第九話 絡めとられた夜

 屋敷に戻り、物置部屋の机に向かって紙とペンを取りだす。気分を改めるために何か物語を書こうと思ったのだが、結局何も思い浮かばなかった。あの老人から聞いた話が耳にこびりついて離れない。

 悶々としたまま時間は過ぎていった。夜になりお下がりの夜着に着替えていると、こんこんと扉が叩かれ、マリーははじかれるように扉にとびついた。

「お嬢様、失礼いたします」

 若いメイドが声をひそめ、手にした包みを緊張気味に差し出した。

「昼間おっしゃられたとおり、ドレスを三着ほどお持ちしましたが……」

「まあ、そんなに? 一着でよかったのに」

「いえ、何が一番お気に召されるか、わかりませんでしたので。よろしければ全てご試着になり、気に入られたものをお持ちください」

 マリーはメイドを招き入れ、扉を閉めた。包みの中には薄桃色、深い緑、そして青色のドレスが入っている。それらをベッドに広げて、マリーは小さく感嘆の声を上げた。

「ありがとう、どれも綺麗だわ。さっそく着てみていいかしら」

「ではお手伝いいたします」

 メイドが夜着のボタンに手をかける。ところが彼女はふいに手を止め、訝しげに周囲を見回した。

「あの……お嬢様、お寒くありませんか」

「え?」

「まだ夏まっただ中だというのに、まるで冬の夜のような底冷えがいたします。あ、あの、気のせいであればよいのですが」

 よく見るとメイドの顔はひどく青ざめていた。そこでマリーもようやく気がついた。もう何年もの間この部屋で過ごしているせいで、部屋の異常な寒さには慣れっこになってしまっていたのだ。

「き、気のせいよ」

 マリーは慌ててドレスをかき集め、扉に手をかける。

「きっとこの部屋の位置が悪いのね。隣に移りましょう」

 出て行き際、部屋の隅の陰にちらと眼を遣った。見えない気配はそこにある。凍てつくような冷気をまとって。 

 隣の空き部屋の扉を開けると、奥の広い出窓から煌煌と白い光が入り込み、古びた部屋の中をぼんやりと青白く照らし出していた。

「ここはまだ、ましなようですね」

 メイドはほっとしたように包みを受け取り、足元に広げた。

「奥様もなんというお仕打ちを……あんな部屋にいらしては、お嬢様のお体が心配ですわ」

「わたしは大丈夫よ。ずっとあそこにいるんですもの」

 夜着が脱がされ、透けるような真白の肌が露わになる。下着の上にペチコートを入れて、薄桃色のドレスを纏ってみた。

「どうかしら……」

「お綺麗ですわ、とっても」

 メイドが朝の務めで着ていたという小花柄のドレスは、少々くたびれてはいるがぴたりと合っていた。

「他のものも是非お試しください」

 深緑のドレスも同様、身体によく馴染んだ。メイドは賛辞を述べながら最後のドレスに手をかける。

「こちらは、一番新しいものになるかと思います。ちょっと首元が締まりすぎていて、私には合わずそのままにしていたのです」

 メイドはマリーに青いドレスを着せ、首の後ろや袖のボタンを留めていった。

「まあ」

 彼女はマリーの姿を見るや否や、神々しいものでもみるような眼をして頬に手を当てた。

「すばらしい……とてもお似合いです。こちらが一番、お綺麗ですわ」

「そ、そう……?」

 マリーは照れたように口元をほころばせ、一歩下がる。月明かりを背に受けながら両手を広げ、くるりと回って見せた。

「とても上品なドレスね。気に入ったわ」

「おそれいります」

 カトリーヌが毎日とっかえひっかえしているものに比べればレースもフリルも控えめで、流行遅れの地味なドレスであった。しかし目の醒めるような青の生地はマリーの瞳の色と呼応するかのように美しく映えている。それはさながら、一枚の絵画のように。

