第二十九話 収束

 マルグリットの父は大商人であり、資産家であり、王家や大貴族との繋がりを多数持っている。彼は自分の事業を広げるため、あらゆる方面とパイプを繋ぐことに努めていた。そのためなら家族でさえも容赦なく使う、そういう人物であると界隈で有名であったのだ。

 ベルナール自身は国家の抱える有数の研究者であるが、それに伴う地位や名声には少しも興味がなかった。自分が名の知れた存在であることにも気がついてはいなかった。

「私には婚約者がいたんだ。いや、婚約の儀を正式にあげたわけではなかったが……そこに目を付けた義父は、私の周囲を強引に固めはじめた。気がつけば私は身動きの取れない立場にいて、マルグリットと結婚せざるを得なくなってしまったんだ」

「なんですって、じゃあ……あなたは、お母様に愛なんてなかったと言いたいの?」

 カトリーヌの非難に彼はうなだれる。否定も肯定もないことに彼女は余計に腹を立てた。

「その、婚約者が、あなたの不倫の相手なのね?」

「そこまで知っているのか。――そうだ、私は義父に丸め込まれマルグリットと結婚したあとも、元婚約者であった助手のことを諦めきれなかった」

 この結婚に愛などない。マルグリットも同じ思いだろうと考えていた。彼女も高名な科学者の妻としての地位を望んでいただけなのだろうと。だから夫としての最低限の務めを果たしてカトリーヌを設けた後は、屋敷に全く顔を出さぬようになっていた。

 たまに用事で帰宅すると、マルグリットから「どうして帰らないのか」と詰め寄られる。愛などないくせに夫の不在には文句を言う妻にますます嫌気が差し、助手との不義にずるずると引き込まれていった。助手もまた、研究所に誰もいなくなるとベルナールと二人きりですごしたがった。そうする間にマリーが産まれてしまったのだ。

「最低、最低だわ!」

 カトリーヌは不潔なものから逃げるようにソファの端に身体を寄せた。

「本当に酷い……お母様は、あなたを愛しているからとても悲しんでいたのに! そんなこともわからないなんて、人非人……!」

 言ってしまってから、はっと硬直し、わずかに口元を歪めて眼を逸らした。

「……言い過ぎたわ」

「いや、言ってくれ」ベルナールは髪をかきむしった。「人非人……私に相応しい言葉だ。愚かだった……妻も、助手も、産まれた娘も……皆を不幸にするだけだった」

 静まり返った玄関ホールで、柱時計の刻む音だけが無機質に響いていた。気を遣ってか、女中たちは誰一人姿を現さない。

「それで、この手紙なのね」

 ようやく、カトリーヌが静寂を破った。鞄から白い封筒を取り出す。

「そうだ。あろうことか、あのマリーから私に知らせてくれたのだ。妻の容態と、そして、彼女が抱いていた私への気持ちについて」

「馬鹿な子。本当に理解できないわ」

 指先で封筒がくしゃりと皺をつくる。

「自分がどんな目に遭っているのか父親に告げ口させないために、あたしたちはあの子が手紙を書くのを禁じていたのよ。屋敷に誰もいない今がその好機だったのに――」

「そんなことは一言も書かれていない。ただ、マルグリットが心を病んだ、どうか会いに行ってほしいと――彼女の心の病は私への愛故であると――そう、書かれていただけだ」

「あたし……あたし……」

 カトリーヌの膝から鞄が滑り落ちた。開いた口からオイル缶とマッチ箱が滑り出る。

「お父様が来なかったら……あの屋敷を……」

 今朝抱いていた物凄まじい気持ちを思いだし、全身に戦慄が走った。それほどまでに追い詰められていた自分が恐ろしかった。

「思いとどまってくれたんだな」

 父は、震える娘の肩にそっと手を置いた。

「すまなかった……長い間、おまえたちには本当につらい思いをさせてしまった。すべての非は私にある」

 ぽた、ぽた。カトリーヌの膝の上に握られた拳に、涙が滴り落ちていく。

「遅いわ……本当に、遅いわ……」

「すまなかった」

 父はただ、謝罪の言葉を繰り返す。

「もう遅いことはわかっているが、今からでも……おまえたちのために、できる限りのことをさせてくれないか」

 嗚咽を漏らしながらカトリーヌが顔を上げる。父と娘、赤茶けた二対の瞳が交錯し、やがて娘は微かにうなずいた。

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