第三十一話 血の縁
「本当に、マリーなのね……?」
席に着いても、女性はまだ呆然としている。
「はい」
マリー自身、どんな顔をしていいのか、わからなかった。
この母のそばにいたのは一、二歳頃のことである。父のことすらろくに覚えていなかったのに、不義が明るみになるや否や姿を消した母など赤の他人同然だ。だがそうとも言い切れないのは、やはり彼女の容姿のせいであろう。
「お母さま、とお呼びしていいのか、わかりませんが――」
「母と、呼んでくれるの?」
女性の目尻が赤く染まる。
「この私を、まだ……」
「そう呼ぶ以外にありませんから」
そうね、そうよね、と母は涙ぐみながらうなずいた。
「驚いたわ。あの人から突然手紙が来て、会いたいなんて言うから、一体なにごとかと……まさか、あなたが待っていたなんて」
「騙すようなことをしてごめんなさい。わたしと会ってほしいと正直に書いても、来てくださらないと思ったのです」
マリーは一旦言葉を切り、店員を呼んだ。
「お母さま、コーヒーか、紅茶か……」
「紅茶をください」
間もなく運ばれてきた紅茶のカップに、母はおそるおそる触れ、ゆっくりと口へ運んだ。
「美味しい……温かいわ」
そこでマリーは改めて気がついた。母の両手はあかぎれや小さな切り傷だらけでぼろぼろに荒れている。
「お母さまは今、いったい何を……?」
「さる地主の方のお屋敷で雇っていただいているの。洗濯女中として」
母は儚げな微笑を浮かべる。
「あなたのお父さまの元を離れてから……いいえ、この話をする前に、もっとお話すべきことがあるわね……」
「そのことですが、お母さま」
マリーは半分に減ったカップを置き、背筋を正した。
「どうしても知りたいことがあります。今日はそのためにお呼びしたと言っても過言ではありません」
母もまた、唇を引き結ぶ。不安げな眼差しを向けて。
「何かしら……?」
「お母さまのお母さま……つまりわたしのお婆さまに当たる方は、もしかして、クレメント家の子女ではと……」
「まあ」
母は淡いブルーの目を見開いた。
「どこで聞いたの? その通りよ。確か三人姉妹でね……」
「やっぱり、そうなのですね」
心臓が高鳴る。脳裏に、かつて見た夢の幻が瞬時に浮かんでは消えていく。
「わたしの容姿はお婆さまの妹、ジャンヌにそっくりなのだと聞きました。まったく関係のない家系の人とそれほどまでに似るだなんて、滅多にありえることではありませんから、おかしいと思い調べさせていただいたのです」
マルグリットやカトリーヌとの縁はほぼ切れたと言っていいが、父との縁はまだ続いていた。時折手紙を交わす中で、自分の本当の母の家系について詳しく調べてもらったのだ。
「今日、お母さまに会って確信に変わりました。アネットによく似ていらっしゃいますから」
「どうしてわかるの? お母さまはもう亡くなっているのに、」
仰天する母を前に、マリーは慌てて付け加える。
「ええと、今住んでいるのが元クレメント家のお屋敷で、管理人から当時の写真を見せていただいたので……」
「まあ、そうなの」
母は遠くを見るような目つきをした。また目尻に涙が溜まっている。
「すごい偶然もあったものね……」
「今日はお母さまの口から、その真実をお聞きしたかったのです」
マリーはカップを一飲みし、ソーサーに置いた。
「それだけのためにお呼びして、ごめんなさい」
「いいえ」
母はゆるゆると首を振る。マリーがどれだけ目を逸らしても、彼女は無限の情を湛えた目で娘を見つめていた。
「あなたに会えただけでも、とても、嬉しかったから……」
母は感極まったようにハンカチを取り出し、目を覆ってしまった。
「私はあなたの母親を名乗る資格もないわ。あの人はもう結婚をしてしまったのに、未練がましく縋り付いて……その関係が知られてしまったとき、母子共々追い出されては野垂れ死んでしまうと思って、あなたを残して逃げてしまったの……」
「もう、いいです。確かにつらい目に遭いましたし、死んでしまいたいと思うこともありましたが、結果的には、今こうして幸せに暮らしています。山も谷も極端に大きな人生だというだけなんです」
慰めるでも責めるでもない言葉だったが、母には大きく響いたらしく、一層激しく涙を流し始めてしまった。こうして見ていると、まるであの優しいアネットが泣いているように思えて、マリーの胸がずきりと痛む。
「ありがとう、マリー……」
母は嗚咽混じりにそう呟いた。
カフェを出るとき、母の手がマリーの鞄にねじこまれた。
「なにを――」
慌てて手を突っ込み、くしゃくしゃになった紙幣を三枚掴み取る。
「何もしてあげられなかったから、せめて……」
「いりません、お母さま」
マリーは紙幣を母の手に押しつける。
「わたし、今本を出版しているのです。あのお屋敷に住んで使用人を少し雇えるくらいにはお金をいただいますから」
「そうだったの」
母は目を瞬き、嬉しそうにはにかんだ。
「なんてこと……私の娘が、作家だなんて」
「だから、もう何も心配なさらないで。お母さまはお母さまの生活を大切にしてください」
「ねえ、マリー……また、会えるかしら」
マリーは母の眼を見た。いかにもかよわい女性といった雰囲気を纏う母。儚げで、痩せ気味で、古くさいドレスを着た母……
――もう二度と会うつもりはありません。
そう言いかけた言葉は寸前で打ち消えてしまった。
「近々、長編の物語が出版されます」
馬車が近づいている。マリーの呼んだ馬車が来る。
「もし良かったら……」
「買うわ」母は力強く言った。「きっと一番に買うわ。お金を少し貯めているから――」
「お父さまにお願いして送っていただきます」
目の前で馬車が停車した。御者が降り立ち、扉を開けてくれる。
「本ができたら、その都度すべて送りますから」
――だからどうか、お元気で。
馬車の戸が閉まる。馬の背が打たれ、軽快な蹄の音が鳴りだす。
マリーは鞄を胸に抱いたまま、一度も窓の外を振り返らなかった。
母はその場に佇み、遠ざかっていく馬車の後ろを見つめていた。いつまでも、いつまでも――その姿が完全に消えるまで。
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