32.突然
「で、明日は紗良さんどうします?」
「明日は平日なので出勤します。離婚の件は今週いっぱいは夫からの連絡を待つつもりです。それでも何も言ってこなかったらこちらから連絡してみようかな、って」
「ここから通勤、大丈夫ですか?遠回りになりませんか?」
「ありがとうございます。全然大丈夫です」
「良かった……」
「あの、週末にはアパートか何か探しますので、それまでお世話になってもいいでしょうか。本当に図々しいお願いなんですが」
「週末?何言ってるんです」
「え?」
紗良は史郎の真意が掴めず戸惑ってしまった。しかし史郎は、何のことはない、とでも言いたげに続ける。
「ずっとここに居ていいんですよ?あ、狭いですけど」
「そんな!ずっとなんて、ご迷惑でしかないじゃないですか」
「そっか。じゃあ更紗さんが他にアパートを借りたとして、心配で仕方がない俺は閉店時間を早めて会社まで迎えに行って、アパートまで送り届ける。離婚の決着がつくまでは夜中も心配ですねー。パトロールしましょうか?ご近所を」
と、史郎はとんでもないことを言い出した。紗良は狼狽える。たとえ冗談だとしても聞き流せない。
「あの、史郎さん私……」
紗良が言いかけると、内容を察したのか『ストップ』というように手の平を出した。
「あなたの自由を奪うつもりはないです。ご自身でご自身の人生を作っていきたい、と言ったこと、ちゃんと覚えています。ただ、少しでいいから紗良さんの役に立ちたいんです……、ダメですか?」
「本当にありがたいんですけど、あの、さっきも言ったように、夫が史郎さんを私の……その」
「愛人だと誤解する?」
紗良が口にできなかった単語が、史郎の口からはあっさり出てきた。恥ずかしくて下を向き、頷く。
「夫は思い込みが激しいし、私が否定しても信じてくれないだろうし……、万が一史郎さんが怪我をしたり、お店に迷惑がかかるようなことがあったら」
史郎は煮え切らない紗良にこれ以上我慢が出来なくなった。隣へ移動し、今一度紗良を抱きしめる。
「だから……、そのまま信じさせればいいじゃないですか。俺はあなたが好きなんです。さっき、紗良さんも俺の片想いじゃない、って言ってくれた。だったらそれでいいでしょう」
言うと、さっきよりもずっと強い力で抱きすくめられ、紗良は緊張のあまりぎゅっと目を閉じた。しかし気が付けば、紗良も史郎の背に手を回し、おずおずとだが抱き返していた。
「裏切られたと、ご主人はショックを受けるかもしれません。でも今はご主人の心情は後回しにしましょう。本気で離婚を希望して、これからはご主人とは別の人生を望んでいるなら、一緒に居たほうがいい……。違いますか?」
言い終わると、史郎は腕の力を緩めてそっと紗良を離す。
(どうしたらこの人と自分の距離は縮まるんだろう)
史郎としては昨日家に泊めた時点で、喫茶店の店主と常連客という枠からは飛び出したつもりだった。せめて頼れる友人くらいには思われていたかった。しかし紗良にとっては違うのか。あくまで夫の挙動を心配している様子をみると、まだ紗良の心の中では自分より夫のほうが存在感が大きいのか。
苛立ちで、つい要らぬ言葉を付け加えてしまったが、しかし紗良の決意の強さを知りたい。家を出てきたのも、ホテルを取りながら自分の家に来たことも、紗良自身がどうであれ周囲から、特に史郎からはどういう意味をもって見られるのか、自覚してほしかった。
史郎は、紗良の顔にかかった髪を指で丁寧に掻きあげる。驚いて紗良が顔を上げた瞬間、頭を引き寄せ、深く口づけていた。
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