第三話 昼は痛くて、夜はこわい 二
次の日も、マリーは登校時間ぎりぎりに教室へついた。既に先生が教壇に立っていて、みんなの宿題を集めているところだった。
「遅刻ぎりぎりですよ、ミス・フィーメル。さあ、宿題をお出しなさい」
マリーは厳格な女教師に近づき、落ち着いた様子で宿題を手渡した。席に着く傍ら、視界にカトリーヌの様子が見える。彼女は呑気に隣の席の子となにやら小声で話している。
先生はマリーの提出した用紙をじっと見つめていた。何事か考え込むような目をしている。そうして、集めた用紙の束から一枚引っ張り出して、マリーの用紙と見比べるような仕草をした。
「ミス・フィーメル」
先生が固い声で呼ぶ。
「二人ともこちらへいらっしゃい」
たちまちカトリーヌの表情が強ばった。マリーの方へ、きっと鋭い目を向ける。
二人はこわごわと先生について教室を出た。先生は廊下の曲がり角まで来ると、手にした宿題の用紙を二人に見せる。
「二人とも、これはどういうことです」
「ど、どうって」
明らかに動揺した様子のカトリーヌ。
「ずっと疑問に思っていましたが……二人は姉妹ですし、字が似ているところがあっても不思議はないかと、今日まで見過ごしてきました。しかし、今回の文字は明らかに、二人ともそっくりすぎます。おまけに……作文の文章まで、一言一句そのままです」
たちまちカトリーヌの顔から血の気が引いた。マリーは表情を崩さない。ただ押し黙って先生を見上げている。
「どちらかが、二人分の宿題をやりましたね?」
「あ、あたしですっ」
泣きそうな声でカトリーヌが訴えた。
「今まで言えませんでしたけど、全部、あたしが、やっていました……っ」
「どういうことです」
「だって、マリーが、わたしは忙しいとか言って、全然しないんですもの……っ」
「それは本当ですか?」
先生が眼鏡を押し上げ、厳しい目つきでマリーを見る。
マリーは何も言えずにうつむいた。本当は自分がやった、やらされていたのだと大声で叫びたい。だがそうしてしまったら、カトリーヌは家に帰って母に自分のことをどんな風に言うだろう。そして、曲解した母がどんなに恐ろしい形相で自分をぶつだろうと思うと、怖くて体が竦んでしまうのだ。
「本当のことをおっしゃい」
先生の厳しい声に涙が出そうだった。違うのに、全部自分がやったのに……
結局、マリーの喉から声が出ることはなかった。先生は、押し黙ったままのマリーに首を横に振り、「残念です」と呟いた。
「この件はお母様に報告しなければなりません」
「えっ」
初めて声が出た。マリーの目に絶望が走る。
「お母さまに……」
「当然でしょう。今までの宿題をすべて姉妹にやらせていたなんて。これはゆゆしき事態ですよ」
「待ってください、先生! 待って……っ」
先生はそれ以上何も言わずに、教室へ戻っていってしまった。カトリーヌはくすっと笑ってマリーに耳打ちする。
「たすかったわ。ありがとね、マリー」
眩しい金の髪をふわふわとなびかせて、カトリーヌも去っていく。廊下の端に一人取り残されて、マリーはその場にうずくまった。
休み時間になると、カトリーヌはさっそくこのことを皆に言いふらした。
「うそー」「信じられない!」
クラスメイトたちはマリーに汚い物を見るような目を向けた。
「カトリーヌったら、なんてかわいそうなの! 今まであんな子の分までやっていたなんて!」「今までよく耐えてこられたわね」
刺々しい言葉が四方から飛んでくる。だが、いちいち傷ついてはいられなかった。
――先生が母に連絡したら……一体自分はどうすれば……。
「なんとか言いなさいよ!」
がん、と椅子が蹴られる。女子たちのくすくす声が上がった。
「卑怯者。宿題やらせるなんて最低よ」
「なによその目!」
「生意気だわ」
誰かに髪を掴まれ床に引きずり下ろされる。するとカトリーヌがやってきて、こちらを見下ろした。手にはマリーの鞄がある。にやりと口端をつり上げて、鞄の留め金をぱちんとはずした。
