第二話 昼は痛くて、夜はこわい

 考えてみれば、嫌なことばかり。

 ぱちぱち爆ぜる暖炉のそばで、マルグリットは刺繍しかけていたハンカチを膝に置き、ずきずき痛むこめかみを押さえた。

 夫ベルナールと結婚したての頃は、父が建ててくれた豪華な邸宅で二人幸せに暮らしていた。娘が生まれて、順風満帆な生活に感謝し、毎日神に祈りもしたものだ。

 それなのに。

 こめかみを押さえるマルグリットの耳に、遠くで扉の開く音がした。影のような存在感のない足音ですぐにわかる。愛する我が子ではない。忌々しい、あの女の娘……!

 控えめな足音はどんどん近づいてきて、居間の扉の取っ手が動いた。遠慮がちに開いた扉の隙間から、真っ白な顔と、鬱陶しい長い黒髪が覗く。

「ただいま、帰りました……」

 蚊のなくような声に、マルグリットはひどく苛立ったため息を漏らした。

「さっさとあっちへ行って。顔も見たくない」

 少女はびくりと肩をこわばらせ、悲しげにうつむいた。ゆっくりと扉が閉まっていく。

 何よ、まるで私が悪人みたい!

 悪いのはあの女と、あの女の血を引くあんたでしょう!

 心の中がいらいらと黒い感情に覆われ、マルグリットはソファのクッションを掴んで扉に向かって投げつけた。建てつけの悪い扉が、ばん、と音を立てて揺れる。

 荒い息を吐きながら肩を怒らせていると、続いて正面玄関の扉の開く音がした。スキップするように軽やかな足音。そして、元気よく開かれる扉。

「ただいま帰りました、お母様!」

 愛娘カトリーヌの快活な笑顔を見た途端、マルグリットは両の眼から涙をあふれさせた。

「お母様?」

 カトリーヌが慌てて駆けつける。ソファにくずおれた母親の肩や背を夢中でさする。

「大丈夫? どうなさったの? どこか、痛いの?」

「おお、おお……」

 肩を震わせて泣きながら、マルグリットは娘のつやつやとした頬を両手で包み込んだ。

「よくみせて……お顔をみせて……」

 ふっくらと愛らしい頬に、健康的な唇。少しつり目がちの眼はまぎれもない、父親の眼だ。赤茶色をした瞳……あの人と同じ瞳……。

「お母様」

 心配そうな表情の我が子を思い切り抱きしめる。その背に垂れた豊かな金髪は自分の血だ。まぎれもない、自分とあの人の血でできた娘……この十二年、大切に育ててきた……。

「なんでもないわ」

 マルグリットは涙をふきながら首を振った。

「なんでもないのよ。……ココアを淹れてもらいましょうね。学校はどうだったの? お話をきかせて」

 傍のベルの紐を引いてメイドを呼びつける。

 親子仲睦まじく過ごす居間の上、屋敷の二階の端にひっそりと佇む簡素な扉がある。その向こうには、元々物置として使われていた狭い部屋があり、マルグリットにとっては忌々しくて仕方のない娘、マリーがいた。

 マリーは粗末な作り付けの机に、革の鞄をどさりと置いた。留め金を外して蓋を開ける。中に手を突っ込み、くしゃくしゃと丸まった紙くずや土の塊を取り出して、ごみ箱に落としていった。

 マリーはカトリーヌと同じ女学校に通っており、誕生日が二月しか違わないので同じクラスであるが、一緒に行ったことはない。顔を合わせればすぐにいじめられるので、できるだけ時間をずらして行くようにしていた。おかげでいつも遅刻ぎりぎりだった。

 カトリーヌは見事な美しい金髪を持ち、明朗快活な性格も相まっていつも自信に満ちあふれていた。周囲に取り巻くクラスメイトたちは彼女の声に従い、機嫌を損ねないように気を配っていた。

