第七話 紅染まる骸

 彼との関係は相変わらずで、マリーが理不尽な目に遭い落ち込んでいると、深夜に現れ寄り添ってくれていた。そしてそのあと必ず夢を見るようになった。

 夢の光景はどれも断片的で繋がりがわからない。共通しているのはほぼ毎回、庭師の男が登場することだ。大抵が木を刈り込んでいたり、一緒に花壇の花を植え替えたり、生け垣の形を整えたりしていた。

 屋敷の裏側の様子が見えたのはずいぶん後になった。その夢は屋敷の裏口から出て行く瞬間から始まっていた。

 もうお馴染みとなった庭師の男は既に脚立を持って待っていて、こちらが出てきたのを見ると無精ひげを撫でながらうなずいた。

「今日のは複雑な作業だからな、おまえは黙って俺のするのを見ていろ。いいか、ぼうっとするんじゃないぞ、見ているんだ。いずれおまえもせにゃならんからな」

 やがて男の大きな背が脇に逸れ、裏庭に広がる全貌を目にしたとき、マリーはあっと声を上げたくなった。

 現在の屋敷ではそこは芝生の広がるだだっ広いガーデンであった。だが今、眼前には一面の緑の中、腰の高さくらいの生け垣がくねくねと複雑な模様を描いて刈り込まれている。まるで小さな迷宮のようだった。ゴールに当たる中央には華やかな花壇と白塗りのバードバスが置かれ、どこからかやってきた小鳥が二羽、澄んだ水面をついばんでいた。

 庭師の男の今日の作業は、この緑の迷宮の手入れであった。小ぶりの鋏を手にして、形が崩れないように細かく削るように切り落としていく。自分は落ちた葉のくずを綺麗にあつめてバケツに放り込んでいった。その間、男の手元を食い入るように見つめていた。彼に言われた通り、仕事の様子を一瞬たりとも見逃すまいとしているのだ。

 後日、学校の図書室で調べると、あの迷宮のような庭はノットガーデンという名で、切り込まれている形は結び目模様なのだと知った。一昔前の貴族が好み、こぞって自宅の庭に造らせていたのだという。薄々思っていたことだが、やはり夢の家主たちは貴族か、とんでもない資産家なのだろう。母マルグリットも結構な資産を持っているはずだが、到底比べものにならないほどの……。

 マリーは夢を見るたび、朝のうちに内容を書き留めた。用紙の束は物置の机の下に、紐で留めて大切にしまってある。

 夢の光景は自分とは一切関係ないはずなのに、登場人物にも庭にも愛着が芽生えていた。庭師の男は厳しく無愛想だが母や姉のような意地の悪さを感じない。面倒見が良く優しい目をしている。何より庭が美しい。

 夢にのめり込めばのめり込むほど、学校や家での生活がより一層つらいものとなった。相変わらずカトリーヌからは虐められ続けていたし、かといって先生に告げ口などしてしまったら母に手紙を書かれてしまう。書かれなくとも先生がクラスメイトを叱ればカトリーヌは母に告げる。どのみち八方塞がりなのだ。マリーの生きる現実はただ地獄でしかなかった。

 夜眠る前、自室で用紙の束を捲る。何度も何度も夢中で読み返す。

 マリーは気づいていなかった。

 不思議な夢の光景を書き留め読み返していくうちに、部屋の幽霊の気配が日増しに強く色濃くなっているのを。毎晩のことで麻痺しているマリーは何も感じなかったが、部屋の中は以前より増して凍てつくような異常な冷たさが支配していた。


***


 彼は毎夜、少女が紙束を夢中で捲るのを後ろから覗き込んでいた。彼女の文字を追い、内容を理解するたび、頭の中をかき乱されているような感覚に陥る。怖いような、だがどこか安堵するような、よくわからない感情が溢れて、彼にもし肉体があれば即座に眩暈をおこしていただろう。

 彼の意識は、少女の書く「庭師」「庭」「生け垣の迷宮」といった単語にことさら強く反応した。目にするたび、心の奥深くに焼けつくような痛みを覚えるのだ。

 ちかちかと視界が明滅する。わけがわからなくなり、気がつけば幸福そうな顔で紙を捲る少女の手首をがむしゃらに掴んでいた。

「っ」

 びく、とマリーの背が波打つ。

 彼女の手首は、紙を捲りかけたところで止まっていた。動かせない。氷の塊を押しつけられるようなつんと痛い冷たさが手首をがっしりと覆っている。

「な、なに……」

 唇が震える。見えない彼がものすごい力で自分を縛りつけている。それ以上見たくない、お願いだから捲らないでくれ――そう言いたげな幽霊の強い力に、マリーの顔が恐怖に染まる。

「ご、ごめ……なさ……」

 力を失ったマリーの指先から紙の先が離れて落ちる。すると金縛りは解け、手首が机の上にくずおれた。

 幽霊が怒っている。

 顔が見えるわけでも言葉が聞こえるわけでもないのに、そうひしひしと感じた。マリーは紙の束を机の下にしまいこんだ。それから、背後に感じる強烈な視線を振り返らないようにしてベッドに潜り込む。

