第二十五話 夢の記録 六

 危なっかしい足取りで階段を上るジャンヌの後を、マリーは不安な面持ちでついて歩いた。

 騎士と令嬢の死――かつて管理人から聞いた話の通りのことが起こった。だが、こうも言っていなかったか。同じ夜、もう二人死人が出ているのだと。

 ジャンヌは来た道を引き返していった。階段に近い部屋の扉を無造作に開け放つ。

 階段を上り切り、ジャンヌは一番手前の部屋の扉を無造作に開け放った。そこは彼女の自室のようで、テーブルの上の灯火に浮かび上がった部屋は可愛らしいものであふれかえっていた。ところどころに置かれた花瓶には真っ赤なダリアが挿してある。ジルヴェールが切ってジャンヌに差し出したものだろうか。

 ジャンヌはすたすたと迷いなくベッド脇のサイドテーブルに向かっていた。貝殻の取っ手のついた引き出しの奥から、色鮮やかな宝石に彩られた長細いものを引っ張り出した。

 それは丁度、両の手の平を並べたくらいの長さがあった。磨き抜かれた美しい青に、色とりどりの宝石がちりばめられている。初め、マリーにはそれが何かわからなかったが、ジャンヌがその柄を握り、ゆっくりと引き抜いていく様を見て、それが宝飾されたナイフであることに気がついた。

 ジャンヌは鏡のように磨き抜かれた刃を確かめるように眺めてから、ゆっくりと鞘へ収める。そしておもむろに部屋を出て行った。マリーの胸中にある不穏な予感はこれまでにないほど強く心臓を急き立てていた。脳裏にはかつて覗き見た凄惨な光景がちらついている。鮮やかな赤、赤、赤……黒髪と、青……

 ジャンヌが向かった先は二階の音楽部屋であった。扉を小さく開き、誰もいないのを確かめてから中に滑り込む。マリーも辺りを素早く見回した。どこかに彼が潜んでいるのではないか。今にも物陰から飛び出して、ジャンヌの刃を奪うのではないか……

 ジャンヌは熱に浮かされたような足取りでふらふらと奥へ向かっていた。背の高い出窓の鍵を降ろして窓を開け放つ。

 白いレースのカーテンが内側へ大きく揺らめいて、一対の翼をはためかせているように見えた。今、彼女の瞳は何を映しているのだろう。かつてこの部屋で過ごした騎士との愛しい時間だろうか。それとも、自分のために怒って沈んだ姉のことだろうか。

「……うふふふ」

 重々しい笑い声が静かに響いた。

「ふふふふ……」

 窓に向かって立ったまま肩を揺らしている。様子のおかしいジャンヌの姿に、マリーの不穏な予感はますます募った。これから何が起こるのか……何を見せられるのか……

「お姉さまって本当に、ばかなひと」

 宝剣を抱く胸にぐっと力を込める。

「でも、本当の愚か者は私だったのね……」

 マリーはジャンヌの横顔を窺った。血の気は失せているが彼女はやはり美しかった。無垢と艶美さが神秘に溶け合うような横顔であった。

「お姉さまのこと、勘違いしていたみたい。ただのお堅い、つまらない人だと思っていたの……だけど、違うわ。あなたはとても愛情深くて、不器用なだけだったのね」

 独り呟きながら、ジャンヌは手にしたナイフを横様に持ち、すっと真っ直ぐに鞘から引き抜いた。宝飾に彩られた豪奢な柄は五彩に煌めいて、蝋細工のような白い手の上に色づいた影を落とす。

「お姉さま。殺人も、自殺も、どちらも地獄へ行ってしまうのよ。敬虔なお姉さまならご存知のはずなのに」

 白く輝く真新しい刀身に、青い瞳を映し出す。

「ひとりで背負う必要なんてないわ」

 その瞬間、マリーの全身に電撃が走り抜けていった。――まさか。

「愚かな妹も……共に参ります」

 だめ!