「今までさぼった分よ。そら、受け取りなさい!」
頭上で鞄がひっくり返された。教科書や用紙の束やペン入れがどさどさと振ってきて、顔や腹を打った。
「いい気味だわ!」
ほほほと高笑いが響く。どこからか硬い革靴の先が飛んできて腹や脚に打ち付けられた。痛みでうめき声が漏れるのを必死に押さえる。体を丸めて縮こまる。
大丈夫、休み時間が終わるまであともう少し。もう少しで先生が来る。みんな三分前には離れるから、その時になって一緒に起き上がれば問題ない。鞄や教科書は、ぶちまけてしまったと謝ればいい……今まで、そうしてきたのだから。
体に打ち付けられる痛みと罵声を耐えながら、マリーは下唇を噛みしめた。
学校が終わると、いつも寄り道するカトリーヌが今日はうきうきした顔でまっすぐに家に飛んで帰っていた。先生に先んじて、今朝のことを告げ口するためだ。
マリーが帰宅すると、案の定、凄まじい形相の母が居間で仁王立ちしていた。
「そこに立ちなさい」
母の声が震えている。
「何か、渡す物があるでしょう……」
マリーの足ががくがくと震えだした。やっとの思いで鞄に手をかける。蓋を開けて、先生から預かった白い封筒を取り出した。
「ぐずぐずしないで!」
きんと響いた母の声にびくつきながら、手紙を差し出した。母は奪い取るようにして封筒を開く。中の手紙に目を通した途端、目が悪鬼のようにつり上がった。
「おまえという子は……!」
次の瞬間、頬に鋭い衝撃が走った。身体がよろけ、壁に頭が打ち付けられる。
「カトリーヌに全て押しつけて! なんて卑しい! 穢らわしい!」
ばん、ばん、何度も何度も、叩かれる。頬がひりひりと腫れ上がり、身体が軋む。足に力が入らなくなって床にくずおれたが、その度に何度もひきずるようにして立たされた。
「さすがあの女の血ね! 卑怯な手を使って、私の娘によくも……! 私の顔に、泥を塗ってくれたわね……!」
母の平手は拳になった。殴りつけられるたびに鼻から生温かい血があふれ出る。口の中を切ったのか、さびた鉄のような味が広がる。マリーは激しく咳き込み、とうとう一歩も動けなくなってしまった。
「……まったく」
ようやく母は手を下ろした。荒い息を吐きながら、
「おまえのせいで手が痛んでしまったわ。穢されてしまった……どうしてくれよう……」
「お母様、これ以上なさったら、お母様がつらいわ」
カトリーヌが媚びるような声で母にすがりつく。
「それに、あたしはもう、平気よ」
「まあ、あなたはなんて優しい子なの……嫌なことをされたのに、情けをかけてあげるなんて」
「お母様に似たのよ」
カトリーヌは壁にとりつけたベルの紐を引く。
「だれか、きて! この子を部屋まで運んであげて!」
若いメイドがいそいそとやってきた。蒼白な顔で駆けつけた彼女は、床に伸びたマリーの姿に、ひっと顔をひきつらせる。
「奥様、お嬢様、これは一体……」
「余計な詮索は許さないわ」
すかさず、マルグリットが厳しい声音で言い放つ。
「何も言わずに部屋まで運びなさい。今日は一瞬たりとも顔を見たくないし、気配も感じたくないわ」
若いメイドはマリーの体を肩で支えるようにして居間を出た。それから、もう一人のメイドに頼んで両側から体を支える。
「なんてひどい……」
階段を上がる途中、彼女は思わずそう漏らした。すると反対側のメイドが血相を変えて「しーっ」と咎める。
「ばかね、あんた、ここを追い出されたいの」
「だって、これはあんまりにも……」
「いいこと、この屋敷じゃね、この子のことはなんにも考えてはいけないの。なんにもよ。ただ黙って言われたとおりにしなさい」
マリーの身体は廊下を引きずられ、物置部屋の床に放り出された。ばたん、と扉が閉められる。
硬く冷たい床の上で、マリーはぴくりとも動けなかった。力なく目を閉じて、そのまま意識を手放してしまった。
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