第六話 まぼろしの庭園

 その光景を見たとき、これは夢だとすぐに悟った。

 鮮やかに輝くばかりの一面の緑――マリーは今、屋敷の庭に立っていた。空は明るく、からりと晴れている。こんな真昼間から外に出ていたらカトリーヌに真っ先に見つかって、母親に告げ口されてしまうに違いないのに。目の前に木製の脚立があって、その上から枝や葉がばさばさと落ちてくるのをただ眺めているだけだった。

「ぼさっとしてないで、集めておけ」

 脚立の上からしわがれた男の声がした。マリーの知らない声だ。だが自分は当然のようにうなずき、地面にちらばった枝葉をバケツへ放り込んでいく。

 男はシャツとズボンに簡素な前掛けをして、少しくたびれた帽子と手袋をつけていた。そういえば自分も同じような恰好をしている。

 男は作業を終えると地面に降り立ち、脚立をかついで歩いて行った。マリーも男のあとについて、古びたブーツで芝生を踏みしめる。視線がぐるりと動いたので、マリーにも辺りの様子が見えた。はっと目を見開きたくなる――ここは、本当に自分の知る屋敷の庭だろうか? まるで別世界だった。見渡す限りの青々とした芝……屋敷の正面には円形に刈り込まれた色とりどりの沈床花壇があり、屋敷の両脇には四角い石造りの柱と、柱にからみつく分厚いツタ、散らされた赤や白の小花が見える。どれも見覚えのない光景だった。

 呆然としていると男が立ち止まった。屋敷の敷地を取り囲む生け垣の内側に、綺麗な円錐に整えられたイチイが林立している。その中の一つの側に脚立を立てる。

 男が上った。ぎしり、脚立が軋む。自分は足元のバケツから大きな鋏を取り出して男に手渡した。

 芝が風に揺れる。じりじりと太陽が照りつけているのがわかるほど鮮やかに輝いているのに、不思議と暑さは感じない。マリーが感じ取れるのは視界に映る光景と、物音だけだった。だから、背後でざくざくと響く足音にも気がついてはいた。

「あの!」

 焦ったような女性の声に、自分はやっと振り向いた。黒地のワンピースに白いエプロン姿のメイドが一人、ばたばたと小走りにやってくる。

「もうすぐお産まれになりそうなの! ちょっと、来て、手伝って!」

 目線が脚立の上を見る。男は帽子をかぶりなおし、「いよいよか」と言った。それから手で促した。

「手伝ってやれ。ここはもういい」

 自分はうなずいて、小走りのメイドについていく。広々と美しい、整えられた庭園の中を突っ切って、屋敷の裏口に飛び込んだ。


***


 は、と目を開ける。物置部屋の窓から眩しい光が差し込んでいた。いつの間にベッドに横たわっていたのだろう。

 夢に見た光景をぼんやりと思い起こす。あれはなんだったのだろう。屋敷の庭の光景のはずなのに、様相がまるきり違っていた。

 ベッドから降り立ち、小さな窓を開けて秋晴れの空の下に広がる庭を見下ろした。しかしここから見えるのは屋敷の裏側だ。夢で見たのは正面だけだった。

 庭へ出て、夢の光景と今とを見比べてみたかった。だがマリーは出歩くことを禁じられている。母に見つかったら一巻の終わりだ……。

 ふと、下の玄関先から慌ただしい物音がした。扉が開き、ばたばたと出て行く足音……正面玄関を使っていいのは母と姉だけだ。マリーや使用人たちはキッチンに近い裏口を使わなければならない。

 しばらく耳を澄ましていると、がらがらと馬車の走る音が空気を揺らして遠ざかっていった。

 ――二人が、いなくなった!

 マリーの心が喜びに突き動かされる。いてもたってもいられなくなり、部屋の扉を勢いよく開く。

 丁度、階段の手すりを拭いていたメイドと目が遭った。あの若いメイドだ。

「お嬢様、お早いお目覚めですね」

 なぜかとても嬉しそうな笑みを見せる彼女に、はやる胸を抑えながら訊ねる。

「あの、お母さまと、お姉さまは……」

「お二人とも、隣町の劇場へ行かれましたよ」

 マリーは口元がほころびそうになるのを必死に抑えねばならなかった。

「そう……あの、どれくらいに帰るの?」

「ディナーを召し上がってからお帰りになるとお聞きしております」

「そう……」

 二人は時々、休日にでかけることがあった。それはマリーに与えられた束の間の休息――神から与えられた幸福の時間だった。

「あの……わたし、庭を見てみたいの」

「えっ」

 人の良さそうなメイドの笑みがたちまち凍りつく。

「そ、それは」

「どうしても、外の空気を吸いたくて。……やっぱり、だめかしら」

「お嬢様……」

 メイドは気の毒なほど狼狽していた。マリーは申し訳なさに目を伏せる。

「わかっているわ。言ってみただけだから」

 メイドはごくりと唾を呑み、周囲の気配を窺ってから声を潜めた。

「お庭へ出られるのはさすがに、厳しいとは思いますが……二階の窓から見下ろすくらいなら、問題はないかと思います」

 それだけ言って、彼女は雑巾とバケツを手にそそくさと立ち去ってしまった。静まり返った廊下に立っているのはマリーだけ。念のため階下の様子も覗いてみたが、幸い人の気配はなさそうだ。

 分厚い絨毯に足音を吸い込ませるようにして廊下をぐるりと回り、反対側の窓にたどり着く。背の高いアーチ型の窓の錠を下ろして静かに開け放った。

 清々しい光が空から振ってきて、マリーの白い頬を照らした。爽やかな涼しい風がそよぎ、眼下に広がる一面の芝を揺らしている。

 母が庭師につくらせた庭は実にシンプルで、だだっ広い緑と花壇があるばかりだ。綺麗といえば綺麗だが、夢で目にした光景はこんなものではなかった。画家が写生させてくれと頼みこんで来そうなほどの、芸術的な価値があったのだ。

不思議だった。夢とはいえ、自身が到底想像もできないような景色をあれほど細かく鮮やかに映し出せるものなのだろうか。その上まったく見知らぬ人物まで登場させて。

 メイドの制服も、今思い返せば少々時代がかっていて古いものだった。ならば、あれは過去の映像なのだろうか。夢で屋敷の過去を垣間見るなんてことが起こりうるのか? ここで暮らして五年ほど経っているが、一度もこんなことはなかったのに。

 ぐるぐると考え込むマリーの背中に、すっと冷たい感触が甦った。物置部屋の幽霊の存在が頭をよぎる。

 彼は生前この屋敷に住んでいた者で間違いないだろう。最近になって彼との接触が増えていることが影響して、過去の映像を見てしまったのかもしれない。図書室で借りた怪奇小説に似たような物語があったのを思い出す。

 マリーは物置部屋に戻るとまっすぐ机に向かった。用紙を並べてペンを取り、夢で見たことをそのまま書き綴っていく。そして最後に、次のように締めくくった。

〝夢から醒めたとき、なぜかとても胸が痛んだ。切なくて苦しい感情……夢でのわたしが抱いていた気持ちの余韻だろうか?〟

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る