第二十八話 再会

 早朝、カトリーヌは暗い顔つきで寝室の窓の外を眺めていた。仄暗い灰色の空と、沈んだ町並み。今日も午後から母との面会が予定されている。

 物心ついたときから母はいつも泣いていた。情緒が不安定になるたび、異母妹に暴力を振るっていた。その理由を悟ったとき、カトリーヌもまた、マリーをひどく憎んだ。母の苦しみの原因は父にあるはずなのに、遠くにいる父よりも、同じ屋根の下で母を苦しめているマリーが憎くて仕方がなかったのだ。

 母の容体は日に日に悪化している。いない父がそこにいるかのように振る舞い、香水を大量に浴びたつもりになって冷水を被り熱を出したり、若い看護婦をマリーと混同して暴れたりして手がつけられない状態にあるのだ。もう、カトリーヌの声さえも母には届かぬようだった。

 カトリーヌはスカートの上から太股を撫でた。今は隠されているが思い切り痣になっている。昨日母に何度も蹴られたところだ。

 穢らわしい、卑しい娘――私の家から出て行け、出て行け!

 今でもその聲が耳に残り、カトリーヌの胸を苦しめる。触れてもいないのに脚の痣が痛んだ。もう、限界だ――暗闇の中に埋没してしまいそうなほどの絶望が胸中を覆っている。

 鞄にオイルとマッチ箱を詰めている。あとは馬車の到着を待つだけだ。何もかも無くしてしまいたかった。母はもう戻らないのだから、せめてつらい記憶の拠り所だけは消し去ってしまいたい。忌まわしい妹と共にあの屋敷を葬り去れるのは他の誰でもない、この私だ……

 玄関の呼び鈴が鳴った。馬車が来たのだ。約束の時間よりも少し早いが都合が良い。できるだけ早く終わらせて母の元へ急ごう……カトリーヌは鞄を手に階段を降りていく。

 ちょうど家女中が玄関で応対をしているところだった。しかしどうも様子がおかしい。あたふたしていて、見知った御者に対するそれではない。

「どうしたの」

 階段を降りてまっすぐに玄関へ向かう。すると外にいた者が女中たちを押しのけるようにして中に顔を覗かせた。

 カトリーヌの足がぴたりと止まる。薄汚れた白衣を着た見知らぬ男の姿に、不審な目を向けた。

「だ、だれ――」

「……カトリーヌ」彼は濃い隈を持つ目をこちらに向け、躊躇うように口にした。

「カトリーヌ、だな」

「……え」

 カトリーヌはもう一度改めて男の全身を見やる。伸びた黒髪を無造作にまとめ、ところどころ染みのついた白衣を着て、「カトリーヌ」と呼ぶ男。なぜ名を知られているのか、頭の中でじわじわと一つの可能性にたどり着く。

「そんな、まさか」

 思わず一歩、後ずさる。

「だって……今更、本当に今更……」

「そうだ、今更だ」

 男は更に女中を押しのけ、とうとう玄関に踏み込んだ。うなだれるように目を伏せて。

「私は……おまえの父だ」

 開いた口が塞がらなかった。鞄が手から滑り落ち、中のオイル缶が鈍い音を立てる。

「マルグリットの――おまえの母の元へ、案内してくれないか」

「いやよ」

 カトリーヌは鞄をひっつかみ、更に奥へ下がった。

「今更、どういうつもりでお母様に会いに来たの? 長い間お母様がいったいどんな思いで過ごしていたのか、そのせいでどんな状態になっているのか、何も知らないくせに!」

「そうだ。私は何も知らない」ベルナールは唸るように言った。

「知ろうともしなかった……私は愚かな男だ。おまえの父を名乗る資格もない」

「おっしゃる通りよ! あたしのお父様はどこにもいないのよ! 初めからいないの!」

 カトリーヌはベルナールに指先をつきつけた。

「あなたたち、何をぼうっとしているの? 今すぐその人を追い出して!」

「し、しかし――」

 女中たちはまごつき、こわごわとベルナールの方を見るばかり。それもそのはずだった。屋敷には一度も顔を見せなかったが、彼は曲がりなりにもこの一家の主人なのである。それはカトリーヌも重々承知していた。

