23.齟齬

 翌朝、店に出る前の史郎に礼を言って、紗良は家に向かった。

 どういえばいいのか、どう言ったところで多少もめることは覚悟しなければならないだろう。無断外泊したとはいえ、それだけを以て離婚を切り出されるとは、夫は想定していないはずだ。


 帰る道すがら、紗良はあれこれ説明の仕方、切り出し方を考えてみる。しかしどれもしっくりこない。


(離婚したい、という気持ちは、どう胡麻化したって変わらない。だったらそのまま伝えるしかない)


 うっすらと考えがまとまりかけたところで、マンションの角へさしかかる。ふと顔を上げると見慣れた車が地下駐車場へ入っていくところだった。紗良は運転手の横顔を見て息を飲む。


 夫だった。


 家で待っているものとばかり思っていたので、まさか向こうも外出していたとは思わず驚く。しかし、だから何の連絡もなかったのかと合点がいった。


(丁度帰ってきたところなら良かった。このまま話そう)


 場合によっては話だけしたらまた家を出るつもりだ。着替えなど最低限の身の回りの物を持ってホテルへ行こう。幸いまだ午前中だから探す時間はたっぷりある。もう史郎に迷惑をかけるわけにはいかないのだから。


 驚きで止まっていた足を再び進め、自宅へと向かった。


◇◆◇


 自宅玄関のノブを回すと、鍵はかかっていなかったようでそのまま開いた。玄関には夫が無造作に脱ぎ捨てた靴が散らかっている。


「ただいま」


 声を掛けながら靴を揃え、そのままリビングへ入っていった。夫はテレビを見ながら、声だけ返事が返ってくる。


「おかえり。遅かったね」


 まるで自分はずっと家にいたかのように振舞う夫に、紗良は内心苦笑する。しかし無連絡で外泊したのは自分だし、家で悶々と待たれているより良かったかもしれない。

 だが、それ無断外泊を謝罪するつもりはない。バッグをテーブルの上に置くと、そのまま夫の斜向かいに腰掛けてテレビを切った。


「おい、見てたんだぞ」

「ごめん、でも話があるから」


 いつもの紗良なら勝手に夫が見ているテレビを消したりしない。昨日から続く普段の紗良からは想像できない行動がまだ続いていることに、夫は苛立ちを隠せないようだった。


「お前なんなんだよ、マジで。話ってなんだよ、外泊したことか?」

「離婚したいの」


 前置きも空白を置かず、紗良は一気に吐き出した。たとえ拒否されても絶対に動かない、そういう強い思いを言葉に込めて。


 夫は呆気にとられ、ポカンと口を開けたまま返事も出来ないようだった。紗良は続ける。

「もうあなたと一緒にいられない。いたくない。とりあえず私がここを出ていきます。色んな手続きは改めて話し合いましょう」

 夫から目を反らさない紗良の強い視線に、一層困惑する。

「……、ちょっと、まてよ、お前。なんで、いきなり……」

「そうね。今まで何も言わなかったから、いきなりって思うわよね、あなたなら。でも私にとっては急な決断じゃないの」

「男か」

「馬鹿じゃないの。言ったでしょ、あなたと一緒にいたくないの。他に理由なんかない」

「一緒に、って……。俺ら夫婦だぞ」

「夫婦って、何?」

「は?」

「あなた、今『夫婦だぞ』って言ったわよね。あなたが言う夫婦って、どんなもの?」

「そんなの……、結婚してるんだから、夫婦だろ」

「それは、婚姻届けを出したから?」

「それもあるけど!二人で一人みたいなもんだろ、夫婦って!家族だろ!誰よりも身近な!」

「私もそう思ってた。でも違った」


 一瞬瞑目し、心を落ち着けてから、紗良は続けた。

「あなたは自分しか見ていない。私のことは、自分に合わせることが出来る都合のいい同居人としか思っていない。違う?」

「そんなわけないだろ!」

「じゃあ私のこと、分かってる?」

「何のことだよ?!分かってるに決まってるだろ、夫婦なんだから!」

「そう。じゃあ、昨日私がどうしてあなたを置いて帰ったのか、分かる?」

「それはっ……、体調が、悪かったんだろ?」

「他には?」

「ほか?」

「そう」

「知らねーよ!それしかメモに書いてなかっただろ!」


 案の定の答えに、紗良は脱力する。メモに書いてあることが全てだと思っていたのか。自分が居ない間、それ以外の可能性を模索しなかったのか。その程度の理解で、よくも夫婦などと口に出来るものだ。


 夫への嫌悪感が加速度的に高まるのを感じながら、帰宅前の恐怖心がどこかへ消え去っていることも自覚していた。


「アルコールが抜けるまでホテルへ行こう、って言ったでしょ。そんなの、耐えられないって思ったから」


 昨日の昼、自分が紗良にその提案をした時のことを、夫は思い出していた。飲酒運転で検挙されることを避けるために思いついた案だったが、紗良が言わんとしていることも半分くらいは考えていた。


「ふ、夫婦だったら、そんなの……」

「私は嫌だったの」

 深呼吸して、紗良はダメ押しをした。

「あなたに触れられたくない」


 カッとした夫は、手元の缶ビールを中身ごと紗良に投げつけた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る