第二十六話 記念写真
彼の眼前には、いつの間にか広大な花畑が広がっていた。赤、青、黄……色とりどりの花が敷き詰められ、空に向かって伸びている。
――そうだ、雑草を抜かなくちゃ。
彼は急いで花壇の側に座り込み、花と花の間を注意深くかき分けた。名もなき草花を見つけて指先に掴み取る。小さな手で根元をしっかりと持って、真上に真っ直ぐ引き抜いた。
「うまくなったじゃねえか、坊主」
はっと後ろを振り返る。頭上高く、こちらを見下ろす人影があった。
「この調子でどんどん抜いてってくれ。綺麗にすりゃ、お喜びになるからな」
胸がひりつくほどの懐かしさを感じ、彼は全身を震わせた。
――はい。ずっとずっと、手入れを怠りませんでした。
――お嬢様のために、僕は……
「庭は奥様の宝だ。どこに何を植えるか、それはそれは凝ってお考えになる」
――奥様……?
彼は内心で首を傾げた。
――庭は、お嬢様のためにあるものだ。僕はこれまで、全てあの方のために……
「何ぼうっとしてる。何か不服でもあるのか」
庭師の厳しい声音に身が竦み、彼は黙って首を横に振った。
「ならそれでいい。そっちは頼んだぞ」
と言って、庭師はどこかへ姿を消してしまった。
彼は再び花壇に向き直って雑草を抜きにかかった。その手つきは慣れたもので、彼は一心不乱に作業を続け、足元には雑草の山がうず高く積まれていった。
「いつもありがとう。素敵なお庭でしょう?」
今度はほっそりとした優雅な声が響いた。刹那、彼の脳裏に電撃が走る。
振り返れば豪奢なドレスの人影が立っている。レースのふんだんにあしらわれた日傘を差して、こちらを見つめている。
「わたくしね、このお庭を気に入っているの。ルトーが引退してしまった今……お庭を任せられるのはあなただけよ、ジルヴェール」
人影が打ち消える。彼は面食らい、立ち上がりかけた姿勢のまま固まっていた。
――奥……様……
ばりばり。胸の奥、意識の下層においやられ、頑丈に塗り固められていたものが剥がれ落ちていく。その奥に覗き見えるのは、インクの滲んだ白と黒の――
「おや、今日も精が出るね」
反対側から穏やかなテノールが響く。また別の人影が立っていた。
「ルトーに習っているのかい? それはいい。彼も長年勤めてくれているが、そろそろ後継者がほしいと言っていたよ。君なら問題なくやれるだろう」
人影は優しく慈愛に満ち溢れた声で続ける。
「ジル、君が来てくれて良かったよ。本当に働き者だ、助かっているよ。私だけじゃない、執事も従僕たちも、みんなそう思っている」
少年は小さな拳を握りしめて叫んだ。
「気休めはよしてください! 僕は……っ」
人影から一歩下がり、両手で白髪をぐちゃぐちゃにかき乱す。
「僕はこんなにも……醜い……醜いんです! 僕のことなんて放っておいてください、あとで捨てるくらいなら……」
「捨てる? どういうことだい?」
人影はきょとんとしたように首を傾げる。
「君のような優秀な使用人を自ら手放すなんてどうかしているよ。君を引き取るとき、友にもそう言ったのだがね。それに」
主人は、彼の乱した白髪に手指を差し入れ、不器用に梳いてやった。
「素敵な髪だと思うよ。大抵は染めるか、かつらでも被らなければ手に入らない色合いだ。輝く白金……他の誰にもない、素敵な色じゃないか」
主人は信じられないほど穏やかな微笑を浮かべていた。
「約束しよう。君がこのまま成長し、今よりもっと賢くなったら、私の従僕として傍におく。いいかい?」
少年は主人を見上げたまま、ぽかんと口を開けていた。
「旦那様……」
人影がくるりと踵を返す。
少年は思わず後を追いかけていた。
「旦那様! 待ってください、旦那様!」
花壇の間を縫って走る。だが、いくら走ってもその背中には追いつかない。そしてほんの瞬きの間に主人の影は消えてしまった。 途方に暮れたように立ち尽くす彼の足元には、相変わらず色鮮やかな花畑が広がっている。のどかな緑、澄んだ空の色。そのどれもが彼の意識の深層を激しく貫く。
彼は頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまった。ばらばら、胸の奥に塗りこめたものが次々に剥がれ落ちていく。そのたびに鈍い痛みが走り抜け、彼の背を震わせる。
――こわい。
それは崩れゆく壁の向こうから徐々に全貌を見せつつあった。白と黒に滲む人影が並び立ち、一枚の写真になっていく。
――いやだ、こわい、こわい、こわい……!
