34.合鍵

 紗良が仕事を終えて帰ると、丁度茜亭は閉店前の混雑で人が溢れていた。

(月曜日って来たことなかったけど、こんなに混んでるんだ)

 明日も仕事の人は、月曜から飲みに行くのは控えつつ、仕事終わりにひと休憩しに来ているのかもしれない。紗良もそのクチだったからよくわかる。

 家の鍵を借りようと、裏口から店内へ入る。扉を開けると史郎はすぐ紗良に気づいた。


「おかえりなさい」

「お疲れさまです。繁盛してますね」

「そうでもないですよ。もっと混むこともあるので」

 それを一人で切り盛りしているのか。紗良は史郎の手際の良さに感心する。

「あの、お宅の鍵お借りしていいですか?」

「ああ、どうぞ」

 そういうと、史郎は大きめのキーケースごと紗良に預けた。

「店の鍵もありますから、後で取りに行きますね」

「はい。ありがとうございます」


 そしてまたそっと扉を閉め、階段を昇って家に入った

 電気を付け、荷物を片付けると、さっそく夕食の準備に取り掛かった。


(史郎さんが帰ってくるのはきっと21時近いから、それに合わせて準備しよう)


 昨日キッチンを使わせてもらったので、一通りの調味料が揃っていることは気づいていた。無いものは、むしろ史郎の好みではないのだろうと判断する。

 帰り途中に買ってきた自分用のエプロンを付けると、まずは米を研ぐところから始めた。




「ただいま~」

 20時を少し過ぎたあたりで、史郎が店から上がってきた。

「おかえりなさい。あ!鍵、持っていかなくてすみません」

「いやいや、俺が取りに行くって言ったじゃないですか」

 話しながら、先刻預かったキーケースを、紗良は史郎に返した。

「じゃ、交換で、これ」

 史郎はポケットから、別の鍵を一つ渡してきた。

「合鍵です。持っててください」

「……いいんですか?」

「どうして?しばらくは同居人です。持ってないと不便でしょう」

 細かいところまで気づいてくれる史郎に、紗良は礼を言った。

「あ、合鍵代……」

 慌てて財布を取りに行こうとする紗良を、史郎は笑って引き留めた。

「いいですってば。あ、良い匂いだなー、夕飯ですか?」

「あ、はい。もう少ししたら仕上げしますね」

「待っててもらっちゃってすみません。じゃ、掃除と戸締りだけちゃちゃっとやっちゃうんで」

「はい、いってらっしゃい」

 玄関先で史郎を見送り、また部屋へ戻った。




 食器を準備しようとしたところで、紗良は自分の携帯が鳴っていることに気づき、反射的にギクリとする。表示を見ると、案の定夫からのメールだった。


(見たくないけど……、無視はできないもんね)


 1回深呼吸して、メールを開いた。あっさりした短い文章だった。


『今日、離婚届もらってきた。記入する前にお互いの両親への報告をどうするか話し合いたい。明日の仕事終わりに家まで来て欲しい』


 もう用紙をもらってきてくれたのはありがたいが、話し合いのためとはいえ、紗良はあの家に行くのは気が進まなかった。明日、と言っているから、早めに返信を送らなくてはいけない。


『離婚届ありがとうございます。相談の件わかりましたが、場所は外じゃダメですか?』


 送信後、すぐ夫から返信が来た。


『みっともない話を人がいるところでしたくない。家じゃ駄目なのか』


 夫からの返信を読んで、紗良はがっくりする。


(あんなことがあった家になんか行きたくないよ……。どうしてあの人は、そういうの分かってくれないんだろう)


 そして体裁ばかり気にする。そういうところに付いていけなくなったのだ、と改めて気づいた紗良は、思い切って今心に浮かんだことをそのまま返信した。


『あんなことがあった家に行くのは嫌です。どうしてもというならメールで相談を済ませましょう。お互いの両親にそれぞれ報告する、ということでいいですか?』

『メールなんかで済ますつもりか。大体お前今どこにいるんだ』

『言いたくありません』

『離婚届、俺の分書いた後どこへ届ければいいんだ』

『私の分もあなたが書いて提出してくれて結構です』

『うちの親は俺が話すだけじゃ納得しない』

『知りません。あなたのご両親でしょう、あなたが納得させてください。とにかく家に来いというなら私は行きません』


 最後の文章の送信が終わると、夫の返信を待たずスマートフォンをロックし、夕食の仕上げに取り掛かるため、紗良はキッチンへ向かった。

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