第二十七話 記念写真 二
「お嬢様」の日に日に大人びていく姿はこの魂を容赦なく刺激する。だが一番胸を強く射抜いたのは、あの夜、隣の部屋で彼女が青いドレスに着替えた瞬間だった。
壁に開いた穴……覆い隠すように置かれた棚をすり抜け、かつての「特等席」から彼女の姿を覗き見たときの衝撃は今でも魂に焼きついている。滴るような月光を浴びてドレスの裾をはためかせ、くるくる踊る「お嬢様」の姿に、燻っていた魂が重大な記憶の欠片を取り戻したのだ。
「あの瞬間から、私の中であなたとお嬢様の存在が混同していました。しかし欲望に走る私を外から窘める冷静な意識もありました。彼女はお嬢様ではないと押しとどめる声が……」
自身はその声を無視したつもりだったが、完全に締め出すことなどできなかった。彼女に強引に触れようとするたび、それを戒めようとする自分がいた。
「判らないようでいて……心の底ではあなたを認識していたのです。ただ傍にいて、流れる涙を受け止めたいと願っていたのです」
手首を握る彼の手が一層強くなる。
「あなたには感謝してもしきれません。私の心が醜い意識に染まりきる前に、こうして掬い上げてくださったのですから」
マリーは彼の瞳から目を逸らせなかった。膝を付いた格好のまま、いつまでも唇を半開きにしていた。
「……わたしは、なにも」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
「ただ、あなたの記憶……いえ、屋敷の記憶を夢で見ているうちに、いつの間にかここにいて、あなたを見つけたから声をかけた、それだけよ」
「あなたは私に関する夢を全て記録しておられました」
「もしかして、読んだの?」
「勝手ながら、読ませていただきました」彼は少々ばつの悪そうな顔をした。「私の魂から抜け落ちていた大切な記憶が、すべてそこにありました……読んでいくうちに気がつけばここにいて、そして……」
今、彼の胸には一枚の写真が蘇っていた。白黒に滲んだ、クレメント家の集合写真。主人一家だけでなく、当時の使用人たちまで全員入った記念写真。
その日は主人シルヴァンの誕生パーティが行われていた。その最中、末娘のジャンヌが言ったのだ。
――ねえ、お父さまの書斎にカメラがあったでしょう? せっかくだから、みんなで撮影しましょうよ。
ジルヴェールは執事に命じられ、書斎からカメラを取ってきてそのまま撮影にかかった。シルヴァンは遠慮する使用人たちを半ば強引に集め、ジルヴェールにも入るよう勧めたが、彼は首を横に振った。
――いいえ、旦那様。誰かが撮影しなければなりませんから。
しかしジルヴェール自身に写真撮影の技能はなく、何度も取り直す羽目になった。そうしてなんとか成功したのが、あのフィルムなのだ。
「旦那様のことも、奥様のことも、お嬢様の姉君さまのことも、使用人たちのことも……あなたの記録を目にしてようやく取り戻すことができたのです。あなたには、感謝しかありません……本当に」
いつの間にか、ジルヴェールの全身を淡い光が取り巻いているのにマリーは気がついた。彼は自責の念に苛まれた哀れな亡霊であった。もしそれが晴れたのなら、彼は――
「ジル!」
マリーは咄嗟に彼の身体にしがみつく。たちまち全身が冷水を浴びたようにひりついたが、構わなかった。
やっとこうして触れられたのに。姿の見えない霊体ではなく、紛れもない彼自身に触れ、言葉を交わすことができているのに。
「マリー……」
彼の冷たい大きな手に、頬を包み込まれる。
「ありがとう」
ジルヴェール。粗末なシャツの下に鞭の痕を幾つも抱えた幼い姿も、庭師の後ろについて歩く姿も……手の届かぬ令嬢に魂を奪われ、必死に愛した哀れな姿も、何もかもが、愛しかった。
マリーは彼の輝く白髪に両手を埋め、身を乗り出した。戸惑う彼の唇に自分の唇を押し当てる。
「これで、おあいこ……でしょう」
ジルヴェールは指先で確かめるように自らの唇に触れ、それから、困ったように相好を崩した。初めて見る、彼の笑顔だった。
