第五話 とめられない涙

 マルグリットは朝から頭痛に苦しめられていた。このところ毎日だ。朝食を食べる元気もないが、我が子の登校だけは見送らなければならない。

「お母様、無理なさらないで」

 制服姿のカトリーヌは、頭を押さえる母の姿に顔を曇らせた。

「カトリーヌ……」

 愛しい我が子を抱きしめ、金の髪に触れる。自分の血が与えた豊かな髪。自慢の髪……。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 屋敷の外で待つ友人らの方へ、カトリーヌは軽やかに駆けていく。

 ふと、何かぞっとするような気配を感じて振り向いた。階段の踊り場に黒髪の少女が立っている。今日は一段と顔色が悪かった。青く透けるような頬に、ぼさぼさと長い黒髪は、まるで打ち棄てられた亡霊のようだった。

「不愉快だわ、近寄らないで!」

 気がつけばそう叫んでいた。

「はやく、私の前から消えなさい!」

 す、と少女の足が動く。いつもならマルグリットの叱咤する声に大げさなほど肩をびくつかせるのに、まるで聞こえていないかのようにまっすぐに階段を下りてくる。

 すれ違い様、マリーの眼が一瞬だけこちらを見た。その深い湖底のような青い瞳を目にした瞬間、マルグリットの腹の底がふつふつと高速で煮え立っていく。

「この……っ」

 気づけば頬を張り倒していた。

「朝から不快な眼を見せないで! 薄汚い、穢らわしい……」

 マリーは数歩よろめいたが、何事もなかったかのように再び歩きだした。ぼさぼさと広がる長い黒髪を背に揺らして。

 夫ベルナールの髪も鴉の羽根のように黒い。だが、眼は。あのぞっとするほど青い瞳は、夫のものでも、自分のものでもなかった。マリーは穢れた子だ。忌むべき子だ。間違って生まれてきた娘なのだ。

 マルグリットはよろよろと居間にたどり着くと、揺り椅子にどさりと腰を下ろした。ゆらゆらと揺れながら、ここにいない夫に思いを馳せる。

 彼を先に愛したのは自分だ。そう思っていた。どこにいても誰が相手でも白衣で出歩くような彼のことを、好きになるような人が他にいるとは思わなかった。顔の造形は確かに整っているが、世間の女はそれ以上に周囲の目を気にするものだ。だが、マルグリットは違っていた。年がら年中白衣姿で研究に没頭するような変わった性格も、この愛をなんら阻む物ではない。

 彼も同じだと思っていた。きっかけはこちらの提示した資産だったかもしれないが、一緒に暮らせばきっと愛してくれると思っていた。カトリーヌの存在がその証だった。夫の眼と自分の髪を持つ彼女の姿を見ているだけで、自分は世界で一番幸せだと思えたのだ。

 だが、違った。

 彼の中にはとっくの昔に違う女が棲みついていた。それはマルグリットに出会う前から彼と研究を共にしている助手の女だった。二人は好き合いながらも、研究に没頭するあまり結婚に発展しなかっただけだったという。そこへマルグリットの父が現れて、強引な根回しによって二人を引き離したのだ。

 その事実が発覚したのは、カトリーヌが二歳になる頃だった。まだ小さい娘がいるのにも関わらず研究所に籠もりきりなベルナールに不満を抱き、直接研究所に乗り込んだ。建物の奥の休憩場所で、彼は助手の女を抱きしめていた。互いの腕が腰に絡んで、しっかりと強く……自分は一度もしてもらったことがないような熱い抱擁だった。そして、陰に潜むマルグリットの視界の中で、互いの唇を貪り合ったのだ。

 怒りのあまり自ら飛び出し、二人を厳しく糾弾した。喉が引き裂かれそうなほど叫んだせいだろうか、研究所の奥から、小さな子供が不安げな顔でよちよちと壁伝いに歩いてくるのが見えた。濃い黒髪と青い瞳を持った少女……あの忌々しい女に似た眼をした子……。

 その子供ごと助手を追い出そうと思ったが、あろうことか彼女は自ら一人で行方をくらましたという。行き場を失った娘を自分の子としてちゃんと育てたいと、夫は言った。しかも、研究所に置いておくわけにはいかないから家で育ててほしいと。それが妻にとってどれほど残酷な仕打ちなのか、彼は果たして理解しているのだろうか。

