第八話 五年後

「ああ、カトリーヌ! とうとう十六歳になったのね!」

 甲高く甘ったるい母親の声に、カトリーヌは照れたような笑みを浮かべる。

「もう、お母様ったら朝からおおげさだわ」

「当然よ、立派なレディになったんですもの。さあ、うんとおめかししなくっちゃ。今夜は劇場であなたの大好きなお芝居を観ましょう。素敵なディナーも用意してあるのよ」

「うふふ、お母様、大好き!」

 カトリーヌが母親の頬にキスを落とす。

 その会話を扉越しに聞いていたマリーは、そわそわしながら階段を上っていった。

 今日はカトリーヌの誕生日だ。思った通り、二人は今晩出かけていく。束の間の自由だ。

 マリーもカトリーヌも、もう幼い少女ではない。十六歳ともなれば一人前として扱われ、嫁入りも果たせるようになる。

 マリーもあと二ヶ月で十六になるが、今年も誰からも祝われないのだろう。唯一父からプレゼントが贈られているようだが、いつも母に奪われてしまうので手元にはない。

 部屋に戻って洋箪笥を開き、中に吊ってある濃紺の服を取り出してみた。いくらメイドのお下がりとはいえ、あちこちほつれてぼろぼろだ。背が伸びた分、丈もひどく短くなってしまっている。こんなみっともない姿を母や姉に見つかったらなんて言われるだろう……考えるだけで憂鬱だった。

 それでも他に着るものがないので、仕方なく頭から被る。肩がやすやすと通るのは生地が伸びているからに他ならない。惨めだった。

 学校は昨年卒業した。母にとって汚点でしかないマリーが通わせてもらえたのは、嫁入りに必要な最低限の教養を身に着けられるからだ。十六歳になれば母親の用意した都合の良い男に嫁がされるだろう。めでたく厄介払いができて母も姉もさぞかし喜ぶに違いない。

 使用人のお手洗いを出て階段を上る途中、嫌なことにカトリーヌと出くわした。彼女は新しく下ろした上等な薄紅色のドレスを着て、髪も華やかに結い上げていた。

「まあ、だれかと思ったら」

 彼女はきっちりカールさせた髪をはらい、ふんと鼻を鳴らした。甘ったるい香水の匂いが今日は一段ときつい。

「あまりに小汚い恰好だから女中かと思ったわ。暖炉掃除でもしていたの?」

「お姉さまはいつも新品みたいにお綺麗ね」

 ささやかな嫌味も幸福絶頂の姉には通じない。

「ふふ、なんといっても今日はあたしの誕生日なのよ。さあ、部屋でじっとしてなさいよ。あんたの顔を見るだけでせっかくの幸せが逃げてしまいそうだわ」

 言われなくともそうするつもりだった。マリーはうつむき気味に階段を上っていく。

 この歳になって、マリーはようやく二人の気持ちを少し汲むことができるようになっていた。母マルグリットは父を病的なほどに深く愛している。しかし父は家に帰らない。地位のある学者で研究に没頭しているせいだと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。マリーを産んだという本当の母と今も逢い引きを続けているからではないか、と彼女は睨んでいるのだ。屋敷には怪しげな恰好の探偵たちが定期的に出入りしており、父の素行調査を報告している。一週間の父の動向を確認して、女と逢っていないとわかると初めて母は安堵するのだ。

 カトリーヌもそんな母親の様子が気がかりで仕方ないらしく、客間に探偵たちが入っている間、扉の陰で盗み聞きをしている。幼い頃、カトリーヌに虐められるたびに理不尽だと恨めしく思ったが、彼女からしてみれば、母親の不幸の象徴であるマリーの存在は目障りでしかなかっただろう。そう考えるとあまりカトリーヌを責める気になれないのだった。

 心身の成長と共にどうしようもない事情が見えてきてしまう。そしてそれは、マリーが自分自身をより惨めに、厭わしく思う要因になっていた。本来ならばとっくに自分で自分の命を絶っていたところだが、そうしなかったのは幽霊の存在があるからである。