「こちらをもらってもいいかしら」

「もちろんでございます! 私が持っていても着ることはなかったでしょうから、服も喜んでいると思いますわ」

 マリーは嬉しそうにもう一回転した。長い黒髪がさらりとなびき、スカートがふわりと広がる。

「ああよかった」メイドはうっかり出てしまった涙をぬぐった。「ようやくお嬢様のお役に立てて……」

 マリーの着古したドレスはメイドが処分してくれるらしく、持って帰ってくれた。二人は部屋の前で別れ、マリーは物置部屋に帰っていく。

 部屋の扉を開いた途端、奥から流れ込んでくる猛烈な寒気にぞっと身体を震わせた。

 今までも幽霊の影響で深夜は酷く冷える部屋であったが、この寒さは、空気の冷たさは、一体何だろう。壁や家具に霜が降りそうな勢いである。

 マリーはおそるおそる足を踏み入れ、ゆっくりと扉を閉めた。これほどの冷たさはいつ以来だろうか。五年前のあの日、彼の前で夢の記録を紐解いてしまったときと似ている。だが、これはもっと寒い。マリーは思わず両腕で肩を掻き抱いた。

 ――寒すぎるわ、幽霊さん。

 声には出さずに心の中でそう呟いた。それが彼に届くかはわからなかったが。

 次の瞬間、マリーの身体は見えない氷の塊のようなものに突き飛ばされて、後ろの壁に背を打ち付けた。

「きゃっ」

 あまりに突然の衝撃で眩暈を起こし、身体がくずおれそうになる。だが背が壁に張りついてしまったようにぴくりとも動かない。

 ――あ、これ、は。

 両手を壁に張り付けたような格好でマリーはその場に硬直させられていた。まぎれもない、幽霊の金縛りである。

「お、怒って……るの……?」

 戦慄く唇でそう訊ねた瞬間、喉が縛られ声も出なくなってしまった。

 感じるのは、肌にひたひたとまとわりつく濃い冷気。初めてこの部屋にやってきた夜を彷彿とさせる、得体の知れない恐怖がマリーを襲う。だがあの時はすぐに幽霊の優しさが見えたはずだ。嫌がるマリーの手を金縛りから離してくれた。その後も、マリーが傷つき涙する夜はそっと包み込んでくれた。そういう存在のはずだったのだ。

 ――わからない。一体何が、あなたをそんなに怒らせているの……

 ふと、鼻先に凍りつくような息吹を感じた。目に見えないが、息のかかるほどの距離に彼がいる。氷の塊を押し当てるようなつんと痛い冷たさで、マリーの手首を押さえつけている。

 ――わたし、何をしてしまったの? 

 鼓膜を打ち震わすような、きんと高い音が耳の奥で鳴り響き、目の前が暗くなっていった。月はあれほど明るく、白い光を放っているのに……部屋に闇の帳が落ちていく。


 お嬢様。


 はっきりと声が聞こえたわけではなかった。だがマリーの精神は、低く悲しげなその声を捉えていた。

 冷たい闇が、マリーの首に、腕に、足に、絡みついてくる。そして戦く唇に這い上がり、吸いつくように触れた。

 それは異様な感覚だった。氷が唇に溶けていくような感触。思わず身の毛がよだつと同時に、マリーの瞳に戸惑いが満ちていく。

 彼の力は強く乱暴ではあったが、危害を加えようという敵意は微塵にも感じられなかったのだ。


 お嬢様。お嬢様、お嬢様……


 縋りつくような、切実な嘆きが痛いほど伝わってきて、わけがわからないうちにマリーの目尻に涙が滲んだ。

 ――あなたは一体、だれなの……?