 いつもより一段と強く、絡みつくような視線だった。どうしてそんなに怒っているのだろう。何が気に入らなかったのだろう……。

 その日見た夢は、これまでのような平和な映像ではなかった。はっきりとした景色はなく、一面が塗りこめたように真っ暗である。その中を自分はもがいていた。闇の中に溺れないように必死で手足を動かしているのだ。

 やがて眼前の濃い闇がわずかに薄くなり、その向こうに何かが見え始めた。溺れまいともがきながらマリーは必死に目を凝らす。

 灰色の靄の向こうに深紅の花弁が散っていた。いや、違う。花弁に見えるのはおびただしく広がる真っ赤な血。その真ん中に、墨を流したかのように黒く長い髪が広がっている。その下には、目の覚めるような青――青のドレス……

 思わず叫び声をあげた。闇の向こうで倒れる娘に向かって手を伸ばす。だが届かない。沈んでいく。彼女が遠ざかる。血の海も、黒い髪も、何もかもが離れていく。

 悲鳴を上げながらマリーは飛び起きた。額や背中に嫌な汗をかいていた。窓の外はまだ真っ暗だ。

 今見たものはなんだったのだろう。目を覆いたくなるような映像だった。だが映像よりも自分の中に渦巻いていた激しい感情が一番恐ろしかった。名状しがたい惨憺たる悲哀……絶望……そして……

 マリーは胸におそるおそる手を当てた。だが、足りない。もっと向こう、奥深くが焼けつくように痛む。この感情には憶えがあった。幼い頃、温かな暖炉の前で姉が母に髪を撫でられているとき……姉の誕生日のたびに母がきらびやかなドレスや宝飾品を買い与えているとき……庭園で母と姉だけの茶会が開かれたとき……そのすべてを、マリーは物置の窓辺や扉の隙間から覗き見ては、胸に焼きごてを押しつけられるような激しい痛みに耐えていたのだ。そしてその痛みを感じている自分の顔がひどく醜く歪んでいることも知っていた。

 あの娘は誰だったのだろう。あの恰好は使用人には見えない。では、かつて屋敷に住んでいた一家の誰か……

 これまで知り得なかった新しい情報だった。すぐにでも机にむかって用紙に書き留めておきたかったが、マリーの身体は竦んでしまっていた。

 昨晩の幽霊の異様な様子を思い出す。まるでマリーが夢の内容を紐解くのを嫌がっているようだった。彼の気配からはどす黒いものが滲み出ていて、屋敷に来た当初に刻みつけられた、あのおぞましい感覚が甦るようだった。

 この夢は危険だ。幽霊のこともそうだが、何より夢の中で渦巻いていた物凄まじい感情が一番恐ろしかった。ともすれば自身の感情まで呑み込まれてしまいそうなほど強烈だったのだ。

 

「朝から辛気くさい顔ね」

 学校の教室で、カトリーヌは顔をしかめる。

「教室中が陰気で満たされそうだわ。あんた、いつも図書室にいるじゃない。はやく行ってきなさいよ」

 クラスメイトがくすくす笑う。マリーは黙って立ち上がり、逃げるようにその場を去った。

 図書室に着くと足が自然と一定の場所へ向かっていった。

「ガーデニングが好きなのですか?」

 背後で声がした。振り返ると司書の女性が本を数冊抱えてこちらを見下ろしている。

「は、はい……」

「そうですか。持って帰ってもよろしいのですよ。持ち出し禁止は辞典だけなのですから」

「ありがとうございます」

 持って帰りたい気持ちはないわけではない。しかし部屋でこの本を広げてしまったら、また幽霊を刺激してしまわないだろうか。何が彼の怒りの引き金になるのかわからない以上、むやみに夢を想起させるものを持ち帰るべきではない。

 あの幽霊が夢と関係しているとして、なぜ夢の記録を嫌がるのだろう。何か過去にトラウマでもあるのだろうか。

 ふと、脳裏に深紅の花弁の血だまりが思い浮かんだ。

 ――まさか。これ以上考えるのはよそう。夢のことは忘れた方がいいのかもしれない。何か恐ろしい真実が隠されている、そんな気がしてならない。

 マリーは幼いながらに聡い子どもだった。夢にのめり込むことに不安を覚え、なるべく考えないように努めた。書き留めていた紙の束は、迷った挙げ句に古い洋箪笥の奥へしまい込むことにした。

 マリーは再び孤独になった。

 学校でいじめられても、母からひどい折檻を受けても、姉に理不尽なことを押しつけられても、泣かないように努めた。

 ベッドの中で涙をこらえることが、こんなにつらいなんて……

 幽霊に優しく触れられる前までは、なんともなかったのに。滅多に泣かなかったし、ただ黙って感情を殺していられたのに。自分がいかに弱くなってしまったのかを悟ってうらめしくなった。

 あの晩から幽霊の方もどこかぎこちなく、わざとこちらと距離を空けている感じがした。だが、マリーがひとりで苦しい胸を押さえて目を閉じ、懸命に眠ろうとしているとき――背中に、一瞬だがひやりとした冷たさを感じる瞬間があった。

 ――お願い、もう触れないで。弱くなってしまう。また頼ってしまう。夢の光景にすがりたくなってしまう。夢について、知りたくなってしまう。

 どれだけ拒んでも、マリーは再び夢の中であの美しい庭園に立ち、鮮やかな光景を胸に焼きつけてしまうのだった。

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