 未だ自殺を案じてくれているのだろうか、彼は今も物置部屋に現れる。五年前のあの夜から変わらず微妙な距離を保ったまま。

 ふと見ると、物置部屋の扉が開いていた。戸口に掃除道具が立て掛けてある。マリーが学園に通っていた頃は不在の間にメイドたちが掃除を済ませていたようだが、卒業した今はそれもできない。彼女らの仕事の邪魔をしたくなかったので、その間マリーは隣の空き部屋で過ごすことにしていた。この家に引っ越してもう十年近く経つが、未だに使われていない部屋は多い。母がマリーのいる二階を嫌って避けているためだ。

 部屋の中は古めかしい絨毯や色あせた花柄の壁紙がそのままになっている。その他は何もない、がらんとした広い部屋だ。奥にある背の高い出窓が明るい日光をふんだんに招き入れているのに、なぜだろう、どことなく陰鬱な気配が漂っているように感じるのは。

 もしかすると、この部屋はあの不思議な夢と繋がりがあるのかもしれない。夢で見た人々が実際に出入りしていたところを想像すると不思議な心地だった。

 マリーが気になっているのは、部屋の中央の絨毯にある白い跡だ。小さな円い点が三つ、繋げると長辺三角形になるようについている。長い間ここに何かが置かれていた形跡であろうが、これほど大きな三脚の家具などマリーは知らない。この部屋に立ち入るたびに気になってしまい、マリーはしゃがみこんで白い跡を触る癖ができてしまっていた。

 メイドの掃除が終わるまで出窓の下に座り目を閉じる。遠く囀る小鳥の声や草花の擦れ合う淡い音を耳にしながら意識を遠くに追いやるのだ。もしくは、膝の上に紙を置いて短い物語を書いていた。学校での休憩時間も図書室で空想を書き連ねていた。とにかくつらい現実から逃れたかったからだ。

 そうしているうちに物置部屋の方が静かになった。掃除が終わったらしい。マリーは立ち上がり、自室に戻ろうと扉を開けた。

「あら、お嬢様」

 見ればあの若いメイドが箒とバケツを持って立っていた。

「お隣にいらしたのですね。申し訳ありません、お気遣いいただいて……」

 彼女は相も変わらずマリーに同情してくれているようだった。いつか母親に知られて解雇されてしまうのではないかと心配していたが、幸いにも未だ無事である。

 マリーは「しっ」と唇に指先を当て、そのまま物置部屋へ招き入れた。誰にも聞かれないよう扉を閉める。

「あなたに、お願いがあるの」

 後ろ手に戸を閉めたまま告げると、メイドは眼を輝かせた。

「はい、いかようなことでも」

 マリーは今までどの使用人に対しても滅多に頼み事をすることはなかった。母や姉の目を恐れているからだ。扉の外の気配に耳を澄まし、すっと息を吸い込む。

「この服」と、今着ているくたびれたドレスの裾を持ち上げて見せる。

「もう長いこと着ているから、ひどくよれてボロボロなの。我慢していたけれど、あんまりでしょう。それで、もしよかったら、あなたの要らない服を譲ってもらえると嬉しいんだけど……」

「私の服、でございますか」

 メイドは眼をまん丸にさせた。

「あの……お恥ずかしいことですが私もだいぶ着古しておりますし、朝の務めで汚れもついておりますし……」

「構わないわ。同じ背格好の使用人はあなたしかいないもの」

「お嬢様……」

 メイドのつぶらな瞳がたちまちうるうると潤みだした。

「なんて、なんておいたわしい……この家のれっきとしたご家族であらせられるのに、そんな、使用人の服だなんて」

「ずっとそうやって生きていたのよ。今更どうとも思わないわ」

「……かしこまりました」メイドはぐずぐずと鼻を鳴らす。「なるべく綺麗なものをお探しいたしますので……」

「使い古しでいいわ。綺麗なものは家族への仕送りにしたりするでしょう?」

「おお、なんと慈悲深いお言葉……! かくなる上は全霊をかけてお探しいたします!」

 そこまでしてくれなくていいのに、どれだけ言っても彼女は聞く耳を持たなかった。掃除道具を手に張り切って部屋を出て行ってしまったのだった。

 昼過ぎ、マルグリットとカトリーヌは馬車に乗って出かけてしまった。劇場に行くと言っていたので、今日は街の別宅で泊まるのだろう。一年に数えるほどしか訪れない貴重な自由の日だ……といっても、マリーには自由らしい自由はない。せいぜい屋敷の中を少しうろついたり、見つからないようこっそり庭へ出ることができる程度だ。

