつかなくなりましたわね。でも、あの夜いらっしゃったわ……悲しみに暮れるあの子の求めるままに、この庭へ出て……そして……貴方は、あの子をはね除けた!」
伯爵の背がびくりと強ばった。
ナタリーはなおも畳みかけるように続ける。
「全て見ておりましたわ。はしたないとお責めになる? 一向に構いませんわ。おかしいと思いました……あなた方二人の間には強い結びつきがあるんじゃございませんの? 私の心が嫉妬の業火に焼かれるほどに愛し合っていたはずでしょう。それなのに、貴方はいとも簡単に……」
「誤解だ」伯爵の声は、乾いて上ずっていた。
「ナタリー嬢、全て誤解だ。僕は……」
「貴方は私の大切な妹を傷つけましたのよ。それ以前にずっとお父様を騙し続け、裏切り続け……私の気持ちすら、土足で踏みにじりましたのよ!」
ぎりぎり、背に爪先が食い込む。眼鏡の奥の瞳が爛々と輝いている。
「貴方はご口上がとてもお上手ですから、私が訴えたところで事態は覆りませんわね。今度は誰に取り入るおつもりかしら? アネット? お母様?」
「ナタリー嬢」
「貴方のことは、今ここで、終わらせなければなりませんわ。それが私の務め……この屋敷に身を捧げるナタリー・クレメントの務めですわ!」
初めて耳にする彼女の激昂だった。次の瞬間、二人の身体は石柱の向こうへ大きく揺らぐ。
「待て、ナタリーっ」
「……ああ」
倒れ様、ナタリーは感に堪えかねたように呟いた。
「おかしいのね。貴方に名を呼ばれるだけで、未だこれほどときめいてしまうだなんて……」
激しい水音と共に二人の姿が消えた。
マリーの頬を絹のドレスの裾が打つ。ジャンヌは駆けだしていた。高いヒールに転びかけながらも芝生を走り、石畳を駆け抜けた。
「お姉さま……っ!」
石柱を掴み身を乗り出す。水面から褐色の袖が突き出て、ばしゃばしゃと激しくかき回していたが、やがて力なく沈んでいった。
「……お姉、さま」
青い眼を飛び出んばかりに見開き、喉を裂いたように絶叫した。
「お姉さまああああっ!」
そのまま池に飛び込みそうな勢いであった。今にも石柱を乗り越えようとしているジャンヌに、マリーは我知らず必死に手を伸ばしていた。
——だめ、ジャンヌ!
「お嬢様っ」
見知らぬ男の声が響く。振り向けば、森の方から頭巾を被った男が走ってくるところであった。
「お嬢様、いけません、その池は!」
男の足は驚くほど早く、間一髪でジャンヌの腕を引っ張った。あと一、二秒遅ければ彼女は池に転落していたであろう。
「何をなさっておいでですか!」男は、放心しているジャンヌに向かって叱咤した。
「この池は、かつて地下の貯蔵庫を埋めるために造られたものですよ、ご存知でございましょうにっ」
「……あなたは……」
「私は管理人ですっ」男は言いながら、はっとして池を見下ろした。
「あっ、あれは……!」
男の指さす先に広がる暗い水面。その中央にぼんやりと黒い影が揺らいでいる。
ジャンヌは管理人を名乗る男に縋り付いた。
「お姉さまが落ちてしまわれたの、エリ……フォンテーヌ卿と一緒に」
「なんですって」
男は仰天したように目を剥いた。
「まさか、そんな……では、あの影は……!」
「私……助けなくては」
「いけません!」男が慌てて引き留める。「お嬢様はどうかお屋敷にお戻りになって……この場は私にお任せになってください!」
「でも……」
「この場でお嬢様にしていただくことなど何もございません! 早くお戻りになってください。私は従僕や下男たちを呼んで参りますから。よろしいですね、お嬢様っ」
彼は有無を言わさず走り去った。屋敷の裏口の方へ素早く駆けていく。取り残されたジャンヌは、まだ放心しているようだった。
ジャンヌの肩が、ゆらりと動いた。
マリーは一瞬、彼女が落ちてしまうのではないかと思ったが、どうやら違うようだった。彼女はまるで操り人形のような怪しい足取りで、ふらふらと屋敷の方へ戻っていった。
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