 呑み込まれていく。狂おしいほどの熱情の渦に沈められていく。マリーは困惑し、もがきながら静かに意識を手放してしまった。


***


「ねえ」

 鈴の鳴るような軽やかな呼び声に、マリーの意識は引き戻される。

 気がつけばそこは燦々と陽の降る夏の庭。マリーは一面の緑の真ん中に立ち、銀のじょうろを手にしていた。

 振り返れば、そこに長い黒髪の少女が立っている。自分の腰ほどまでしかない身長の少女は、こちらを見上げてあどけない笑みを浮かべた。

「ダリアは? ダリア、植えてくださるんでしょう?」

 少女はまだ十歳前後だろうか。少々古いデザインだが、見るからに高価そうなエプロンドレスを身に纏っている。はっとするほど綺麗な青い瞳が日差しを受けて、大きなサファイアのようにきらきらと輝いていた。

「ええ、もちろんですよ」

 そう答えたのは自分ではなかった。すぐ後方で脚立に乗っていた庭師の男が、汗をふきつつうなずいている。

「お嬢様のお好きな……ええと、どこでしたかな」

「うっふっふ。わかっているくせに」

 少女は可憐に笑い、くるくると踊って見せた。

「あそこよ、庭師のおじさま。私、あそこがお気に入りなの。忘れちゃいやよ」

 少女の小さな指先が指し示したのは、裏庭のノットガーデンの向こうに覗く石柱だった。マリーはそこを知っていた。石柱に囲われて、湾曲した池があるはずだった。

「あの辺りに植えてね。お願いね」

「承知しておりますとも」

 少女と庭師のやり取りの中、マリーは一言も声を発さなかった。いや、これはマリーではない。背丈がとても伸びていて、もはやマリーの目線ではなかったのだ。

「あなたも、約束ね」

 少女の薔薇のような唇が妖艶に微笑んだ。たちまち、くらりと眩暈に似た感覚に支配される。

 こちらがうなずくのを確認すると、少女はスカートの端を持ち上げて駆けていった。風の精のように軽やかに……その様子から目が離せない。何かに打ち抜かれたように、ずきずきとした痛みが胸の中に響いている。


***


「お嬢様!」

 厳しい声音にマリーは飛び起きた。

 尻に硬い床の感触がある。年配のメイドが厳格そうな目でこちらを見下ろしていた。

「まったく、このような……床で寝ていらしたなんて、奥様に知れたら……」

「ごめんなさい」

 口にしながらマリーは思わず胸を押さえた。

 まだずきずきとした痛みがこびりついている。夢の中だけの感覚のはずなのに。

「ちょっと、気を失ってしまったみたい。もう大丈夫だから」

 メイドは盛大にため息をついて、机の上に盆を置いてくれた。

「朝食を召し上がってくださいね」

「ありがとう」

 温かいスープの匂いが漂ってきて、マリーのお腹をうずかせる。だが心臓はまだどきどきと高鳴ったままだった。瞼を閉じれば可憐な少女の姿が鮮明に甦ってくる。

 ――あれは……あれは、だれ?

「おや」

 メイドが窓辺で首を傾げた。

「まさか昨日、お庭に出られたのですか」

「えっ?」

 メイドの指す先で部屋の窓が開いている。その桟の上に、鮮やかな赤色の花があった。

「い、いいえ、わたしは……」

「お庭は奥様とカトリーヌ様のものですよ、勝手に摘まれたとあっては……」

「ほんとうよ、わたしじゃないわ」

 庭には出たが、花などとっていない。しかしいくら訴えても彼女は信じてくれなかった。今回ばかりは目を瞑っておきます、と低く言い置いて部屋を立ち去ってしまう。

 マリーはよろよろと立ち上がって、おそるおそる窓辺に近づいた。桟の上に無造作に載せられた一輪の花に、こわごわと手を近づける。

 深紅のドレスのような、見事な八重咲きの花だった。細かな花弁が隙間なくぐるりと円を描いて咲いている。

「ダリア……」

 思わず言葉が漏れていた。

 みずみずしい花弁に触れた途端、マリーは反射的に指先を引っ込めた。まるで氷漬けにされていたかのように、皮膚のひりつくような冷気を纏っていたのである。

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