第四話 冷たい彼のぬくもり

 目を開けたとき、部屋の中は真っ暗だった。耳を澄ましても何の音も聞こえない。匂いもしない。この部屋には時計がないが、あきらかに濃密な夜の気配がした。

 手足に力を入れてみると、動いた。頬にまだ痛みがあるが大丈夫そうだ。自分はまだ生きている。

 震える足を叱咤して膝をつき、こわごわと立ち上がった。扉にすがりつくようにして隙間を開ける。廊下も真っ暗だ。屋敷の中は沈黙していた。自分は夕方から深夜の今まで床に転がったまま気絶していたのだ。

 腹がきゅうきゅうと音をたてたが、食事の盆は今更来ない。あれだけが一日の楽しみだったのに……。

 ぼんやりとベッドに腰かける。気がつけば手足が凍えそうになっていた。そういえば幽霊は……きょろきょろと見回すが、彼の姿はもちろん見えない。だが確実にここにいる。この空気が凍りつくような冷たさは、まちがいなく彼が現れている証なのだ。

 マリーは背中からベッドに倒れこんだ。このまま目を閉じればすぐに泥のような深い眠りに落ちてしまえる。だが眠ってはいけない。意識を手放してしまったら、明日がやってくる。また苦しい一日が始まってしまう。

 先生の失望した目と、ぶちまけられた鞄の中身と、カトリーヌの高笑いが脳裏に甦った。それから、母の狂ったような折檻の痛み……

 このまま時が止まったらどんなにいいだろう。つらい明日はやってこないし、空腹も感じない。永遠にこのベッドの中で、安らかに眠っていられたら。

 ふいに、マリーの頭に一筋の光が駆け抜けていった。――思いついたのだ。時を止める方法を。これ以上苦しい日々を送らなくてもすむ方法を。

 それはとても素敵な思いつきに思えた。成功すればきっと解放される。すべてから解き放たれて、自由になれる。

 マリーはベッドから降り立ち、そのまま机の前に向かった。何もない簡素な机の上には小さなランプが置かれている。それを手に取り、躊躇いなく机の上に叩きつけた。

 騒々しい音と共にガラスが砕け散った。あまりの大きな音にマリーは飛び上がり、慌てて耳をそばだてる。激しい心音が全身にどくどくと駆け巡った。しばらく待ったが何の物音もしない。母も姉も気づいていない。ふたりともぐっすり眠っているのだ。

 ほっと胸を撫で下ろし、砕けたガラスの破片を拾い集める。その中でもひと際大きくて鋭いものを探しだし、指先に摘まみ上げた。先の尖ったナイフのように先端がきらめく。

 口元がほころんだ。これだ……! 手の中のものを大事に抱えたままベッドに転がりこむ。それからあお向けになり、ガラスの先を胸に向けた。そうだ、服があったらきちんと切れないかもしれない……制服のボタンを開き、下着の首をぐっと伸ばした。たちまち冷えた空気が入り込み、露わになった肌が粟立つ。

 マリーは破片の切っ先を胸にそっと押し当てた。この下には心臓がある。簡単なことだ。このままぐっと力をいれれば……どくどくと脈打つのを止められれば……

 破片を握る手を胸から離して構えた。勢いよくひと思いに。苦しいかもしれないが、今までのことに比べればなんてことないはずだ。

 いよいよとなると、脳裏に様々な出来事が走馬燈のように駆け巡っていった。幼い頃、暗くじめじめしたところに閉じ込められて、ねずみにかじられながら生き抜いたこと、引っ越し先でも毎日虐められ、母からぶたれ続けたこと……

 もう、ぜんぶ、おしまい。

 破片をぐっと握りしめる。手のひらにつんとした痛みが走った。そして、勢いよく胸を刺し貫いた。

 貫ける、はずだった。

 腕が、動かない。腕どころか、指先も、足のつま先も、首も、何もかもぴくりとも動かせなかった。

 ――金縛り……!

 必死に眼だけを動かす。部屋の冷気が一層強く、濃くなった。いつもこちらを見ている彼の視線が全身に重たくまとわりついている。

 ――やめて。余計なこと、しないで。このまま死なせて。時間を止めさせて。わたしには……

「わたしには、明日なんて、いらないの」

 思わず漏れ出た声に自分でも驚いた。口も喉も動かせる。だが、体は縛られたままだ。

「おねがい、おねがいだから、金縛りをやめて……」

 ひやり。今まで感じたこともないような強い冷気が、剥き出しの胸や腹にのしかかっているのを感じる。彼が自分に覆い被さり、ガラスを握る手を抑えているのだ。

「どうして……」

 喉の奥から嗚咽が漏れる。全身を震わせてマリーは泣いた。

「どうして、死なせてくれないの……これ以上、どうして苦しまなくちゃいけないの……」

 今までどれほど痛めつけられていても、ただ暗がりからこちらを見ていただけだったのに。急に干渉してくるなんて……!

 暗い部屋に断続的な嗚咽が響き続ける。見えない幽霊はマリーの小さな体に覆い被さったまま動かない。

 縛られた手の中からとうとうガラスの破片が滑り落ちた。白い胸の上に転がり、無機質な冷たさを肌に伝える。

 それからどれほど時が経っただろうか。まだ外は闇に覆われ、月だけがぽかりと浮いている。マリーの頬には涙が痕を引いていたが、もう泣いてはいなかった。ぴくりと手が動く。縛られてはいない。

 おそるおそる腕を動かして、胸の上に転がった破片を摘まみ上げた。たちまち氷のような冷たさが手首を包み込む。

「待って、ちがうの」

 破片を握りしめたままマリーは首を振った。

「もう、しないわ……本当よ」

 ベッドの下へガラス片が滑り落ちる。木床にぶつかる硬い音が小さく響くと、冷たい感触はそっと離れていった。

 身体から力が抜ける。幽霊にずっと触れられていたせいか、全身が凍えて感覚がなかった。急いで毛布に包まるが、丸めた背中にひやりと冷たいものが触れる。手首を握られていたときと同じ、彼に直接触れられているような感覚に、背筋がぞくりと波打った。

「だいじょうぶ……もう、しないから……」

 目を離せばまた死のうとすると思っているのかもしれない。マリーは言い聞かせるように呟いた。

「絶対、しないから……だから、もう、ゆるして……寒くてこごえそうなの……」

 しかし冷たい感触は背中から離れない。むしろ、手に、足に、腹部に……マリーの全身を包み込むように密着している。

 後ろから、抱きすくめられている……?

 記憶の限り、誰かにそうしてもらった憶えはなかった。いなくなったという本当の母には抱かれていたかもしれないが、あまりに幼い頃のことゆえに一切記憶に残っていない。

 見えない彼が、自分を抱いている。後ろから優しく、でも、しっかりと。

 胸の奥がきゅっと摘ままれるような痛みを覚えた。なんだろう、この痛みは。母の折檻や、カトリーヌやクラスメイトたちから与えられる痛みとは違う、胸の奥にひりひりと沁みいるような切ない痛みは――。

 冷たさは、感じなくなった。むしろじんわりと温かみさえ覚えるようだった。

 胎児のように身体を丸めてマリーは目を閉じる。見えない幽霊に抱き包まれながら、彼女は生まれて初めて、口元に薄らと笑みをたたえていた。

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