 マルグリットは嫌だとむせび泣いたが、どうすることもできなかった。有数の学者である夫は少しばかり有名だ。子供を施設に打ち棄てでもしたら大きな醜聞になってしまう。

 あの娘の存在が外に漏れないよう、当時住んでいた屋敷の地下倉庫に閉じ込めた。ねずみが出るのでかわいそうだと口にした使用人は全員解雇した。もちろん、帰った先で口外したらただでは済まないと十分に脅しつけて。

 だが、いったいどこから漏れたのか、隠している子供の存在が噂になり始めていた。このままでは将来カトリーヌが学校へ行き始めたときにいじめられるかもしれない。自分たちは何も悪くないのに、世間から追い立てられていく……。

 夫はどうせ帰ってこない。知り合いのいない片田舎に避難しようと決め、父に頼んで家を探してもらった。そしてこの屋敷を見つけたのだ。少々古いが元いた邸宅よりも大きく立派な建物だった。元々地主が住んでいたらしいが、使われなくなってから五十年ほど、管理人が一人で維持していたらしい。

 管理棟は屋敷を取り囲む樹林の中に小さくひっそりと建っている。これなら妙な詮索もされずに済むだろう。元々物置部屋だったという狭い部屋にマリーを閉じ込めることにした。使用人たちを厳選し、マリーの扱いに疑問を持たない者たちを雇った。

 ここまでしても、まだ怒りは収まらない。この胸に渦巻く感情は一体どこへぶつければいいのだろう。

 頭痛が激しくなってくる。こめかみを金槌で直接叩かれているかのような痛みに、歯を強く食いしばる。

 こんなとき、傍にいてくれる人がほしい。

 いてほしい人はここにはいない。彼の体も、心も、遠く離れた場所にいる。


 宿題をやってこなかったのでマリーは学校の廊下に立たされた。いつも真面目にやっているので、普段なら「次はきちんとおやりなさい」と言われるだけで済みそうなものだが、昨日のこともあってか先生は黙って廊下を指差し、立っていなさい、とだけ命じた。

 廊下にひとり、ぽつんと立つ。朝の日差しが窓から差し込んで、古い木床をうるさいほどに彩るのをぼんやりと眺める。

 まだ冬は訪れていないのに、指先がきんと冷えるような感覚があった。一晩中幽霊のからだに包まれていたせいだろうか。指先だけではない、全身がひやりとしたヴェールに覆われているようだった。それが、外の刺々しい視線や言葉からマリーを遮断してくれるように感じた。

 そう、心地の良い冷たさなのだ。ともすれば凍えてしまいそうなのに、彼に触れていると心の奥底に何か温かいものが湧いてくる気がするのだ。

 今こうして廊下に立たされている今も、つらくはない。だが一刻も早く帰りたかった。そして夜になってほしかった。

 学校が終わると、マリーはまずカトリーヌの動きを探る。今日の彼女はまだ教室から動きそうになかった。やけににやにやしながらこちらを見ている。嫌な予感に、早く立ち去ろうと鞄を手に立ち上がった。