「……もう、いい」

 カトリーヌは肩を落とし、玄関で立ち尽くしている男に向き直った。

「もうじき、馬車が来るわ」

 そう口にする間にも、遠くから軽快な馬の蹄の音が響いてくるのが聞こえていた。

「お母様が今どういう状態なのか、直接ご覧になるといいわ。ご自分の罪と共にね」

 馬車の中で父娘は互いに押し黙ったまま一言も交わさなかった。カトリーヌは鞄を胸に強く抱き、固い表情で靴の先を見つめていた。

 鞄の中のオイルとマッチ箱……使うタイミングがずれてしまった。だが今はいい。事態が思わぬ方向へ動こうとしている、そんな予感がするからだ。思い描くような展開が訪れなければ迷わず屋敷に赴き、庭園に火を放てばいいだけだ。

 間もなく町はずれの病院へ到着し、カトリーヌは勝手知ったる道を黙々と歩いていった。

 病院の地下に続く陰鬱な空間を見回しながらベルナール表情を硬くする。

「……ひどい空気だ」

 カトリーヌは動じない。廊下のあちこちから聞こえてくるうめき声や獣のような叫び声には、もう慣れっこになっていた。

「こちらです」

 目の前を歩いていたナースが二人に告げる。

「扉をお開けしますが……」

 躊躇うようにベルナールの方を一瞥する。病棟に案内される前、医者は終始渋面であった。精神異常の原因の一端である夫との面会など危険でしかないからだ。だが一縷の望みもあった。手の施しようのない患者に少しでも変化が見られる可能性があるなら……と、苦渋の決断を下してくれたのだ。

「よろしいですか、まず、戸口にお立ちになって」

 ナースが身振り手振りで説明する。

「決して、不用意にはお近づきにならないでください。患者が気がついてもお声はかけないで、優しい表情で……」

 ベルナールが黙ってうなずくのを確認すると、ナースは一瞬の間を置いて取っ手に手をかけた。

「マルグリットさん――」

 扉の向こうには殺風景な部屋が広がっていた。母の財を惜しみなく使い個室を取ったはいいものの、とにかく暴れるせいで必要最低限のものしか置かれていない。

 マルグリットは窓際の揺り椅子に座り、両手をだらんとさせてあらぬ方向を見つめていた。ナースがゆっくりと近寄って、椅子の前に腰をかがめる。

「お加減はいかがですか? お水は呑まれましたか?」

 彼女が虚ろな目でナースを見上げる。だが次の瞬間、彼女の足はナースの下腹部を思いきり蹴り上げていた。

「消えて!」

 火のような息づかいで立ち上がり、転んだナースの身体を蹴り続ける。やがて馬乗りになり殴りつけながら自身も悲鳴を上げ始めた。その眼にどんな恐ろしいものが映っているのか、怯えたように顔をひきつらせている。

「もういやあああ! 消えて! 消えてよ! 私の前から全部! 全部!」

「マルグリットさん、落ち着いてください! 落ちつい――」

「返してよ! あの人を返して! 私の夫を返してええ!」

 艶のない金髪は乱れに乱れ、目は血走り、かつての美貌は見る影もない。

「おまえのせいで、あの人は……あの人は!」

 カトリーヌの横を薄汚れた白衣が風のように通りぬけた。ベルナールは暴れるマルグリットの手首を掴み、ナースから引き離す。

「やめて! はなして!」

 じたばた暴れる彼女の両手を掴んだまま、共に絨毯の上に膝をつく。

「マルグリット」

 彼女の血走った眼を見下ろしながら、彼は低く呟いた。

「すまなかった」

 ナースも、カトリーヌも息を呑んだ。

 マルグリットは落ちくぼんだ眼を眼前の男に向けていた。瞳が震える。肩が戦慄く。

 男の正体を察したのだろうか、彼女の憔悴しきった精神はその衝撃に耐えられなかったようだ。マルグリットの身体は糸の切れた人形のようにぐたりと脱力し、前のめりに倒れ込む。

 妻の肩を胸に抱きながら、彼は隅で怯えるナースに向かって頭を下げた。

「すみません。言いつけを破ってしまいました」

「――い、いえ」

 ナースはゆっくりと立ち上がり、腰や肩を摩りながら疲れたような微笑を浮かべた。

「医師を呼んで参ります」

 駆けつけた医者は患者の急な変化を聞くと興味深げに顎をさすり、「次はいつ来られますか?」とベルナールに訊ねた。彼は手帳も見ずに「いつでも」と答える。

「もう少しだけ、ここにいさせてもらえませんか」

 ベルナールの希望は承諾された。何かあったら呼び鈴を、と言って、医者とナースは部屋を立ち去る。残されたのは彼と妻、そしてカトリーヌだけであった。

 マルグリットはベッドの上で深く眠っている。その寝顔をベルナールは無言で見守っていた。カトリーヌはずっと押し黙っていたが、やがて堪えきれなくなったように「ねえ」と切り出した。