「みんな、この子は私の家で引き取った、かわいそうな子なの。でも卑しい生まれだから、私たちとは違うのよ。だからみんなでこの子に教育してあげて!」

 彼女はいつもそう言って、マリーを棒で叩いたり髪を引っ張ったりした。くず入れのごみや校庭の砂をかけられることはしょっちゅうだったし、机や鞄に落書きをされた。あること無いこと、教師に告げ口されたこともある。誰かの物がなくなったとき、真っ先に濡れ衣を着せられた。その時が一番つらかった。

「人の物を盗むなんて! この卑しい、ごうくつばり――!」

 屋敷に帰ると母から頬が腫れ上がるほど叩かれて、見上げた視線の先に意地悪くほくそ笑んでいるカトリーヌがいた。その時、マリーの中でどす黒い感情がうずまいた。この感情に形と意思があったなら、マリーの体から抜け出てたちまちのうちに母と姉の首を絞めていたに違いない。それほど強く激しい感情を抱いてしまったことに、マリーは罪悪感を覚えた。その晩はひたすら自分の汚い心を責めた。

 仕返したい、殺したい、そんなことを考えてしまったら、あの人たちと同じになってしまう。醜い顔になってしまう……。

 マリーは鞄に詰められたごみくずを捨て終えると、椅子を引いて机に向かった。宿題だけはきっちりと終わらせなければならない。

 かりかりと簡単な外国語の問題を解き進める。しばらくして階段を駆け上がる足音がした。どさどさとうるさいこの足音はカトリーヌだ。彼女は一旦、更に上まで上がっていき、まもなくしてまた戻ってきた。廊下を走ってまっすぐこちらにやってくる。

 足音はこの部屋の前でぴたりと止んだ。そして、扉と床の細い隙間から薄い冊子をいくつか滑り込ませてきた。

「今日の晩までに終わらせといて」

 意地の悪い声が扉の向こうで囁いた。

「終わらせてなかったら承知しないわ」

 それから、カトリーヌは再びどこかへ行ってしまった。おそらく自室だろう。そこで好きな本を読んだり、オルゴールを鳴らしたりして過ごすに違いない。

 マリーは大きなため息を吐いた。自分の宿題を終わらせると、のろのろと扉の方へ歩み寄って、差し入れられたカトリーヌの宿題を開く。

 彼女は何かあると都合良くお腹が痛くなり、面倒事をマリーに押し付けるのだ。もちろん断ってはならない。逆らえばより酷い目に遭わされる。それはもう、この親子と共に暮らしてきた数年の記憶が物語っている。

 マリーは感情という感情を押し殺しながら、一心に宿題を片付けていった。先ほど自分もやったことを、もう一度繰り返すだけだ……なんてことはない……。

 夜になるとカトリーヌが階段を駆け下りていく足音が響いた。キッチンの方から漂う香ばしい匂いに、いてもたってもいられないのだろう。マリーの薄い腹もきゅうと鳴った。

 母も姉も、今は下にいる。お喋りに花を咲かせながら、一緒に温かな食事をとっている。マリーは書き終えた宿題を手に、そっと部屋を出た。

 この屋敷の中ではできるだけ存在感を消さなくてはならない。マリーの気配は母から好まれていなかった。だから、二人ともしばらく上がってこないこの時間が絶好のタイミングだった。足音を忍ばせて三階へ急ぐ。本来は立ち入り禁止の三階へ。そして、カトリーヌの部屋の前へ。

 扉を細く開いて、戸口の内側に冊子を立てかけておく。たちまち扉の隙間から甘ったるいにおいが鼻を衝いた。カトリーヌは母にならって、いつも香水をつけていた。つけていれば同級生たちから羨ましがられるからだ。彼女のいた場所には甘い香りが漂っているのですぐにわかる。――マリーは顔をしかめ、急いで扉を閉めて、階段を下りていった。

 物置部屋の前にメイドの姿があった。ここに引っ越してきた時に新しく雇われた、母より少し若い女性だ。彼女は食事の載った盆を手におろおろと立ち尽くしていたが、マリーの姿を見つけると、途端にほっとしたような顔になった。