 ぼとり。

 何か柔らかいものが床に落下した音がした。鞄からこぼれ落ちたような感触だった。マリーは左手に持つ鞄をこわごわと見下ろす。

 いつの間にか蓋がわずかに開いていた。その隙間から小さな白い何かがいくつも顔を出し、ぴくぴくと蠢いている。

「きゃあっ」

 思わず鞄を放り投げた。どさりと床に落ち、開いた口から小さな白いものがいくつもうぞうぞと床を這い出していく。

「きゃーっ」

 カトリーヌがわざとらしい悲鳴をあげた。

「だれか、来てーっ! マリーの鞄に虫がいっぱい湧いているわ!」

 教室中がたちまち悲鳴に包まれた。誰かが呼んだのか、一度出て行った先生が再び息を切らして駆けつけてくる。

「なんのさわぎです!」

 先生は教室に踏み入るなり、床に投げ出された鞄と、周囲に蠢く白い虫の惨状に顔をひきつらせた。そして、青白い顔で突っ立っているマリーの方へ目を向ける。

「あなたの仕業ですか?」

「先生、マリーの鞄から虫がいっぱい出てきたんです!」すかさずカトリーヌが訴える。

「彼女、鞄に虫が湧いていたんです!」

 マリーは慌てて首を振った。

「違います、そんなこと、ありえません。今朝見たときは何もいませんでした」

「嘘おっしゃい! マリー、あなた家でも不潔にしているじゃないの。好き好んで物置部屋にいるでしょう!」

 視界がかっと赤く染まった気がした。頭に血が上る。得意げにこちらを糾弾するカトリーヌにふつふつと憎悪が湧き起こる。

「だれのせいで……」気がつけばそう口走っていた。

「みんな、あなたと……お母さまが……」

 唇が戦慄いて明瞭な言葉にならない。

 先生が間に割って入り、マリーに向かって命じた。

「とにかく、持ち込んだ虫を一匹残らず掃除なさい。いいですね?」

「……そんな」

 わたしじゃないのに!

 マリーは床にしゃがみこみ、震える手で虫を一匹一匹掴み取らなければならなかった。先生から渡された袋に、ぼと、ぼと、と白く太った虫を落としていく。その感触がいちいち生々しくて、吐きそうになるのを必死にこらえた。

 地獄のような時間が終わり、鞄を抱えてとぼとぼと帰路についていると、その道中でカトリーヌに出会ってしまった。取り巻きの女子たちもいる。

「ああら」

 彼女はくすくす笑いながらマリーの肩を小突いた。

「掃除は終わったのかしら? 不潔なマリー」

「物置で寝てるってホント?」

「だからいつも髪がぼさぼさなんだわ。どこか不気味なのよね、おばけみたいで」

 口々にかけられる言葉に背を向け、坂道を上っていく。拳をぐっと握りしめた。指先の冷たさが薄らいでいる……

 その夜、カトリーヌは性懲りもなく宿題を部屋に押し込んできた。彼女は勉強が得意でないが、悪知恵だけはよく回った。母の後ろ盾がある限りマリーが自分に逆らえないことを知っているのだ。

 再び先生にばれたら、今度こそ母親から殺されてしまうかもしれない。死ねるなら本望だが、あの母親に殺されるのだけは納得がいかなかった。死ぬときは穏やかに、一瞬で自分の時を止めたいのだ。痛みや悲しみや怒りに満たされるのはいやだった。

 悩んだ末、マリーは左手で自分の宿題を書くことにした。到底読める字ではないが、構わない。手を痛めたとか、いくらでも言い訳はできる。

 ぽたり。

 眼から大粒の雫が落ちて、紙の上に染みこんだ。ぽた、ぽた、苦心して書いた文字の上へ続けざまに落ちて、インクが滲んでしまう。慌ててペンを置き、両手で目を押さえる。

 何が悲しくて涙が溢れるのだろう。宿題をさせられるのも理不尽なことで怒られるのも、今に始まったことじゃないのに。今日の虫だって、過去一番酷い嫌がらせだが、それでも嫌がらせのうちの一つにすぎないのに。

 涙を流してはいけないと決めたわけではないが、泣きたくはなかった。我慢できるならしていた。それなのに、昨日も今日も、せき止めていたものが崩れたように簡単に涙が溢れてしまう。

 心が弱くなってしまったのだろうか。嗚咽まで漏れてきて、もう止まりそうになかった。早く宿題を終わらせて眠りたいのに。

 そのとき、椅子に座るマリーの身体にぞくりと悪寒が走った。背中にぴたりと氷が張りついたような感覚――彼だ。彼がまた、マリーの身体に触れている。

 宿題をしている間もずっとどこかから見られている感じはあったが、いつの間に傍にやってきたのだろう。足元からじわじわと冷たい空気が這い上ってくる。

 顔を覆う手に、ふわりと冷たい感触を感じた。背後から触れられている。涙に濡れた手も両の眼も、覆い隠すように。

 相手は恐ろしい幽霊のはずなのに、いつしか心の底でもたれかかっている自分に気がついた。幽霊の存在よりもそのことの方が恐怖だった。自分はこのまま、彼に取り込まれてしまうのだろうか。多くの逸話にあるように、死の世界へ誘われてしまうのだろうか。

 いや、そんなことがあるわけない。こんなにも優しく包み込んでくれているのに……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る