第三十話 エミリア

 凍てつくような冬が訪れ、あっという間に過ぎ去った。書斎の窓から生ぬるい風がふきつけている。マリーは椅子から立ち上がって窓を閉めた。

「もう、すっかり寒くなくなったわね」

 ひとりごち、再び机に向かう。書斎の重厚なデスクの上にはタイプライターが置かれ、文字のびっしり印字された紙が散乱していた。

「あともう少し……もう少ししたら、眠ろうかしら」

「お嬢様」

 こんこん、と戸が叩かれる。若いメイドが盆を片手に入ってきた。

「あの、お命じの通り紅茶をお持ちしましたが……」

「ありがとう」

「しかし、もう十時を過ぎておりますよ。明日はお出かけのご予定ではありませんでしたか?」

「出かけるのは午後からだわ。朝はゆっくりできるもの」

 マリーは手を伸ばして盆の上のカップを取った。ほんのり立つ湯気に鼻を小さくひくつかせる。

「良い香り。もう少し頑張れそう」

「あの……僭越ながら、やはりお嬢様の体調を思うと……」

「大丈夫よ。それに原稿の締め切りが間もないの」

「……」

 不承不承、メイドはその場を立ち去りかけた。

「待って」

 呼び止めるマリーにメイドが振り返る。

「はい」

「気が変わったわ。原稿、実はもうすぐ終わるのよ」

「左様ですか! では――」

「だから、少し話さない? そこにかけて」

 マリーは書斎に向かい合わせになった革張りのソファを指した。

「お嬢様……あの、私は」

「遠慮しないで、どうか隣に座ってほしいの」

 メイドはひどく困惑している。マリーが座って再度促すまで、自分からは決して腰かけようとしなかった。

「お嬢様、恐れ多いですわ……」

「そんな風に思わないで。わたし、あなたにとても恩を感じているのよ」

 メイドがおそるおそる腰かけると、マリーは彼女の震える手に手をそっと重ねた。

「こうしてきちんとお話できる機会をずっと窺っていたわ。でも、環境がめまぐるしく変わっていくものだから、つい後回しにしてしまったの。許してくれる?」

「ゆ、許すなどと」メイドはぶんぶん首を振る。「滅相もございません」

「自分でお金を稼げるようにならなければ、あなたに恩を返せないと思っていたの。お父さまとお母さま、そしてお姉さまがこの屋敷を離れて、研究所近くに移り住まれたでしょう。女中たちのほとんどがあちらに行ってしまって、あなたには苦労をかけてしまったわ」

「いいえ。私はお嬢様に一生お仕えすると決めておりましたので、本望でございます」

「ありがとう。あなたは、本当に……」

 マリーの目頭が熱を帯びる。それを振り切るように首を振ってから、改めて手を握り直した。

「昨年、わたしの書いた物語が受賞されたでしょう。実はね、あれから出版社を三つ掛け持ちすることになったの」

「なんと……! それは、おめでとうございます」

「だからこれからは、あなたに不自由をかけないようにするつもりよ。もう少し女中を雇って……それから、あなたをメイド長にしようと思っているわ」

「まあそれは――ええっ?」

 素っ頓狂な声をあげてのけぞるメイド。

「め、メイド長……そんな……私が? つ、務まりません!」

「大丈夫よ。以前のような大規模な屋敷の経営をするわけではないし、これまでと変わらず私の身の回りの世話をしてくれればいいの」

 言葉を失うメイドに、マリーはぐいと身を詰める。

「やっとあなたのお給金を上げられるようになったのだから、受け入れてもらわなければ困るわ」

 メイドは唇を半開きにして目を何度も瞬かせていたが、やがて躊躇いがちに声を発した。

「お嬢様……なんと、なんと申し上げればいいか……」

「何もいらないわ。何も。あなたはわたしの、唯一の味方だったから」

 幼い頃からマリーが困っていると必ず手助けしてくれた。何度も危うい一線を越えてくれたのだ。

「それなのに、わたしはつまらない意地を張って……あなたの名前を知ることさえ躊躇っていたの」

「まあ、そんな、名前など」

「大切なことなの。わたしの中であなたを特別なものにしてしまったら、いずれ母や姉に知られて首を切られていたかもしれないもの。でも、もうそんなの関係ないわ。ずいぶん遅くなってしまったけれど……あなたの名前をきかせてくれないかしら」

「私の名は……」メイドがごくりと唾を呑む。

「私は、エミリアと申します。お嬢様」

「エミリア……」マリーは小さく繰り返す。「そう、エミリアというのね。とても綺麗で上品な名前だわ。これからは、エミリアと呼んでもいいかしら」

「もちろんでございます!」

 メイドのエミリアは感極まるあまり、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

「なんという僥倖でしょう……お嬢様が、私の名前を呼んでくださるなんて!」

「エミリア」

 マリーは慌ててハンカチを取り出し、彼女の目元を拭った。

「これから先もずっと、私と共に歩んでくれるかしら?」

「う……お嬢様……」エミリアはぐずぐずと鼻を鳴らしながらこくこくうなずいた。

「はい、いかなる時も、私はお嬢様のお傍で永遠にお仕えさせていただきます」

「ありがとう……」

 それからマリーはエミリアが泣き止むのを待って、感謝と労りを込めて肩を撫でた。彼女を部屋から送り出すのには苦労した。お嬢様が眠りにつくまで私も起きています、と言って聞かなかったからだ。