気の遠くなるような長い間、自分がそれを失っていたと知るのが怖かった。人、人、人……エプロン姿の女中たちが見える。黒いお仕着せの従僕たちが見える。下男たち、執事、最前列で椅子に腰掛けた紳士の姿……そして、その背に寄りかかるようにして立つ夫人の姿……
――ああ、見える。全て、知っている。憶えている……
紳士の椅子の隣に立つ生真面目な表情の娘が現れ、その隣によく似た優しげな顔つきの娘が見える。そして、その隣には……
突如、視界の端に青色がふわりと揺れた。
弾かれたように顔を上げる。美しい黒髪の娘が立っていて、こちらを見下ろしていた。
「ジル」
輝くあの青の瞳は。長く癖のない漆黒の髪は――
「お嬢様……」
「ジル、……あなたじゃなかったのね」
彼が切望してやまなかった娘は、うなだれたように目を伏せた。
「ごめんなさい、わたし、ずっと勘違いをしていたの。あなたが犯人だと……そう思っていたの」
彼はたじろぎ、わずかに後ずさった。
――この人は、お嬢様ではない。似ているが違う。
娘は眉根を寄せ、そっと胸に手を当てる。
「あなたはただ、ジャンヌと共に逝きたかったのね。あのナイフで、死んだ彼女の血を取り込んでまで一緒にいたかった……そうでしょう?」
その瞬間、彼の脳裏に鮮明な映像が浮かび上がった。
毒々しい壁血の中で眠る、愛しい令嬢の骸。
そこから連鎖的に記憶が甦り、彼の中で欠けていた穴が埋められていく。奇異な外見から心ない主人に鞭打たれていた少年時代、優しい主人と庭師、夫人の慈悲……
「ああ……ああ……」
ぴしり、大きく亀裂の広がるような音が脳裏に響き渡る。彼の身体はいつの間にか青年のものへと成長していた。
「僕は……私は……なんてことを……どうして……忘れていた……すべて……」
「思い出したのね」
目の前の娘が優しくうなずいた。
「あなたはクレメント家の従僕で、庭師でもあったのよ。わたし、ほんの一部だけだけど、あなたの記憶を覗き見ていたわ」
「私の記憶……」
「あなたは嫌がっていたけれど、わたし、見たことをすべて書いて記録しているのよ。一家のことも、使用人のみんなのことも」
彼は改めて目の前の娘を真っ直ぐに見上げた。顔色は悪く痩せていて、ジャンヌの放つような幸福の風は彼女からは微塵にも感じられない。だが、彼の全てを労り、受け入れようとする慈愛が目つきや佇まいからあふれ出ていた。長い間共に眠り夜を明かしてきた少女……彼の知るもう一人の「お嬢様」の姿が、確かにそこにあった。
「では、あなたは、何もかもご存知なのですね。私が愚かにも自死した後のことも……」
「……さっき、見てきたわ」
娘は顔を曇らせ、目を伏せた。
「きっと、あのお屋敷がわたしに見せてくれたのね。ナタリーと伯爵、ジャンヌ、そしてあなたが一度に死んだ夜、シャルロット夫人は発狂してしまわれたの」
「――奥様が」
「ええ。そして精神病棟に収容されてしまったわ。残された次女のアネットはお屋敷を引き払い、タウンハウスに移り住み、病院へ通い続けたのよ」
「そんな」
ジルヴェールは頭を抱え、全身を戦慄かせた。
「そんな……私は、なんということを……」
「あなたのせいではないわ」
「いいえ!」彼は激しく首を振った。
「私は自死などせず、悲しみ暮れる奥様のお傍に寄り添い続けるべきだった……奥様についてゆかれたアネット様にお仕えしながら……それが、私のすべきことだったはずだ……旦那様に拾われた私にできる、唯一の……ああ、それなのに……それなのに……」
胸の奥が焼けつくように痛む。全身が燃えるように滾り、彼の魂を蝕んでいく。
「私など……私など……今すぐ、地獄へ墜ちるべきなのだ……!」
じわり、彼の白いシャツの胸に赤いものが広がっていく。それは周囲をみるみる浸食し、彼の身体をどろどろに穢していった。
「いけない、ジル!」