 マリーが手を伸ばすのと、部屋の扉が開かれるのは同時だった。

 ナイフを胸に構えた格好で、ジャンヌはくるりと振り返る。扉の向こうに立ち尽くす従僕の姿を見ると、青ざめた唇に人差し指を当てて微笑んだ。

 弾かれたように駆けだしたジルヴェールの眼前で、ジャンヌの身体は後ろへゆっくりと倒れていった。ダリアの花弁のように鮮やかな赤を振り撒きながら。

 マリーは両手で口を塞ぎ、呼吸を忘れて立ち尽くしていた。 

「……なぜ……」

 掠れた声が、低く低く、こだまする。

 膝をつき打ち震える従僕に、ジャンヌは薄く唇を開いた。口元からごぼりと赤いものを溢れさせながら。

「私、には……明日、なんて……必要ない、の」

 絶え絶えに息を吐き出すたびに、胸を染める紅がじわじわと広がっていく。

「お姉、さまを……ひとり、には、させない……」

「いけません、お嬢様!」

 ジルヴェールは発狂したように叫ぶ。

「お嬢様……お嬢様……!」

 彼女の細い肩にしがみつくようにして揺さぶり続ける。その間にも、ジャンヌの全身には冷たい死の火が回っていった。

 身体を揺さぶる手が止まる。ぱちりと開いたジャンヌの瞳はむなしく広い天井を見上げていた。

 彼女の胸元や周囲の絨毯を染めゆく碧血の中に、流れる川のごとき黒い髪。身に纏うのは瞳と同じ、目の覚めるような青の色。目の前にあるのはまさにあの夜、闇の中から垣間見た死体の光景であった。

 ジルヴェールは膝をついた格好のまま、しばしの間放心していた。乱れた白髪を肩に流して、魂の抜け落ちたような顔をして。

 やがて、彼の右腕がゆっくりと動いた。節くれ立った人差し指の背でジャンヌの頬をするりと撫でる。白く冷たい、陶器のような頬を何度も何度もなぞるうち、彼の鋭利な双眸が暗く翳っていった。

 灰色に沈んだ部屋の中、胸のナイフの宝飾だけが異様な輝きを帯びていた。彼はゆっくりと手を伸ばし、その柄を無造作に引き抜いた。どぷり、血の塊がこぼれ出る。

 ジルヴェールはナイフを手に取り、刃にまとわりついた鮮血を手のひらに受けた。その血だまりごと大切そうに両手で抱えて立ち上がり、何かに導かれるようにしてゆらゆらと部屋を後にする。マリーも共について出ると、たちまち屋敷の階下から人々のざわめきが聞こえてきた。池に沈んだ二人の死体のことで使用人たちが大騒ぎしているのだ。だがジルヴェールは気に留める様子もない。まっすぐに隣の扉を開けて、物置部屋へ入っていった。

 中は雨戸が閉じられ塗り込めたような闇に包まれているが、マリーにはジルヴェールの姿がはっきりと見えていた。彼はナイフを抱えたまま部屋の壁にもたれかかり、ずるずると座り込んでしまった。その位置は、いつも彼がジャンヌのピアノを盗み見ている特等席であった。赦されざる感情を抱く彼の、密やかな愉しみの場所だったのだ。

 マリーは彼の目の前にしゃがみこんだ。自分より大きな男の体が、今はひどく小さく見える。生気のない頬、青ざめた唇から漏れ出る痛ましい吐息……その全てが哀れでならず、気がつけば彼の名を口にしていた。何度も何度も呼び続けた。彼には届かないとわかっていても。触れられないと知っていても。

 ――まるで、わたしが幽霊みたい。

 マリーは自嘲気味に笑った。

 ――あなたも、かつてこんな気持ちだったのかしら……。

 マリーは彼の隣に膝をつき、その震える肩に両腕を回した。頬も肩も、何もかもが彼の全身に溶け入るように重ねられていく。

 彼は虚ろな目で、手のひらの血だまりをナイフの刃に塗りつけていた。

「貴女のいない世界に、意味などない……」

 ぶつぶつと、押し殺したような陰鬱な声が響く。

「庭も……屋敷も……なにもかも……すべては、ただ貴女のために……」

 マリーの腕の中で、ジルヴェールは真っ赤に血濡れたナイフの先を躊躇いもなく胸に突き刺した。


 ばたばたと人の行き交う音と、床を伝わる微かな振動。複数人の足音が近づいているのだ。それは隣の部屋の前で止まり、扉をばたんと押し開けた。

 刹那、全ての物音が地にしみ入るように途絶えた。

 張り詰めた空気を打ち震わすような絶叫が響き渡る。姿を見ずともマリーにはわかった。目の前の娘の死体に発狂した、シャルロット夫人の哀れな叫びであった。

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