29.疑問
「勘違いじゃ、って……」
あっけにとられた紗良にくすっと微笑むと、改めて史郎は荷物を持って立ち上がった。
「込み入った話は帰ってからしましょう。こんなインスタントじゃものたりないでしょ?いい豆ありますから、コーヒー淹れますよ」
そういうと、さっさと部屋を出て行ってしまう。
紗良は手荷物と部屋のキーを持って、史郎を追いかけた。
◇◆◇
当日予約だったため、今日の分だけ支払うと残りの日数はキャンセルし、ホテル前でタクシーを拾って茜亭へ向かった。
(さっきの、どういう意味……?)
紗良は史郎の言葉が気になって、ずっとドキドキが止まらない。気を付けないととんでもない希望的予測をしてしまいそうで、必死で悪い想像に切り替えている。それでも、隣に座ってあれこれ気を使ってくれる史郎を見ていると、悪く解釈するのも限界が来る。
「はーい、到着しましたー」
運転手の声で紗良は我に返る。気が付けば茜亭の前だった。
「2500円ですねー」
そうですか、と財布を出そうとする史郎を、紗良は全力で押しとどめる。
(まさかこれまで払う気?!)
「だだだだダメです!自分で払いますので!」
戸惑う運転手に現金でぴったり支払うと、史郎には荷物を出してもらうよう頼んだ。
店の裏口から上階の史郎の部屋へ上がる。
(またここに来るとは思わなかったな……)
本当に店が閉められているのをみて、申し訳なさがより一層募った。
「昨日の今日なので代わり映えしませんが、どうぞ」
「すみません本当に……。お邪魔します」
史郎は紗良のスーツケースを奥の部屋まで運んでくれた。紗良は出されたスリッパを履いて中へ進む。
「時間があるときに紗良さんのスペース作りますね。とりあえず着替えするときはバスルームかそこの部屋使ってください」
着々と紗良の生活準備を進める史郎についていけず、思わず史郎の腕を両腕でつかんだ。
「あのっ……、少しお話させてもらっていいですか?」
「……そうですね。俺せっかちで。その前にコーヒー淹れましょう。飲みながら話しませんか?」
紗良は史郎の提案に頷き、勧められるままソファに腰を下ろして史郎を待った。
◇◆◇
「おまたせしました」
昨日同様、いい香りが漂ってきて、それだけで紗良はほっとして体の力が抜ける思いがした。
「ありがとうございます」
「いえ……。で、お話、って」
「はい。あの……メッセージにも書きましたが、夫には離婚の意思を伝えてきました。納得したかどうかわかりませんが、私が家を出る時に後で連絡するというメモが残っていたので、私の気持ちは伝わっていると思います」
「そうですか、大変でしたね……」
「大変……、そうですね、ちょっと」
夫とのひと悶着を思い出し、紗良は自嘲的に笑う。物理的に夫と距離を取ることが出来たためか、思い出しても先ほどのような吐き気に襲われることはなく、ホッとした。コーヒーを一口飲んで、続ける。
「夫と離婚する理由は、昨日史郎さんに言ったのと同じです。誰かに判断を委ねず、自分で考えて決めて生きてみたい。いい年をして今更ですけど……、失敗して痛い目を見たとしても、それも自分で作った傷なら乗り越えられる」
頷きながら聞いていた史郎は、一つの疑問を紗良に問うた。
「でもまさか昨日の今日で家を出てきてしまうとは、思いきりましたね。……何か、あったんですか?」
ビクっと震える紗良と、服の下に見え隠れする傷跡から、史郎は察した。
「ご主人と、何か……?」
「大丈夫です。ほんとに……、夫婦のことですから」
「他人の俺が余計な口出しをする立場にないのは分かっています。でも……、紗良さんにそんな振る舞いをする男が現実に存在する限り、俺はあなたを一人にさせられない」
力強く断言する史郎に、今度は紗良が疑問をぶつけた。
「史郎さん、どうしてそんなに心配してくれるんですか?」
紗良には、その理由が全く分からない。予想すら出来ない。
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