「本当に、どうして今更……会いに来ようと思ったの」

 ベルナールは小さく息をつき、膝の上に組んだ指を見下ろしたまま答えた。

「マリーから、手紙をもらったんだ」

「なんですって、手紙? あの子から? そんなこと、許した覚えはないわ!」

 言ってしまってから、カトリーヌははっと口を噤む。

 ベルナールは白衣の内ポケットに手をつっこみ、簡素な白い封筒を取り出してカトリーヌに手渡した。

「すべてここに、記されてあった。私の犯した重大な罪について」

 おそるおそる封筒を手に取り、中の紙を取り出す。「何よこの紙、みっともない……」などとぶつくさ呟きながら開き、びっしりと並んだ青黒いインクに目を瞬かせた。

「なに、これ」

 その時だった。ベッドの方で小さく呻く声がして、毛布がもぞりと動いた。二人とも弾かれたように目を上げる。マルグリットが目をぱちりと開いてこちらを見つめていた。

「あら……」

 頬は土気色でひどくやつれているが、すっかり毒気の抜け落ちたような顔をしている。

「あなた、どうしたの? 早いお帰りなのね」

 父と娘は一瞬、顔を見合わせた。様子がおかしい。

「まあカトリーヌまで……どうしてしまったのかしら、私、こんな昼間に眠っていただなんて」

「君は……」ベルナールは困惑気味に口を開く。

「何も、覚えていないのか?」

「覚えて? 何のことかしら」

「……カトリーヌ」

 ベルナールは隣で震えている娘に告げた。

「医者を呼んでくれないか」

 カトリーヌは急いで立ち上がり、壁のベルを鳴らした。ほどなくして医者が駆けつけ、患者の容態を見るやいなや穏やかな笑みを浮かべた。

「おやマルグリットさん、お目覚めになったのですね。実は階段から落ちてしまわれましてな、少々記憶に混濁が見られるようです」

「まあ……階段から?」

 彼女の瞳は夢見がちに潤んでいた。

「そう……それで、長い間夢を見ているみたいだったのね」

「夢を、みたのかい」

 掠れた声で問う夫に、彼女はゆっくりとうなずいた。

「ええ……とても恐ろしい夢だったの。あなたが家から去って、二度と会えなくなってしまう、そんな夢……」

 言いながらマルグリットの身体は震えだした。毛布を掴む手の指先が白く染まっていく。

「ねえ、違うわよね? あれは夢なのよね? ねえ?」

「……マルグリット、君は」ベルナールは、毛布を掴む彼女の手を優しく握った。

「君は……私を愛していたんだな」

「もちろんよ。当然じゃない。私、あなたを一目見たときから、ずっと……」

 ベルナールは聞き取れぬほど小さな声で「そうだったのか」と呟いた。そして改めて妻の細い手首を握りなおす。

「悪い夢は、もう見なくていい……。そうだ、怪我をした君のために新居を用意しよう。それまで病院で待っていてくれないか」

「ええ」彼女は少女のような笑みを浮かべた。「ずっと待っているわ。ああ、でも、会いたいわ。会いにいらしてね。カトリーヌもよ、私、寂しくて死んでしまうわ」

 やがて面会の時間は終わり、ベルナールとカトリーヌは病院を出た。帰りの馬車の中ではやはり互いに無言であったが、タウンハウスに着くと、カトリーヌは玄関ホールのソファに父を座らせた。

「話して」

 少し距離を空けて自分も座りながら告げる。

「全部、話して。あたしが納得しなければ、もうお母様に会わせないわ」

 女中がコーヒーを持ってきた。カップを受け取りながらベルナールは低く嘆息する。

「どこから、話せばいいだろうか……いや、本当に全部だな。おまえももう成人だ、知る権利はある……」

 黒い水面に映る、くたびれた自分の顔を見下ろしながら彼は語り出した。

「私とマルグリットの出会いは知っているか」

「少しだけなら。確か、お母様の一目惚れなんでしょう」

「彼女から聞いたのか」

「そうよ」

「そうか……」

 彼はコーヒーをわずかに口に含んだ。

「私は、それを知らなかった」

「……は?」

「それどころか、そう、すべては彼女の父が仕組んだ政略的な罠だと思っていたんだ」

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