「ああ、よかった……一体どちらに行かれていたのですか」

「お手洗いに……」

 掠れた声で返すと、彼女はことさら安堵したように胸を撫で下ろし、盆を手渡してくる。

「よもや、三階には行っておられませんね」

「ええ」

 マリーは盆を受け取るとぺこりと頭を下げた。

「すぐに食べて返します」

「いえ、どうかゆっくりお召し上がりください。いつも通り戸口の方に置いてくだされば、あとで回収に参りますから」

「……」

 盆を手に、そそくさと扉を閉める。彼女も彼女だ。忌むべき娘と必要以上に言葉を交わしては、恐ろしい母親からどんな罰を受けるかわからないのに。妙に情の深いあのメイドは、来た当初から隙あらば親切な言葉をかけてくれようとしていた。それが余計にマリーの胸を痛めているとは知らずに。

 どうか、自分のことは放っておいてほしい。この屋敷で平和に働きたいのなら。

 以前にもマリーに情けをかけた使用人がいたが、カトリーヌに見つかって母親にすぐ告げ口された。怒ったマルグリットは彼女をその場で解雇し、追い出したのだ。

 もうあんなことは繰り返してはいけない。

 盆に載った蓋を取ると、薄らと湯気の立ち上るスープとパン、魚のソテーが見えた。マリーは使用人と同じ食事しか許されていないが、十分だ。これでも良くなった方で、前にいた家ではパンひとかけらしかもらえなかったのだから。

 薄暗い部屋の卓上に古びたランプが一つ。その明かりの中で、たった一人、わずかに野菜屑の浮いたスープを啜り、パンを囓る。この時間になるたびに、自分はまだ、確かに生きていると感じる。幸せなのだと言い聞かせる。

 食べ終えた盆は戸口から外に出しておく。ただし、階段から見えない、絶妙な角度に置かねばならなかった。母の視界に少しでも入れば気分を害してしまうからだ。

 眠るときは下着一枚になって毛布に包まる。カトリーヌは素敵なネグリジェを与えられているが、そんなものは到底望めない。

 ランプを消した。部屋はたちまち真っ暗闇に包まれた。静寂が闇に溶け込み、より一層濃く、重たいものになる。小さな窓はあるが、今日は雲に隠れて月も星も見えない。……

 マリーは目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。

 もうすぐ現れる。いや、本当はずっとそこにいるのかもしれない。でも感じられるのは夜だけだ。

 やがて狭い物置部屋の隅から黒い影がゆらりと立ち上る。部屋の空気がじわじわと凍りつき、身も凍るような冷たい気配に満たされていく。マリーは毛布の裾をぎゅっと握りしめて縮こまった。

 ここへ来たばかりの頃、いきなり金縛りにされて身動きが取れなくなった。あれから年月が経っているのに、今でもあの恐怖は頭にこびりついている。だが今は部屋の隅にじっと佇んだまま、近づいたり触れたりはしてこない。

 姿も声もわからないこの気配について、マリーはなんとなく男ではないかという気がしていた。自分よりもっと年上の男。そしておそらく、この屋敷の、前の住人。

 彼はこの部屋から一歩も出た様子がない。もしかしたらこの屋敷で――この物置部屋で亡くなったのかもしれない。空っぽになった屋敷の中で長らく安らかに過ごしていたのに、母と姉と自分が引っ越してきてしまい、さぞ迷惑に思っているだろう。

 マリーは薄目を開けて部屋の隅の暗がりを見た。混沌と渦巻く暗い陰からやはり強烈な気配を感じる。なんとなくだが、目が合っているような気さえするのだ。

 前の家より綺麗な部屋を与えられたことは嬉しいが、ますます居場所がなくなってしまったような気がした。

 ――ごめんなさい。

 マリーは今日も、心の中で呟きながら眠りに落ちる。わたしもここしか居場所がないの。ここでしか生きていけないの……。

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