***
「お嬢様、お嬢様っ」
激しく揺さぶられ、ようやく目を開ける。マリーの視界に飛び込んできたのはあの若いメイドの蒼白な顔と、明るい天井であった。
「ああよかった、ようやくお気づきになったのですね」
メイドは大げさに胸を撫で下ろし、ほう、とため息をついた。
「もう、朝から驚きましたよ。部屋中が猛烈な寒さで……まるで吹雪いているのかのようなひどい凍てつきようでして。しかもお嬢様のお体までもが氷のように冷たく、脈も薄く、私、もうどうなることかと……」
「あ、ありがとう」
マリーはまだぼんやりしつつも、メイドに向かってほほえみかけた。
「起こしてくれて、助かったわ」
「ええ、ええ、もう、本当にようございました……ご気分がよろしければ、洗顔の方を」
メイドに手伝われて顔を洗っている最中も、マリーは心ここにあらずといった様子であった。気がつけばあの白髪の従僕の姿を思い描いてしまうのだ。
彼は、いなくなってしまったのだろうか。
メイドが換気してしまったせいで部屋に残っていた冷気はきれいさっぱり消えてしまった。もうじきやってくる真冬の外気の寒さは多少あるが、あの冷気とは似ても似つかない。
怪我が完治していないため、マリーはまだベッドから出られずにいた。メイドに言って物置部屋からペンと紙を数枚とってきてもらい、「夢の記録」の束を下敷きにして新たに書き加えていった。最後に見た夢の光景を。
事の詳細を書き、残された夫人の憐れな顛末と次女アネットのことを書き記してから、マリーは唐突にペンを置いた。
シャルロット夫人とアネット。この二人の光景が、自然ともう二人の姿と重なって見えたのだ。
現在、母マルグリットも精神を病み、病棟に収容されている。そして姉のカトリーヌはタウンハウスに滞在し、懸命に看病に通っているという。まさに夫人と次女の顛末そのものではないか。
マルグリットが精神を病んだ原因はマリーの存在にある。かつては母の理不尽な暴力やカトリーヌの心ない仕打ちをどれほど恨んだことだろう。――だがよくよく考えれば、父が彼女らを、この家自体を顧みていれば、このような悲劇は訪れなかったはずなのだ。
マリーは新しい用紙を取り出し、ペンを向けた。
『親愛なるお父さま』
幼い頃に連れ出されて以来一度も顔を見ていない父に、「親愛」と綴るのは少々違和感があったが、手紙など書いたことのないマリーはこれ以外の書き出しを知らなかった。
青黒いインクで用紙一面がびっしりと埋まるほどに思いを綴り、封をして、あの若いメイドを呼びつける。
「あの……本当はこんなこと、許されてはいないんだけど……」
おそるおそる、口にしてみる。
「お手紙を出したいの。やっぱり、いけないかしら? いくらお母さまがいらっしゃらないからって」
「いいえ、お嬢様」
メイドはマリーの手紙を丁重に受け取ると、力強くうなずいてくれた。
「お嬢様もこのご一家の一員でいらっしゃるのですよ。いけないはずございません!」
彼女は、母や姉に知られないようにこっそりと郵便を出してくれることを約束してくれた。
屋敷から遠く離れた研究所で、ベルナール・フィーメルは玄関の扉を開けた。
「郵便です。新聞が二件、それから、封書が一件ですね。送付元は――」
ベルナールは扉を閉めると新聞の束をその辺に放っておいて、手の中の白い封筒を見つめた。青黒いインクで書かれたベルナールの名と屋敷の住所。整然と並んだ控えめな文字は、記憶にある妻のものでもその娘のものでもなかった。
焦れったいほど長い間、彼は躊躇っていた。それほど、あの屋敷に住む母娘のことが彼の中で重荷になっていたのだ。
ペーパーナイフも使わず、指先でじりじりと封を破り、おそるおそる中身を取り出す。女性が好んで使うような香水くさい便せんではなく、黄ばんだ無機質な用紙が折りたたまれていた。そしてそこには目を疑うほど細かな文字がびっしりと連なっていたのだ。
親愛なるお父さまへ――
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