 メイドたちの気配を探りながら裏口から出てみる。能天気な日差しと爽やかな風。芝生を踏みしめて裏庭へ回ると、屋敷を取り囲むように広がる針葉樹林が見渡せた。鬱蒼としていて、まるでおとぎ話の魔女の森のようだ。幼い頃は知らなかったのだが、あのどこかに屋敷の管理棟があるらしい。以前屋敷に住んでいた人々について何か聞けるかもしれないが、マリーは未だ探す気になれないでいた。昼でも暗い陰鬱な森を前にすると足が竦んでしまうのだ。

 森の手前には湾曲した池がある。小さいがなかなか深さがあるらしく、母が幼いカトリーヌに「近くで遊んではいけません」と叱っているのを見たことがあった。石柱に囲まれているので滅多に落ちることはないと思うのだが。  

 マリーは池に近寄って、そっと水面を覗き込んだ。鬱陶しいほど長い黒髪のシルエットが揺れ、青々しい瞳がぼうっと浮かび上がる。

 自分の顔だ。母にも姉にも似ていない、自分自身の。

「あぶない!」

 突如響いたしわがれ声にマリーははっと我に返った。水面に映る自分の幻影を掻き消そうと無意識のうちに身を乗り出していたのだ。

 驚いて横に――森の方へ振り向くと、恐ろしく背の曲がった老人が立っていた。溶けた蝋のように真白くしわくちゃの顔で、薄黄色い眼だけがぎょろりと飛び出している。あまりに突然のことでマリーは言葉を失い、よろよろと後ずさった。

「あぶないぞ」

 老人が再度言った。ひび割れたひどい声だ。頭巾を被り杖をついているが、男か女かもよくわからない。

「ど、どなたですか」

 マリーの問いに老人は首を傾げる。

「おまえさん、使用人ではないのかね」

「い、いえ」どもりつつ首を振る。

「わたしはこの家の……娘です」

「娘? 今日、母親と共に外へ出かけたはずじゃなかったかね」

「それは姉です。わたしは妹で、マリーといいます」

 老人は改めてマリーを上から下までじろじろと眺め回した。なんとも不躾な視線に耐えていると、ようやく納得したようにうなずく。

「これは失礼いたしましたな。いや、あまりにみずぼらしい恰好をなさっておいでだ、使用人と間違えるのも無理はない」

「……あの、わたし、本当は庭へ出てはいけないので、ここで出会ったことは誰にも口外しないでいただきたいのですが」

「ほっほっほ」

 老人の笑い声は空気が漏れだしたような掠れた音だった。

「お嬢さん、どうやらわけありと見える。なるほどそれは秘密にせねばならんでしょうな」

 池を一瞥して、不気味に唇を歪める。

「この池はいわくつきでしてな、あまり身を乗り出すと落ちてしまいますぞ」

「いわく、ですか」

 マリーは戸惑い、鏡のように静かな水面に眼を向ける。

「それは……どのような」

「昔、ここで死人が出ましてな」

「死人……?」

「そう、死人」

 老人の骨張った手が石柱に触れる。

「この屋敷に当時住んでおられたお嬢様と、お嬢様が思いを寄せておられた騎士様が、二人して落ちてしまわれた」

 息が止まりそうな衝撃を受けた。一瞬脳裏を巡ったある予感に、ごくりと唾を呑み下す。

「あの、それは一体、いつのことですか」

「もう五十年ほど前になりますかな。あれは本当に悲惨な事件でした」

 しかし老人は、マリーが二の句を告げる前にはたと気がつく。

「おっと。つい喋りすぎてしまいましたな。立ち話で失礼いたしました」

「いえ、いいんです、あの――」

「では、私はこれで。管理棟に戻らねばなりませんので」

 老人は踵を返して、杖をつきゆっくりと歩いていく。暗い針葉樹林の合間へと、亡霊のように消えていった。

 マリーはぽかんと口を開けたまましばらくそこに立ち尽くしていた。かつて見た、ぞっとするほど美しい死体の夢を思い出す。脳裏に浮かんだ推測があまりに恐ろしく、咄嗟に口にすることができなかった。

 管理棟。確かに老人はそう言った。管理棟に行けば、もっと話が聞けるのだろうか。

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