マリーの白い手が伸び、躊躇いもなく彼の胸に触れる。真っ赤に濡れる傷口を覆うように押さえて、しゃがみこむ彼の肩を強く抱きしめた。
「地獄へなんて……あなたが墜ちる必要はないわ。誰もそんなこと、望んでいないもの」
「しかし……私は、償わねばならない……」
ジルヴェールは苦しげな息を吐き出した。
「旦那様に拾っていただいた恩を無下にして、自身の欲望のために奔走し……そのくせ、お嬢様をお救いすることも叶わなかった。これを罰せずして――」
「罰なら、もう精いっぱい受けたじゃない」
マリーの、彼を抱く腕に力がこもる。
「あなたは五十年もの間、あの物置部屋でたったひとり、その魂をずっと縛りつけていたのよ。それはあなた自身、自責の念を持ち続けていたからではないの?」
ジルヴェールの眼がわずかに見開かれる。だが、すぐに眼を伏せ首を振った。
「私は、あなたにも害を及ぼしました」
目に垂れかかる白髪をぐしゃりとかき乱す。
「あなたの言葉通り、まさに怨念や自身の後悔……欲望……様々な意識に苛まれ、長い間自分を見失い、あなたとお嬢様の区別すらつかなくなっていました。浅ましい情念を抱き、あなたを欲望のままにしようとしました……何度も、何度も……」
「誰だって醜い部分はあるわよ。持ち得ない人なんていない……わたしだって……」
かつて母マルグリットから理不尽な折檻を受け、その後ろでほくそ笑むカトリーヌの顔を見上げた時、二人に対して信じがたいほどどす黒い感情を抱いていた。そしてそんな自分にどれほど嫌気が差したことだろう。
「ですが私の過ちは到底、赦されることではありません」
「そうかもしれない。通常なら、あなたはきっと悪霊と思われるでしょうね。でも……」
マリーは唇をぎゅっと引き結び、おそるおそる緩めた。頭の中ではあの夜の出来事が思い浮かんでいる。姿の見えない幽霊に押さえつけられ、強引に唇を奪われた瞬間の恐怖。だが同時に、薔薇の棘に挿されたような甘苦しい痛みを覚えていたのも確かだった。
「わたしは、嫌では……なかったから……」
全ての時が止まったように思えた。
マリーの心臓が緊張に早鐘を打つ。腕の中の彼は黙りこくってしまったようで、マリーの頬がたちまち朱に染まる。
「あ、あの、ちがう、そんなことを言いたかったんじゃなくて……」
自分は今どんな顔をしているのだろう。マリーは決して自分の顔を見られぬよう、彼の肩に額を押しつけたまま強引に続けた。
「だからその、あなたのことは、わたしはもう気にしていないから。いつまでも気に病まないで……あ、あの、つまり、地獄になんて墜ちないでほしいということを」
ひやりとした冷たい手がマリーの腕を優しく押しのけた。身体がわずかに離れる。彼の胸の血の浸食は止まっているようだった。灰褐色の瞳に覗き込まれ、マリーの胸は射貫かれたようにどくんと震える。
「初めは、煩い者たちに屋敷を踏み荒らされ、不愉快だと思っていました」
彼はマリーの腕に手を触れたまま、ぽつりと語り出す。
「私は長い間あの部屋で魂を燻らせ続けていました。その間のことはよく覚えていませんが……ただ行き場のない醜い感情に苛まれ、暗い意識だけが膨れ上がり、あの部屋に巣喰っていたことだけは確かです」
――そんなときに、あなたが部屋を訪れたのです。
小さな「お嬢様」は毎日どこかに痣をつくり、惨めなほどやせ細り、サイズの合わない衣服を着古していた。だが一人になっても恨み言を口にするでもなく、ただ現状を受け入れ、慎ましく耐えようとしていた。
「あなたの青い瞳はどうしようもなく私の意識をかき乱しました……今にして思えば、お嬢様への情が蘇っていたためだと思われますが……何より、その瞳が常に宿していた哀しみの色を見て、私の意識は、どうにかして慰めたいと思うようになりました」
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