 原稿をもう少し片づけるからと優しく送り出してから、マリーは書斎にひとりになった。ふと目をやると、閉めたはずの窓が開いている。生温かい風が再び部屋に吹きつけていた。

「冷気を気にしてくれたの?」

 書斎の静寂に向かって声を投げかける。

「エミリアなら、きっと……受け入れられると思うけれど」

 すると、机の上に置いていたタイプライターが独りでに動き出し、カチャカチャと文字を打ち始めた。

〝以前、彼女は私の放つ冷気に怯えていました〟

「そうだったわね」

 くす、と笑って、マリーは椅子に腰掛けた。彼がタイプしやすいように少し空間を空けて。

「じゃあ、さっきのお話も……?」

〝すべて、きかせていただきました〟

「立ち聞きしていたの?」

 すると少し慌てたようにキーボードががしゃがしゃとせわしなく動く。

〝私は今や、屋敷全体に取り憑いているようなものです。特に深夜となれば、どこで何が起こっているのか、手に取るようにわかってしまいますから〟

「ごめんなさい、わかっているわ」

 姿は見えないが、内気な彼の動揺が透けて見えるようだった。

「でも、本当にここに残ってよかったの? せっかく闇の中から抜け出せて、自由になれたのに……」

 ――ジャンヌの元へ、いけるのに。

 その言葉を続けるには胸の痛みが強すぎて、咄嗟に言葉を濁してしまった。

 キーボードが再び動き出す。

〝そのことですが、おそらく〟

 そこまで打ちかけて、ぴたりと止まる。そうして、言い直すようにすぐ下へ文字が打ち出されていった。

〝確かなことは言えませんが、推測はしています〟

「推測?」

〝ですが、もう少し時間をください。といっても、あまりお待たせするのも心苦しいので、例えば明日、あなたが午後の用事をお済ましになって屋敷に戻られた夜にでも、お話いたしましょう〟

「わかったわ」

 承諾しつつ、訝しげに首を傾ける。

「そんなに言いにくいことなのね……?」

 タイプライターは答えない。

 マリーは机上を軽く片付けて書斎を出た。燭台を片手に廊下を真っ直ぐ突き進む。その角にある古びた扉を開いた。

 幼い頃から使い続けている物置部屋は、家具を新調し、清潔な寝室として未だ使い続けていた。エミリアには「もっと綺麗なお部屋を」と咎められたが、眠るにはやはり長年過ごしてきた部屋が最適だと思い至ったのだ。

 夜着に着替え、ベッドに潜り込んで瞼を閉じる。やがて、狭い物置部屋に遠慮がちな冷気が満ちてくる。だが、彼は以前のように抱き包んではくれない。ただ静かに傍にいる。きっと、夜が明けるまでそこにいる。

 背中が寂しい。

 マリーはごそごそと寝返りを打ち、胎児のようにまるくなって眠りについた。夢の中に落ちゆく直前まで、見えない彼のことを考えていた。

 ――本当になぜ、あなたはここにいてくれるのだろう。


 翌朝、マリーは昼すぎに到着した馬車に乗って街へ出かけた。ついていくとエミリアは言い張ったが、あれこれ言葉を尽くして留守番をしてもらっている。この用事は自分だけが行かなければ意味が無いのだ。

 馬車は街に入り、館が狭苦しく建ち並ぶ通りを抜けていった。道中、母と姉が使っていたタウンハウスを見かけたが、売り家になっていた。父がマリーのために残そうと提案してくれたが、使うことはないからと断ったのを思い出す。

 自分には、あの屋敷があればそれでいい。

「到着いたしましたよ」

 馬車が停車し、マリーは御者の手をとり外へ降り立った。

「ありがとう」

 そのまま、目の前のカフェの中へ入っていく。からんからん、と軽やかな鈴の音が鳴り、戸口に立ってアンティーク調の内装の全貌をぐるりと見渡した。

 ――まだ来ていないのね。

 一番隅の席が空いていたので腰掛ける。

「コーヒーを」

 店員に告げて、座席でひとり、待つ。

 目的の人物は間もなくしてやってきた。ガラス戸を開けて踏み込んできた瞬間に、マリーにはわかった。

 緩く波打つブルネットの髪、淡いブルーの瞳。少し古びたドレスを着ており酷くくたびれた顔つきだが、間違いない。夢で見たクレメント家の次女、アネットの面影を色濃く残している。

 マリーはすっと立ち上がり、その女性に見えるように一歩踏み出した。

 女性が顔を上げる。マリーの姿を一目見た途端、両手で口元を押さえた。

「……そんな」

 空色の瞳が驚愕に震えている。

「まさか――」

「とにかく、こちらにいらしてください」

 言葉を失い立ち尽くしている女性に向かって、マリーは促した。

「お母さま」

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